62話 メメント・モリ(死を想え)
闘士による剣闘試合の拒絶。
これまでになかった話ではない。
剣闘士はそもそも大半が戦争奴隷であり、クロネリア市民ではないのだから。
自国民ではなく敵戦国の捕虜、敗残兵同士に血を流させ、自国民の高揚に用いる。
出場前の徹底した教練と、勝者へ与えられるささやかな栄誉と財産。
重要なのはムチではない。
アメこそがプライドとアイデンティティを生み出し、他国の捕虜からクロネリアの闘士へと生まれ変わらせるのだ。
不要な無駄飯食いを適切に間引き、優秀な戦士を引き込む仕組み。
これが小闘技場を管轄する、帝国宰相クラウディ公の剣闘にたいする歴史的な認識と見解である。
それにしても、アウグス帝が同席する試合でこの失態は面倒事だ。
ゴズウェルとリヴィアスが新たに報告してきた5人目の勇者候補。
ヘリオンという男の戦意と技術は実に素晴らしい。
いざ試合を目にすれば二人の過大な評価が嘘偽りでないとわかる。
それなのに、この試合はよろしくない。
ヘリオンの未来を案じて、そろそろ口をだすかとクラウディが腰をあげかけた瞬間、手前からスッと手が伸びてそれを制する。
帝国広しと言えど、彼の動きを止められる人物は一人しかいない。アウグス帝その人のみ。
アウグス帝は少々意地の悪そうな光を瞳にたたえて立ち上がる。
機先を制されたか…仕方あるまい。内心の舌打ちを隠し、うやうやしくアウグス帝に先を譲る。
アウグスは子供の頃から目立ちたがりで争いを好む傾向がある。
穏やかで知性に富み、賢帝とまで称された先代とは真逆の性質。
父である先帝トルネウスの名声を払拭したいが故なのだろう、分かりやすい力と成果に拘泥する悪癖が、いつか帝国を危機に陥れるのではないかと心配でならないのだ。
クラウディは苦々しい思いを懐に収めて席に座り直した。
壁にへたり込み、小便で地面を濡らして泣きじゃくる闘士。かたや、試合は終わったとそっぽを向いて首を傾げる闘士。
シラけきった会場では彼らの事以上に今回の興行師の責任追求と、その末路がヒソヒソと語られる始末。
「敬愛なる諸君、教えてくれたまえ!余は彼のオムツを交換するために呼ばれたのかな?」
皮肉たっぷりに皇帝が呼びかければ観客は笑い、喜び勇んで口々に合いの手をいれる。
「否!」
「そうであろう。神聖かつ高貴な遊戯場である闘技場に小水をひっかけられては、寛大な余とて笑みを浮かべてはいられぬ。ちと臭うしな」
「そうだ!神聖な闘技場を汚すな!」
「陛下に小便の匂いを嗅がせるなんて不敬だ!」
「さて、我が友人である諸君を怒らせた罪を償わせねばならぬ」
衆目を集め、観客を掌握したアウグス帝は、ヘリオンへと目を向ける。
「ヘリオンと言ったか」
匠は事の流れに嫌な予感を覚えていた。
この状況で声をかけられれば何をさせられるかは明白。それでも皇帝からの呼びかけを無視すれば事態はもっと悪くなるだろう。
「はっ!」
姿勢を正し、皇帝へと向き直る。
「お前の腕は素晴らしい。余がその名を覚えるほどにな」
「光栄です!陛下」
「残念ながら、ピルムはあまり得意ではないようだが…」
皇帝は満面の笑顔だ。
だが、目が全く笑っていない…怖い、怖すぎる。
「ともあれだ。試合を中途半端にしたままでは続きを楽しめぬ。ヘリオンよ、あれを片づけよ」
“あれ”と皇帝が指し示すのは当然、茫然自失のストゥルトス。
片づけよ…か。
確かにストゥルトスは失態を晒したが人間だ。
散らかしたオモチャじゃないんだぞ。
俺は一度、観客を味方につけて敗者を救った事がある。
そう、奴隷時代に行われたカルギスとの試合だ。
偶然だがあの試合も2戦目だった。
その後のカルギスとの友情を考えれば、あの時彼を助ける事ができてよかったと心底から思う。
ストゥルトスとだって仲良くなれるかもしれない。
生きてさえいれば人には多くの可能性があるのだから…いや、もっと素直になろう。
「どうした?余の命令は難しい事か?」
睨みつけてくるアウグス帝の目が一層細められ、口元の笑みが深まる。
転生後の俺がすでに何人も人を殺しているのは事実。
だからといって無抵抗の相手を殺したいと思うか?
ためらいなく殺せるか?
断言できる。
どちらも否だ。
今までだって不可抗力や正当防衛だったのだと何度も自分に言い訳をして己を納得させてきた。
無抵抗の相手を殺すなんて悪夢だ。
嫌だ。
やりたくない。
「ヘリオンといったな、余の諮問に答えよ!」
貴賓席から見下ろすアウグス帝の冷徹な瞳が試すように睨みつけてくる。
ストゥルトスをどうしたら助けられる?
考えろ!考えろ!
切羽詰まった状況に焦るばかりで頭は真っ白だ。
結局俺は何も言えず、生唾を飲んでかぶりを振る。
「答えられぬか…ならば賢明なる臣民に問うとしよう!」
芝居がかった動作で観客席に呼びかけるアウグス帝
「神聖な剣闘の儀式を汚した闘士にくだされる処分とは!諸君の判断は如何に?」
「剣闘を汚す惰弱者に死を!」
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
会場を覆い尽くす熱狂的なコール。
苦し紛れに俺は両手を広げ、手持ちの武器がない事を皇帝にアピールしてみせた。
せめてもの反抗だ。
「武器がないと言いたいのか。ふむ」
皇帝は俺の返答をつまらなそうに一瞥し、右の手のひらを上に向けて開く。
それだけで後ろに控えた従僕が即座に察し、きめ細かな白布に包まれた短剣を皇帝へと捧げる。
綺羅びやかに装飾された美しい短剣を受け取るや、皇帝は短剣を見せつけるように振り上げ、勢いよく俺の足元へと投げつけた。
ヒュッという風切音が聞こえ、音もたてず地面に突き立った短剣が凶兆を示すように刃を煌めかせる。
「その短剣をお前に下賜しよう。使い給え」
「こ、光栄です。陛下」
「ヘリオン、その短剣と共に古代クロネリアの諺を送ろう『memento mori』その死はいずれお前にも訪れる。
それを忘れるな…という戒めの言葉だ。今のお前に相応しいと思わないか?」
「肝に命じます」脅しか…クソッ!
オドリーの笑顔を想え。
カルギス親子の幸福を想え。
ゴズウェルの苦悩を思い出せ。
ティミドゥスを失望させるな。
ダモンさんの仕事に迷惑をかけるな。
短剣を握れ!これは仕事だ。
(……匠、私が代わろうか?)
ヘリオンの心づかいが辛い。
心担当は俺のはずなのに…
メメント・モリ、死を想え。
その死はいずれ訪れる。
この言葉は姉ちゃんからも聞いた事がある。
もちろん脅し文句に使うような意味としてではない。
「死を意識して今を大切に生きろ」
両親を亡くした時、通夜の席で俺は教わったんだ。
ストゥルトスの柔らかな肉を裂き、内臓を破る感触を、吹き出す血の匂いを、失われる生命の温度を、俺は決して忘れない。
memento mori、死を想え。




