57話 ハインリッヒの法則
怪我を負ったティミドゥスが丁寧な治療を受けられるようトリトスさんに取り計らってもらい、大急ぎで隣家のカルギス邸にオドリーを迎えにいった。
オドリーが怯えているだろうと心配していたが、彼女はティミドゥスの容態を心配し、さらには「私も武器を持っていれば加勢できたのに…」と物騒な事を言い出す始末。
オドリーを守るのは主人の仕事だと言い聞かせて頭をポンポンと撫でて落ち着かせた。
翌朝、パトロヌスであるリヴィアス議員に襲撃を受けた報告を入れると共に、オドリーの身の安全こそ何よりも大切であると力説。
試合が終わるまでの期間、信頼がおける私兵を一人、オドリーの警護として付ける事を苦笑まじりではあったが快諾してくれた。
オドリーの警護にあたる兵士。
彼の名は『クアレス』といった。
二十代後半、パルテナス人に多い暗褐色の髪と瞳、中肉中背、痩せ型で引き締まった体躯。
顔は整っているが、決して目を引くタイプではない。
クアレスは戦争経験者で、斥候や偵察任務を得意とした優秀な兵士なんだとか。
挨拶を交わしてみればリヴィアスの秘書官ティティオさんと雰囲気がよく似た、物腰柔らかく、謹厳実直そうな好人物。
ひとまず信用してもよさそうだ。
「ヘリオン君にマメな連絡をさせようと思ったらオドリーさんにお願いするのが一番早そうだ」
とリヴィアスからは呆れられてしまったが間違いないだろう。
俺の前世での家族は姉ちゃんだけ。
交通事故で早くに両親を失い、姉一人弟一人の二人家族で支え合って生きてきただけに家族を守る、という思いが強いのは確かだ。
オドリーとは残念ながら主従関係だが、俺の中ではれっきとした家族として認識されている。
興行師ウェスパシア・ロマレースが家族に手をだしてきた以上、奴は明確な敵だ。
敵と相対する時、躊躇していてはこちらが危険に晒される。
決意を持って奴を倒さなくてはならない。
雑で面倒くさがりな性根を正すには“戦争を止める”などというだいそれた使命より、家族を守るために必要な事だと実感するほうがはるかに効果的だった。
前世の職場で“ハインリッヒの法則”というのを教わった事がある。
1つの重大事故の裏には29の小さな事故があり、その裏には300のミス、ヒヤリがあるというものだ。
今回はたまたまダモンさんが気を利かして、ティミドゥスが身を挺してくれたおかげで、オドリーの重大事故を防いでくれたが無事に済んだのは偶然でしかない。
この危機に至るまでの課程でいくつもの小さなミスを積み重ねた自覚があった。
特に伝書鳩の実験ついでにオドリーを訓練所まで呼び出し、自分とオドリーを結び付けてしまったのは致命的なミスだ。
重大事故を未然に防ぐため、自堕落でなぁなぁな生活に終止符を打たなくてはならない!
その日から俺は真剣に生活を改めた。
こういう事はメリハリが肝要、というかどうせ長くは続けられないだろうと割り切って試合終了まではきっちりやるぞ、と期限を設けた。
朝は必ずリヴィアスに状況報告し、訓練所で5つの武器に習熟すべく訓練を重ねる。
昼時には伝書鳩を使ってオドリーの周囲に不審がないかを確認。
かなう事ならオドリーに防犯ブザーと見守り用GPSのひとつも持たせたかったが、この世界では定時連絡で満足せざるを得ない。
定刻には訓練所を出て、信用のおける店に限定して毎日違うメニューの食事を買い、家路を急ぐ。
誘拐や暴行を仕掛けてくるような連中は毒の混入も厭わないだろう。
警戒するに越した事はない。
オドリーにも痴漢撃退スプレーやスタンガンの代わりになる護身具を用意したいと思ったが子供でも扱えるという条件が難しい。
オドリーと護身具について相談していたら、警護役のクアレスが腰布からそっと、細身のプギオ(短剣)を引き出し「こちらの重さならおそらく扱えるでしょう。しばらくお貸ししますよ」と言って笑顔で差し出してくれた。
ついでにクアレスの戦争経験を参考にして自宅を要塞化しようと検討してみたが、クアレスだけでなくオドリーからも「やり過ぎです」「外出できないのは困ります」と却下されてしまった。
こうして警備体制と生活リズムを整えた上で、リヴィアスから新たにマジックスクロールを受け取り、戦闘準備は完了した。
あとはトリトスさんと段取りを確認すれば試合を残すのみだ。
さっさと終わらせて安全安心な生活を取り戻そう。
「ヘリオンさん、重ねて申し訳ありません…管理官から試合のプログラムが公正ではないと疑義をかけられ、修正されてしまいました」
5連戦前日、俺は執務室に呼び出され、渋面を隠そうともしないトリトスさんと対面していた。
トリトスさんは先程まで、下位の剣闘を差配する管理官アウロ元老院議員に呼び出され、興行師の職分と剣闘における公平性の意義について、剣闘の始まりである生贄の儀式だった前時代からの講釈をこんこんと説諭されたそうだ。
曰く「魔獣を完膚なきまでに倒した闘士を下位闘士と同格に扱うべきではない。公平とするならば4人がかりないし、複数の戦車と対峙させるのが妥当である」
曰く「興行師が5連戦をやると民に掲示した以上は4人がかりでの試合を5度行わなくてはならない。興行師の職分は剣闘において民を喜ばせ、民との約束を守ることにある」等々……
ウェスパシア側に都合のいい解釈が山盛りてんこ盛り。
さすがのトリトスさんも耐えかねて反論するが、相手は下位剣闘の管理官にして元老院議員。
アウロ議員と同格である小闘技場の管理官リヴィアスは、絶妙なタイミングでシディウス伯の会合に呼ばれていて不在。
リヴィアスという防波堤を欠いたトリトスさんは相当やり込められたようだ。
「初戦の相手を4人、最終戦の相手を3人にするという事でなんとか納得していただきました」
ウェスパシアからすれば初戦でけりをつけられなくても最終戦で間違いなく勝てる公算。
こちらとしては2戦目から4戦目の間に態勢を整えられなくもない…合計10人。
やれなくもない、か?
「トリトスさんの踏ん張りに感謝します。最悪、4人がかりの5連戦、20人を相手にする事を考えれば半分になったわけですから、後は自力でなんとかします」
「力及ばずにすみません。ヘリオンさんにそう言ってもらえると救われた思いですよ」
剣闘士と興行師は芸能事務所とタレントのような関係だ。仕事内容と福利厚生が立場に応じて変わる以上は自力救済が基本。
複数戦になる初戦と最終戦に合わせて、武器の使用順を考える。
「そうそう、今回は武器を5つも使うことになるので、武器の受け渡し役を用意しました。
本人の強い希望でティミドゥスがつきます。試合には参戦させられませんが好きに使ってください」
「ティミドゥス!?怪我は、さすがに回復していませんよね?」
「日常生活もやっと、というところですが本人が是非にと強く希望しまして」
オドリーを助けてくれた彼に無様な姿は見せられない。
ティミドゥスには一番いい席で俺の勇姿を安心して観戦してもらわなくてはならない。
ティミドゥス、君のおかげでこちらも覚悟完了だ!
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