66話 パルテナス大使パティア
長い歴史と伝統を持ち、さらに進歩的な教育に政治体制まで備えた“都市国家同盟パルテナス”は躍進を続けるクロネリア帝国にとって永遠の憧れと言える。
その憧れの眼差しは属州となった今でも変わる事はなく、格別な保護と自治権を与えられ、教えを請うべき教師として、多くの優秀な者が帝国に招かれている。
パティアはパルテナス貴族の子女としてアカデミアで高等教育を受け、将来を見据えた交流のために23歳という若さで、在クロネリア大使として帝国に赴任。
帝国宰相クラウディ公の采配により元老院議員リヴィアスの下に身を寄せていた。
大使の仕事は多岐に渡るが、極論すれば交流と教育。
ご婦人方のお茶会では「うちの息子の嫁に」という言葉を優しい哲学の教えでもって煙に巻き、パルテナスの大使に教わるという箔付けを求める貴族の子供達を相手には民主政のなんたるかを教え諭す毎日。
彼女の日々は平和で充実している。
厚遇を受け、尊敬され、愛されてさえいる。
それでもパルテナスは属州なのだ。
全ては主である帝国の機嫌次第。
地上海を統べる乱暴で強欲なご主人様の機嫌を損ねるわけにはいかない。
パルテナス貴族であり、大使というには若すぎる自分がなぜ帝国に派遣されたのかを彼女は理解している。
知識でも実績でもない。
帝国とパルテナスを血の絆で結びつけるために人身御供として送り込まれたのだと…
パティアは明晰な頭脳を持つ才女ではあるが、年頃の娘でもある。
衆人環視の中、常に誰もが憧れる才色兼備の完璧な麗人として振る舞う事を要求された彼女のストレスは爆発寸前。
パティアの心労をおもんばかったリヴィアスはストレス発散の一助になればと、軽い気持ちで彼女を闘技場へと誘った。
クロネリア帝国の闘技場とそこで活躍する剣闘士にパティアは目を見張る。
パルテナスにも闘技場はあったが、もっと競技的でスポーツマンシップに溢れたものだった。
(こんなにも大規模で熱狂的で野蛮で血生臭いものがあるなんて!
それを皇帝陛下が直々に観覧し、あまつさえ国策として推進しているの?!)
パルテナスが国家としてクロネリア帝国に敗北したのは高度な教育をうけた人々が個々を尊重し、民主的な決定に従った故だ。
各都市はそれぞれに自治権を持ち、各々の事情で判断を下した。
対して帝国は共和制を基盤に持つが帝政である。
号令一下、統率された兵力を一つに集約することで戦争に勝ち続けている。
この違いをパティアは闘技場の在りかたに見つける事ができた。
観客は剣闘士による血みどろの試合に歓喜し、皇帝を讃え、自国の富に愉悦を感じ、精強さを誇る。
なんて、なんてバカバカしく、そしてよく出来た支配構造だろう。
パティアは帝国の恐ろしさに身じろぎし、無意識のうちに両の手で我が身をギュッと掻き抱かずにいられなかった。
己とパルテナスを守ってくれる庇護者がどうしても必要だ。
パティアが剣闘を気にいったものと理解したリヴィアスは何かにつけ彼女を闘技場へ誘い、そこで彼女は運命の相手を見つけ出す。
少なくともパティア自身は運命だと直感した。
その男を初めて見た時“はしたない”とは思ったがその美しい体から目が離せなかった。
アカデミアに飾られていた神話に登場する英雄の彫像を体現したような肉体美。
凛々しく整った顔立ちはどんな苦境にあっても歪むことはない。
試合の度に持ち出される武器は時に古めかしく、時に奇妙で観客の笑いを誘うが、パティアの目には理論的な最適解として映る。
美しく勇敢なだけでなく、彼は知性まで宿している!
貴族の箱入り娘として蝶よ花よと大切に育てられ、故郷を想い、慣れない帝国の地で完璧な良き隣人であるよう振る舞い続けてきた彼女のストレスはまさに限界であった。
そんな彼女が気晴らしに多少羽目を外し、刹那を生きる剣闘士に熱を上げたとして、誰が責められただろう。
パティアはリヴィアスとの縁からヘリオンと既知を得るや、持ち前の献身性と行動力を発揮して側仕えの家庭教師にまでなってしまった。
ストーカーだ、肉食系だとあざ笑うことなかれ。
彼女は遅い初恋ともいえる感情に振り回されて必死だったのだから…
偶然を必然に変え、必然を運命へと昇華させる。
そんな夢見る肉食系女子、パティアがヘリオンの5連戦を観覧していたのは当然の事。
初戦と3戦目で彼の強さに驚嘆し、2戦目では弱き者の命を奪わなくては生きていけない彼の宿命に思わず涙した。
あいも変わらぬヘリオンの強さに安心し、彼女の思考は試合後の事に夢を膨らませる。
どんなお祝いを贈れば彼は喜んでくれるだろう…
これを機会に二人きりで食事でも…いっそ、自宅に呼んで…ダメよ!それはまだ、さすがに早いわ…
彼の事を思えば思うほどに世界は色彩豊かに広がっていき…思考の翼は際限なくどこまでも羽ばたき続ける。
紳士的でスマートなヘリオンのエスコートで愛する祖国パルテナスの大地を踏み、美しい月夜の下で二人は寄り添うのだ。
彼の柔らかな赤毛に触れたら私の指は、心臓は、炎で炙られてしまうかもしれない。
それでも私は構わずに彼の髪を梳くだろう。
だって、二人を祝福する楽団とコーラスまで用意されているのだもの…
大変に盛り上がっていたパティアの夢想は、突然の不協和音によってかき乱された。
「vegur…caecus」
我に返った才女は不協和音の元凶を素早く、知識の中から特定してみせる。
これは…盲目の魔法だわ。
パルテナスは古の神々と竜を祀り、帝国以上に大神との繋がりを強く求める文化がある。
魔法の仕組みを解明しようとアカデミアでは日夜、研究が進められており、パティアもまた、パルテナス貴族の一員らしく魔法について一通りの知識と実践経験を持っていた。
そんな彼女だからこそ、誰よりも早く事の重大さを理解する。
我に返り、試合の成り行きを確認してみれば、そこには彼女がいまだかつて見たことのないヘリオンの姿があった。
彼を覆っていた魔法の黒い霧は役目を果たすと、何事もなかったのように綺麗さっぱり掻き消えたものの、そこに残されたヘリオンの目は閉じられている。
彼女が夢想してやまない甘いマスクは苦悶の表情を浮かべて…いや、これは怯えだろうか?
誰よりも勇敢で理知的で、戦場の成り行きを全て思い通りにコントロールする闘技場の支配者たる彼が、怯えている?
来るな!来るな!と震える声を発して剣を当たり構わず振り回す様はまるで、泣きじゃくる子供ではないか。
あぁ…今すぐ彼の後ろから優しく抱きしめて、安心させてあげたい。
耳元で私がついていると、甘く囁いて…
おっと、いけない。
今はそれどころではないわね。
パティアは意を決して、彼に届けとあらん限りの声で叫んだ!
「ヘリオン!後ろー!」
古代ローマには属州にたいして、貴族の子弟を駐在させ、貴族待遇にてローマの高等教育を受けさせるという融和的外交政策がありました。
彼等は『ホスタゲス(人質)』と呼ばれ、大事に扱われていましたが条約履行の為の保険でした。
ローマ皇帝達のギリシャにたいする憧れは強かったようで、ギリシャはかなり厚遇されていたようです。
本作においては“ホスタゲス”を“大使”として扱っています。ご留意ください。




