56話 ウェスパシア・ロマレース
「この、無能めが!」
ウェスパシア訓練所管理棟の最奥、執務室に怒声が響き渡る。筆頭剣闘士を抱えるウェスパシア訓練所は帝国屈指の訓練所だ。
その訓練所を束ねる支配者の椅子に座る者…それは残念ながら彼ではなかった。
ウェスパシア訓練所を運営する興行師ウェスパシア・ロマレースは浴びせられる罵倒と侮辱に耐えながら頭を垂れる。
ロマレースは父である興行師ロムルスに付き従い、剣奴の扱いを覚え、経営を学び、関係者や貴族との繋がりを築いてきた。
後はさっさと訓練所を引き継いで、なにかと嫌味混じりに小言を呈してくる親父殿を愛人共々、クロネリア市から遠く離れた地にでも隠居させてやれば完璧。
だったはずなのだ…
それが、それがどうしてこうなった!
彼の父、ウェスパシア・ロムルスは残忍で貪欲、剣奴を扱うに相応しい優秀な経営者だった。
名のある複数の上位剣闘士を買い上げ、ライバルであるブルトゥス訓練所から『筆頭剣闘士アルティウム』まで引き抜く事で訓練所の格を上げた。
有力な議員とも関係を築き、富だけでなく権力をも手にした。
ロムルスは確かに富と権力を手に入れたが、奴隷を扱う興行師という職業は一段下に見られてしまう。
現世利益、金満主義が蔓延するクロネリア帝国においては名ばかりの権威よりも金のほうが力を持つ。
だからこそ、自分よりも貧しい貴族や議員から見下される事に耐えかねてロムルスは名声を欲した。
闘士を発掘し、自らの手で育て上げ、上位剣闘士に引き上げる。
興行師が真の名声を得るにはそれしかない。
経営に長けたロムルスは育成にあまり関心を示さなかったが故、晩年になってそのツケを払う事になる。
彼が苦心に苦心を重ねてようやくモノになった闘士がアンクラウスであった。
ロムレスは初めての成功作品とも言えるアンクラウスに拘泥し、湯水のように金をかけた。
度重なる上位剣闘士の買い上げと、慣れない育成の資金投入でウェスパシア訓練所の経営は次第に厳しくなっていく。
そんな時にウェスパシア訓練所の難局に真摯な表情で手を差し伸べてきた男。
その男こそ、現在ロマレースが頭を垂れ、執務室の椅子にさも当然の如くふんぞり返るパトロヌス、『元老院議員オクタヴィアス・アウロ』
アウロ議員はアンクラウスを褒めそやし、言葉巧みにロムレスを操り、ブルトゥス訓練所が開催した連日の前座戦に参加。
結果としてウェスパシア訓練所は多くの闘士を失う事になった。
次いでアンクラウスの死を目の当たりにしたロムレスは卒倒し、心を病む始末。
ロマレースにしてみれば、父親は自業自得だ。
訓練所が火の車なのもまだ許容しよう。
自分の腕を信じて疑わない彼は、望むところだと奮起できたはずだ。
だが……剣闘士育成設備の導入費、訓練士の紹介料、トドメと言わんばかりにわざわざパルテナスから連れてきた希少なライカンスロープを出場させるための費用まで、ロムレスの著名が入った全額負担同意書と共に一括請求されては、もはや膝を屈するしかなかった。
「お前の剣闘士は奴隷の子供一人まともに連れ帰れないのか!役立たずめ!」
剣奴二人がかりで失敗したのはロマレースにとっても計算外だった。
たかだか子供の家内奴隷にまともな護衛がついているとは…
「聞いとるのか!次から次へと失敗ばかりしおって」
ばかり、とはなんだ。
魔獣カルキノスを采配したのは俺ではなく議員だ。
ブルトゥスの魔獣闘士カサンドラと言えば並の上位闘士ですら歯牙にも掛けない伝説級の闘士。
そんなものをわざわざ巻き込んだこいつの責任に違いない。
魔獣戦の失態までこちらに擦り付ける議員の言説にはさすがに苛立ちを覚える。
おや、待てよ。魔獣戦か…
「議員、先の魔獣戦でのブルトゥス側の功績を逆手に取ってはいかがでしょう」
魔獣戦は明らかに議員の失態だ。
そこを突かれる事を危惧したのか、議員の眉間にシワが寄り、片眉がピクリと跳ね上がる。
「相手は魔獣カルキノスを打ち倒した勇者。ともすれば、我々も魔獣と相対する布陣で挑んでも観客は納得するでしょう」
実際にはカサンドラの活躍で成したのだとしても、魔獣戦で生き残ったのは事実。
観客は細かい事など気にはしないだろう。
「ふむ、魔獣を倒した者は魔獣も同然。というわけか」議員の口元が嗜虐的に歪む。
「いいだろう。その方向でねじ込んでやる。忌々しいリヴィアスの笑顔がひきつる様が楽しみだ」
「よろしくお願いいたします。アウロ議員」
ロマレースの深々とした礼を確認するように見届けて、ようやくアウロは席を立つ。
やっと帰る気になったか…
そんなロマレースの緊張がほどけた瞬間を狙い撃つように叱咤が飛んでくる。
「ウェスパシアの闘士はお前と同様に貧弱で頭が悪い。ワシに頼るばかりではなく、しっかりと策を講じておけよ」
「はっ!こちらでも対策いたします」
もはや体と口は反射的にアウロ議員に服従を示してしまうが、心ばかりはそうはいかない。
奥歯を噛み締め、拳を握り、ロマレースの心は叫んでいた。
どうしてだ!どうしてこうなった!




