31話 女主人ネザリーナとの対決
マンティさんから奴隷の買い方を教えてもらった俺とオドリーは、オドリーの主人である『女主人ネザリーナ』の自宅へと夕暮れの通りを歩いていた。
翌朝に行く事も考えたが、警らや兵が手配される前に出向くほうがいいだろうと判断しての行動である。
すでに主人が決まっている奴隷を買い上げるには金銭などで交渉し、奴隷の売買契約書を受け取らなくてはいけない。
クロネリア市では年に一度程の頻度で戸口調査があり、市民の証明と所有奴隷の契約確認が行われる。
そこで逃亡奴隷や無認可の奴隷の所有が見つかってしまうと大変な事になるそうだ。
ここでまともに生きていくと決めている以上は法に従うべきだろう。
「…そろそろ見えてきます」
俺の住まいから街の中心地へと数ブロック通りを進み、十字路を西に折れて1キロほど歩く。
周囲からは喧騒が減り、いかにも閑静な高級住宅街という風情に変わってきている。
高層住宅は見かけなくなり、一軒一軒のお屋敷の敷地が広い。
この地域に入って明らかにオドリーが緊張しているのがわかる。頑張れオドリー!俺も頑張れ!
オドリーの足が豪奢な一軒家の前で止まった。
「こ、こちらです…」
両手を胸の前で抱え、震える指を必死で抑えようとしている。顔色は真っ青で血の気がない。
「俺がなんとかするから。大丈夫だ」(多分…)
震える彼女の肩にあまり強くならないよう手を置いてやる。
オドリーは驚いたように一瞬ビクッと震えたが徐々に震えが静まっていくのがわかる。
彼女が落ち着くのを待ってオドリーの前を歩き出した。
試合よりも緊張している。
俺も逃げ出したいが、これは新しい保護者になろうとしている自分の役目だろう。
ネザリーナ、対戦相手の顔を知らないのはいつもの事。勝負だ!
気合をいれて門番に話しかける。
まずは逃亡したオドリーを保護したのでそれを引き渡しに来た。という名目で主人へ取り次いでもらう。
オドリーを見やった門番は血相を変えて「ご主人様!ご主人様!」と叫びながら邸内へと姿を消した。
俺はこの間にオドリーの位置取りに気を配る。
身柄を確保されると交渉が難航するのは想像に難くない。
門番や女主人にいきなり腕を掴まれないように俺の左後方、奴隷としてわきまえた距離を保ちつつ、俺が左腕を伸ばせばオドリーへと届くようにしておく。
「あらあら、剣闘士の旦那。よくぞ、うちの奴隷を捕まえてくれました」
肥えた中年女性が先程の門番を従えて、のそのそと現れた。彼女が女主人ネザリーナだろう。
肌には白粉が塗りたくられ、目元は特に派手な化粧でバチバチに彩られている。
頭部と顔の右側は包帯でグルグル巻きだ。
おそらくオドリーの仕業だろう。
これからの交渉を考えると胃がキリキリしてきた。
「さぁさ、旦那にはうちのを連れて来てもらったお礼をたっぷり弾みませんとね」
口を歪めて愛想笑いを振りまいているが目は全く笑っていない。
ネザリーナがこちらに近づいてくると、オドリーは俺の影に隠れようと一歩下がる。
「なにをしているんだい!オドリー!さっさと来るんだ!」
愛想笑いを一瞬でかき消してネザリーナが怒声をあげると、後ろからオドリーの小さな悲鳴が聞こえてきた。
「主人、すまないがこの奴隷を私に譲ってくれないか?」
日本人の匠ではなく、剣闘士ヘリオンの皮を被ってなるべく堂々と見えるように胸を張る。
ネザリーナは訝しげな表情を一瞬だけ覗かせ、下卑た笑みを湛えて答えた。
「おや、外国の旦那はチビで臭いのがお好みなのかい?」ブエッヘッヘという下卑た笑いが漏れる。
オドリーが唇をキュッと噛み締め、救いを求めるように俺の左腕に触れる。
それを見咎めたネザリーナは表情を歪めて怒鳴りつけた。
「この売女が!ちょっと目を離した隙に男にすり寄って!あんたの主人は私だよ!」
眉を吊り上げ、思わず手を上げようとするネザリーナ。ここは我慢だ。今の主人は俺じゃない。
オドリーに価値があると思われないようにしないと。
「逃亡奴隷に300セステ払おう」
声が上ずらないように気をつけ、あくまで淡々と交渉に入る。
チッと舌打ちを挟み、ネザリーナは馬鹿を見るような目でこちらを見下すように話を蹴った。
「この顔の怪我はこいつの仕業ですよ?300じゃ慰謝料にもなりゃしない」
むむむ、出かける前に確認したが俺の手持ちは420セステだ。
ここの食費はかなり安いので、次の試合までの2人分の食費はどんぶり勘定でも20セステあれば足りる。つまり使える額は400セステまでだ。
「なら、350セステだ。チビで臭い娘なら十分だろ?」
あっちがオドリーを貶めるならそれを利用して値引きさせよう。チクリと心が痛むが背に腹は代えられない。
「550出すなら譲ろうじゃないか」
こちらを見据えてネザリーナが返す。
まずい…450の返しに400で決着させようと思っていたのに。
「420セステある。これが今の全財産だ。これで譲ってくれないか?」
会社でもまともな値引き交渉なんてした事はないし、家電を買う時に数百円の端数を切ってもらったくらいの経験しかない。
こじれる前に正直に伝えて誠意を見せるのが関の山だ。
「ご、ご主人様。どうか…」
オドリーも交渉の終わりが近いと悟ったのか、消え入りそうな声で懇願する。オドリーが口を開いた途端、ネザリーナは鬼の形相で睨みつけて怒鳴る。
「オドリー!私はお前に発言を許しちゃいないよ!」
俺の横をすり抜けて手を振り上げるネザリーナ。
俺は反射的に二人の間に左手を挟み込む。
バシッ!
振り下ろされたネザリーナの平手打ちを俺の前腕が受け止めた。
ニイィと、これまでで一番深い笑みを見せるネザリーナ。
「旦那ぁ、奴隷へのしつけを邪魔しないでもらえます?」
しまった!
今のが悪手だったのは俺にもわかる。
「オドリーは私の大切な奴隷だ。旦那がどうしても欲しいというなら1000セステ払いな。それ以下ではあんたには譲らない」
ガマガエルのように大きく口を広げて勝ち誇るネザリーナ。
重要な局面で判断を誤ってしまった…
万事休す。何か手はないか?
こうなったらネザリーナと門番を殺…いや、気絶させてしまおうか?
追い詰められて物騒な考えが脳裏をよぎり、反射的に腰の手斧へ手が伸びた。
ん?手斧の横に結んである腰袋がモゾモゾ動いている。
なんだ?
腰袋が勝手にジタバタ動いたと思ったら、プハッと腰袋から黒いトカゲが顔を覗かせた。
「おはぎ!お前、なんでそんなところに!」
緊急事態だというのに、ちょっと和んで口元が緩んでしまう。おはぎは俺とネザリーナの両方をキョロキョロと眺めて注目を集める。
ネザリーナも毒気を抜かれて、ぽかんと口を開けている。そりゃあ誰だって腰袋からトカゲが出てきたらびっくりするよ。
おはぎはヒュッと袋に戻り、袋の中から一生懸命に何かを押し出そうともがいている。
すると、俺の腰袋からキラキラと輝く緑色の宝石が俺とネザリーナの間にボトッと落ちてきた。
足元に落ちた宝石をサッと拾い上げるネザリーナ。ヘリオンより早く反応したぞ、このおばちゃん。
「ペリドットじゃないか…しかもなかなかの大きさだ」
ネザリーナは目を見開いて宝石を見つめると、これまでに見た事のないうっとりとした表情を作った。
「旦那ぁ、このペリドットとならオドリーを交換しようじゃないか」
一転して柔和な態度を取り繕うネザリーナ。
ううむ、窮地は脱したがこれはヘリオンさんの私物なんだよなぁ。売ってもいいような事は言っていたが…いや、オドリーのほうが大事だ!
「門番!オドリーの売買契約書を持っておいで!走るんだ!」
俺が返事をするよりも早くネザリーナが動いた。
判断が早い。もしかしたらネザリーナはいい剣闘士になれるんじゃないだろうか。
そこからはとんとん拍子で事が進んだ。
玄関ではなく待合室に通されるとお茶まで勧められ、無事に売買契約書に俺の名前を記入した。
オドリーに関する禍根を残さない(具体的には復讐などを企てない)事を条件に、比較的綺麗なオドリーの衣類、下着なども一緒に譲られた。
他に宝石類を持っていないかとしつこく聞かれながら。
なんだろう。ネザリーナには最初から最後まで本当にやられっぱなしだった。
おそらくオドリーの取引も相当ぼられたんじゃなかろうか。
すでに彼女への怒りや嫌悪感も薄れて、凄いおばちゃんだったなぁという感慨のような物があるだけだ。これも計算の内なら恐ろしい人物といえるだろう。
ともあれ、なんとかオドリーをうちに迎える事ができた。養女にしたつもりで大切に育ててやりたい。
暗くなった夜の帰り道、彼女と繋いだ手に力が入った。




