25話 新居の契約と新たな出会い
明日の朝には訓練所と鍛冶師への手紙を渡す事を約束してもらい、公共浴場の前でゴズウェルと別れた。
その足でカルギスの住むマンション(インスラ)へ向かうと、都合よく2階のカルギスの部屋の隣室が空いていたので1年間の賃貸契約を済ませる事ができた。
家具付きなのでリネンと食器を少し買い足せばすぐにでも暮らせるだろう。
キッチンだが、釜戸は料理というよりも温め専用の小型の物がひとつ。
驚いた事に蛇口が一つ壁から突き出している。
青銅製で原始的な雰囲気だが、現代日本で見かける蛇口とほとんど変わらないのは驚いた。
L字型のハンドルを回せばチョロチョロと綺麗な水が流れ出す。
所謂中世ヨーロッパよりも古い時代に井戸ではなく、蛇口があるなんて本当にびっくりする。
大家の話によると釜戸も水道も2階までの特別な設備で、それより上の階には両方とも付いていないとの事。
トイレも落下式の洋式便器が一つある。
上の階にはトイレもないらしく“おまる”に貯めて翌朝、排泄物のごみ置き場に捨てるらしい。
ただし上の階ほど、それを面倒くさがって窓からバシャーッと捨ててしまい、建物の周りが汚れて困ると大家がこぼしていた。
ヨーロッパのトンデモ歴史話でよく聞く、窓からバシャーは古代ローマ時代からの伝統だったのか…不潔すぎて背筋に悪寒が走る。
風呂は共同で、一階の離れに小型の湯船があると説明を受けた。共同浴場と同じく時間制で男女入れ替え制。
管理人から部屋の鍵を貰い、諸注意の説明を受ける。
この世界の家の玄関もしくは大広間には必ず大なり小なりの金庫が据え付けてある。
うちの金庫は子供が一人入れるくらいのサイズだ。
錠前屋で新しい錠と鍵を購入するのを頭にいれておく。
あとは簡単な買い出しを済ませば一人暮らしの準備完了なのだが…さて、奴隷の件をどうするか。
確かにこの世界では、金庫の番人と家内奴隷(家事全般の専属奴隷)を持つのは一般的な事であり、彼らがいないと日常生活に事欠きそうでもある。
しかしなぁ…と悩んでいたら、カルギス邸の家内奴隷であるマンティさんが扉からひょこっと顔を見せた。
「あら、ヘリオン様こんにちは。こんなところでどうなさいました?」
「こんにちは、マンティさん。実は隣の部屋に引っ越してきまして…」
せっかくなので家事手伝いをどうしようか悩んでいる事を相談してみる。
「ヘリオン様は旦那様のご友人ですし、お隣さんでもあります。簡単な家事程度でしたらお引き受けしましょうか?」と控えめに提案してくれた。
そ、それは助かる!
「いくらくらいで引き受けていただけますか?」と値段交渉を持ちかけようとしたら「ご主人様のご友人からお気持ち以上はいただけません」と返されてしまったが、俺のほうが無報酬やサビ残は許せない。
ひとまず半月分の食費相当を契約料と称して押し付けるように渡しておいた。
家の鍵は一つしかないので、合鍵を用意するまでの間、日中は扉に鍵をかけないでおく事にする。
盗まれるほどの金はないし、集合住宅なら数日くらいは問題ないだろう。
それよりも俺の悩みの種だった奴隷保有問題の先送りに成功した!
マンティさんありがとう!
こうして俺は、新居でぐっすりと安眠する事ができた。硬い石の床以外の場所で眠るのは久しぶり。
ベッド(キュビキュルム)の寝心地は最高だ!
カビ臭くないし、背中も痛くならない!
1年分の家賃とマンティさんへの契約料、生活に必要な毛布、食器類を購入したところ、食事には不自由しないものの、懐がだいぶ心許なくなってしまった。
ヘリオンさんから売却の許可がもらえたので、緊急用に宝石をひとつだけ持ち歩く事にしよう。
手斧は腰から吊り下げ、それ以外の所持品は麻袋に入れて金庫の横に置いておく。
模様付きの麻袋は少し可愛らしく感じたので持ち歩きよりも家の家具のように使おうと思う。
ヘリオンさんの物だし。
翌朝、約束通り闘技場の牢へ赴くとゴズウェルだけでなくリヴィアス元老院議員も同席していた。
「やあ、ヘリオン君。新居ではよく眠れたかな?
1日早かったが君が新居を用意した上に剣闘士を続けると聞いて、嬉しくてつい来てしまったよ」
相変わらずの胡散臭いニコニコスマイルである。
リヴィアス議員は後見人なので俺の行動を確認するのは権利であり義務なのだが、この人からは俺への妙な執着を感じるんだよなぁ…
かなりの助力をしてくれているのは間違いないが、いまいち信用しきれない。
そんなリヴィアス議員に今後の住まいについてと、これから向かう訓練所の話をすると小言のひとつもなく肯定してくれた。
ゴズウェルから話が通っているのだろう。
「君の活躍に期待している。落ち着いたらぜひ一度私の自宅に遊びに来て、武勇伝をたっぷりと聞かせてくれたまえ」
「ほれ、手紙を2通用意しといたぞ。ひとつは訓練所の経営者で興行師のブルトゥス・ダモン宛て。
もう一つは訓練所及び闘技場の専属鍛冶師キュクロ宛てだ。
二人共ワシとは古い仲だから、おそらく悪いようにはされんだろ」
二人によろしくな、とゴズウェルは笑顔で締めるとリヴィアス議員と共に俺を送り出してくれた。
ゴズウェルの説明を思い出しながら通りを歩く。
位置関係については底辺の広い三角形を想像してみてほしい。
頂点が闘技場で栄えている都市部。
左側、南西が自宅で住宅地区。
右側、南東が訓練所で郊外だ。
闘技場から歩く事40分。
いかにも奴隷剣闘士の訓練所という風情で、奴隷が逃げ出さないようにするためか塀は石造りでかなり高い。
いかつい門に非常によく似合う大柄な門番が二人、こちらを凝視している。
彼らに近づき、訓練所の主『ブルトゥス・ダモン氏』に面会の希望と手紙を持ってきた事を伝えて入口で待機する。
早足で戻ってきた門番に通され、いくぶん成金趣味な広間を通りすぎて執務室へと案内された。
執務机に向かい座っているのは、身なりの良いまるまる太った小柄で割腹のいい60代の老爺。
髪は薄く、頭頂部がかなり寂しい。
鼻が高く、立派な口髭をたくわえている。
体型とは真逆に眼光は鋭い。
やり手の大商人という雰囲気だ。
「はじめまして、ヘリオンさん。あなたを探しておったのです。所属不明、出自不明の連勝剣闘士である貴方をね」
出自不明はいいとして、所属不明?
俺は確か、帝国の所有物とか言われていたような…
「何にせよ、あなたが私の元に現れたのは私にとって非常に幸運な事でした。あ、失礼。私宛のお手紙をお持ちだとか。拝見しても?」
名前も名乗らずにずんずんと話を進める彼は、かなりせっかちなのだろう。
名前を確認してダモン氏に手紙を渡す。
広げられた羊皮紙を読み進むに連れ、彼の手はふるふると震えだし、声まで震わせて彼は呟いた。
「ヴィ、ヴィクトリウス・ゴズウェルナス…」
ゴズウェルの本名はそんなに長い名前だったのか。ダモン氏は感極まってしまったらしく、顔を真っ赤にして目頭を押さえる。
「彼は生きていたのか…これほど嬉しい事はない」
えぇ?いや、めちゃくちゃ元気ですけど?
「ゴズウェルナスがこの訓練所を去って7年程になるか。彼を探し続けたが消息が掴めなかったのだ」
まぁまぁ近所に住んでます。はい。
「あの、ゴズウェルさんはここの剣闘士だったのですか?」
黙りっぱなしというのも悪いので合いの手を入れてみると、ダモン氏は充血した目をカッと剝いて、こちらを睨みつけた。
「知らずに付き合っていたのか?彼は帝国最強の筆頭剣闘士にして、勝利を制する者『ヴィクトリウス』の称号を冠する帝国最高の訓練士だぞ?」
ひ、筆頭剣闘士?!
ゴズウェルさん?
お風呂であんなにへにゃへにゃ顔をしてたのに?!
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