29話 逃亡奴隷オドリー
「うちに戦斧は置いてないな」
ヘリオンの種族を断定したザビア訓練士長はバーバリアンについて簡単に解説してくれた。
丸盾に戦斧、投斧が得意な蛮族で超好戦的な戦闘民族との事。それならばと戦斧の装備を提案してみたが却下されてしまった。
「クロネリア帝国の国民はスマートな物や新しい物を好む。無骨で古い斧は不人気だ。それに大型の戦斧では相手を殺してしまう確率が高い。
剣闘士は見世物であると同時に商品だからな。試合の度に相手を殺していては旦那様も若旦那も頭を抱える事になるだろう」との事。なるほど、ごもっとも。
「代わりにこの長剣を使ってみろ。長さがある分、違和感がないはずだ。お前の推薦者であるゴズウェルナス様も愛用されていたのだぞ」
スパタ、練習してみるか。
戦斧をどうしても使いたければ鍛冶工房に行き自費で作るといい。と助言をもらい、本日の訓練時間は終わりになった。
帰宅前に敷地の端にある鍛冶工房へ寄ってみたがキュクロさんは残念ながら不在らしく、日を改めて出直す事にする。
こうして、俺の訓練所初日はひとまず無事に終えることができた。
話の長い興行師ダモンさん。
優秀な若旦那トリトスさん。
神経質で悪人顔のザビア訓練士長。
印象と名前を結びつけて忘れないように覚えておく。
では、帰り道に夕飯と金庫の鍵を買って、家に帰るとしますか。
おっと、合鍵を作るのも忘れないようにしないと。合鍵がないせいで今の俺の家には鍵がかかっていないのだ。
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商店の前を目立たないように通り過ぎる。
いかにも、お使いを言いつけられた奴隷ですが何か?という風にして。
逃亡奴隷は捕まったらとても酷い目に合わされるから。
奴隷の人生は主人で良し悪しが決まる。
毎日鞭で叩かれるか、実の娘のように優しく扱ってもらえるかは全て主人の機嫌次第。
私を買った50過ぎの女主人は最悪だった。
化粧に使う宝石集めが趣味の強欲ババア。
若い女奴隷を買い漁って、機嫌がいい時は「お前の肌は柔らかくて触り心地がいいねぇ」「髪の艶に惚れ惚れするわ」と囁きながら、いやらしい手つきで体中を弄り、ちょっとでも機嫌を損ねると「肌が綺麗なのは若いうちだけだよ!」と口汚く罵って、髪が千切れるほど引っ張り、背中の皮が破けるほど鞭で打たれるのだ。
ある時、体を触られるのがあまりに気持ち悪かったので指に噛みついたら鞭で打たれた。
その日から触られなくなったけれど、風呂に入れてもらえなくなった。
女主人は私を見る度に「オドル、オドル」(ラテン語で臭いの意)と言って、私の9歳の誕生日に『オドリー』という名前を与えた。
風呂に入れてもらえなくなって以降、与えられる食事の回数は激減し、何も口にできない日も度々あった。
これ以上ここにいたら殺されてしまうと思った私は、庭木の水やりの途中で花瓶を女主人の顔に投げつけて逃げ出した。
奴隷の子は奴隷だ。
産まれた時から私は奴隷で、7歳まで暮らしていた丘の上の神殿の裏にある奴隷市場と、女主人からお使いで出されるこの通りくらいしか出歩いた事がない。
どこに逃げよう…私を助けてくれそうな人…
お使いや側仕えで買い物をした店の主人達の顔を思い浮かべる。
宝石店はダメ。顎に贅肉をたっぷり蓄えた店主はいやらしい目付きで私を値踏みしていたし、女主人は常連の上客だ。
食器屋のおばちゃんならどうだろう。
おっとりした優しげな年寄りだったけど…いや、あのおばちゃんは貧乏だ。
私に同情はしてくれても買い上げてはくれないだろう。
か細い希望の糸ではあるけれど、数日前お使いにだされたこの辺りで、生まれて初めて本物の剣闘士を見た。
ウェーブがかった獅子のような赤髪、ラピスラズリに良く似た深くて青い瞳。
腕が私の体より太くて強そうなその人は、物珍しそうに商店をキョロキョロ眺めていた。
乱暴そうな容姿とは裏腹に仕草や雰囲気は貴族のようになめらかで、騒がしくないのに人目を引く。
その日、彼は屋根に届きそうな大男の剣闘士と連れ立って、食堂の2階のインスラに楽しげに入っていくのを見かけた。
幸運な事に次の日も彼を見かける事ができた。
赤髪の剣闘士はこのあたりでは見かけない氷の結晶を模した紋様の袋を担いで、昨日と同じインスラへと入って行った。
おそらく自宅なのだと思う。
奴隷じゃない剣闘士は金持ちだ。
私のような子供でも知っている。
1回の試合で何千セステも稼ぐのだ。
剣闘士は元奴隷も多いから同情してきっと助けてくれるはず。
空腹で倒れそうになりながら、なんとか2階にあがる。彼の部屋はどこだろう…彼が家にいなかったら?留守で鍵がかかっていたら?
不安でいっぱいになりながら階段から一番手前の扉をこそっと開けてみる。
私は泥棒ではないけれど…ドキドキする!
そんな私の心配をよそに目の前の扉は不用心にも、キィと小さな音を立ててあっさり開いてしまった。
ひ、開いたー!
自分で開けておいてなんだけど不用心にもほどがあるわ。
人の気配は無い。
ホッと安堵の息が漏れる。なんで人がいない事に安堵したのか、自分でも自分がわからない…
そもそもこの部屋は空き家かも知れないし、彼の部屋だとどうしてわかるだろう…私には昔から竜の加護なんてついてないんだから。
それはこれまでの辛い毎日から分かりきっている。
人気のない部屋に立ち尽くした私の目元から涙が滲みだす…いけない!
今は生きるために頑張らなくちゃ!
涙と空腹で歪んだ視界の端で、小さな黒い影がチョロチョロッと動いた。
「ひゃっ!」と悲鳴をあげた私の足元で、首と尾に黄色い斑点のある黒いトカゲがこちらを見つめていた。
黒いトカゲに誘われるようにして、ふらふらと部屋に入ってみる。
玄関には私がすっぽり入れそうな大きな金庫。
そして、傍らにはあの時見た氷の紋様の麻袋があった!この部屋はあの剣闘士の部屋だ!
やった!
トカゲは袋の上に登ると自慢げにこちらを見つめてくる。この子、よく見ると天空の竜サンダー様と同じ色ね。
手のひらサイズのチビだけど。
そんな事を考えたら、チビトカゲはフンスッと不満げに鼻を鳴らした。
運の無い逃亡奴隷の私にはちょうどいいサイズの竜の加護かもしれない。
麻袋の横にある大きな金庫が目に入る。
これも錠がなく鍵がかかっていない…それが解ると途端にむくむくとやましい心が鎌首をもたげ始めた。
あのちょっとカッコイイ剣闘士に助けてもらえたらと思って一心不乱でここまで来たけど、お金が手に入るなら遠くに逃げられる。
どうしよう…どうしようか…
よ、よし!
中を見てみよう。
盗むわけじゃなくて、見るだけ。
そう、見るだけだ。
ぐぬぬっと力を入れて両手で持ち上げようとするが、思ったよりもずっと蓋が重い。
奥が蝶番で留まっているので、両手で蓋を上に押し上げながら、中を見るために体を乗り出す。
顔を下に向けた瞬間にズルッと手が滑り、金庫の中へ顔面から突っ込んでしまった!
顔面を強打!
「もがっ!いだっ!」
ガンッ!今度は蓋が降ってきてお尻を強打した!
「ぎゃひんっ!」
顔面を打ってお尻を挟まれた私は、ババアのお白粉と鉛の匂いがしないだけで安心感に包まれ、そのままのかっこうで意識を失った……




