25話 ユピテルの死
クロネリア帝国第一の格式を誇り、七竜を祀るカピトリウム神殿。
夜の帳が下りた境内は静寂に包まれ、石畳を踏む夜番の足音だけが、時折コツコツと遠く響いては闇に吸い込まれていく。
カピトリウム神殿には本殿から伸びた細道に、それぞれの竜を祀った小庵がある。
『ユピテル宮』即ちそこは、天空と雷を司る竜サンダーに仕える巫女ユピテルの為の離宮となっている。
ユピテル宮奥の間、質素だが手入れの行き届いた私室のベッド(キュビキュルム)に横たわる巫女ユピテルは一人、最後の時を迎えようとしていた。
指先から徐々に感覚が失われ、身体が鉛のように重くなっていく。呼吸は浅く、吸い込む空気が肺の底まで届かない。それでも、彼女の心は凪いだ湖面のように穏やかだった。
「私は幸せ者だ……十四の時からサンダー様にお仕えして六十年になるかいね。私が辛い時や悲しい時、サンダー様はいつだって雷のように駆けつけて……心の雨が止むまで、じっと寄り添ってくださったもんさ」
老婆が誰にともなく、掠れた声で呟いた刹那、
ピシャッ!
と、雲一つない夜空を鋭利な刃物で切り裂くように一筋の雷が落ちた。轟音はなく、ただ純粋な光だけが部屋の中を一瞬だけ真昼のように照らし出す。
「そう、こんな風にね……」
フフッと力なく微笑み、一度、二度、三度目の瞬きをすると眼前には、天井に頭がついてしまいそうなほど巨大な黒い竜が姿を現し、老婆をまっすぐ見つめていた。
黒曜石を並べたような硬質な鱗に、雷光の名残を帯びた瞳。人間など容易く踏み潰せるほどの圧倒的な威容を持ちながら、その眼差しはこの上なく優しい。
「あぁ……凛々しい立派なお角、サンダー様。来てくださったのですね」
「そなたが不安に思う時、我は必ず側にいると、何度も言い聞かせたろう」
神殿よりも巨大な主の、あまりに細やかな心遣いが嬉しくて。長年仕えた主の、気遣わしげに揺れる黄金の瞳が可笑しくて、つい笑みが溢れてしまう。
「サンダー様、私はもうこんなにしわくちゃなお婆さんですよ。不安も、恐れも、ございませんとも」
「我には……神殿を駆けては転び、祝詞を撒き散らしていた、あの可憐な童女とあいも変わらぬ姿に映っておる」
そんな事もありましたね……ユピテルは懐かしさで視界が歪む。
濡れた彼女の目元に巨大な主の爪が近づくと、まるで壊れやすいガラス細工を扱うかのようにして、優しくそっと涙を拭ってくれた。
硬く冷たいはずの爪先から、じんわりと温かい何かが伝わってくる。
「一緒に…そう、一緒に帝都の空を飛び回った事がございましたね。あれはもう……本当に本当に愉快な事でございました」
「神官共の慌てふためく姿、ほんに痛快であったわ。口うるさい神官長が腰を抜かしておったな」
思い出話に花を咲かせると、老婆と巨大な竜は懐かしむように目を細め、主従揃ってコロコロと笑い合う。
けれど、ふとユピテルの表情が曇り、視線が宙を彷徨った。
「……御神託の、祝詞と鍵…作れませんでした。それだけが心残りにございます」
彼女の主人であるサンダーとの会話はどんなに些細な戯言でも、それは神託である。
新たな勇者の為にマジックスクロールと鍵の製作を命じられていたのだが、彼女はそれを果たす事ができなかった。
神託を受けたユピテルは幾度となく筆を取り、粘土をこねようと懸命に努力したのだが……
筆を取れば指先が震え、鱗を縫い留めようとすれば針が見えない。まして土をこねるなど出来ようはずもなかった。意に反して動かない、醜く老いたこの体が厭わしく、惨めな思いに駆られる。
おそらくは最後になるだろう、大好きな主人からの命を全うできないなんて……
そんな彼女の気持ちを察してか、眼前の巨大な竜はゴロゴロと雷雲のように喉を鳴らして大笑するのだ。
そして――――
「やはり、そなたは出会った頃と何一つ変わらぬ」
きょとんとして、何の事かしら? と首を傾げるユピテルにサンダーはニヤリと口角を上げる。
「書き取りの宿題を我に、本当に雷なんて起こせるのかと問うて燃やさせた事があったであろう。真っ黒に焦げた羊皮紙を前に、そなたは『これで遊べる』と無邪気に笑っておった」
古い記憶が蘇る。幼い日の自分、雷の熱、焦げた紙の匂い。そして、呆れながらも許してくれた竜の顔。
「そなたは今尚、愛くるしい童女のままよ」
「まぁ、それは悪い巫女ですわね」
少しだけ頬を赤らめたユピテルを安心させるようにサンダーは続けた。
「そなたが気に病む必要はない。そなたの任は全うされたのだ……あの書き取り以外はな」
「では、大神の元で励まなくてはなりませんね」
「……ユピテルよ、恐れはないな?」
「愛しい主人が見守っていてくださる……恐れることなど、何一つございますまい」
―――私は本当に幸せ者だ。
意識が遠のいていく。身体の重さが消え、ふわりと魂が浮き上がるような感覚。
視界が白く染まる中、最愛の主人の姿だけが鮮明に残る。
「そなたの為に雨を降らせよう……悼む涙の代わりにな」
「サンダー様、そんなに立派な角をお持ちなのに困った事…泣かないで…私がいま…拭って……」
伸ばした手は空を切り、けれど確かな温もりを感じて、彼女の手は力なくシーツへと落ちた。
人も獣も寝静まる夜半、中天に浮かぶ満月を囲むように幻想的な光の輪がかかっていた。
月暈と呼ばれ、古来より吉兆と呼ばれる現象である。
その月暈を切り裂くように一筋の雷が天を割いた。
天空と雷の巫女ユピテル逝去。
その日から三日三晩、季節外れの雨が降り続いた。それはまるで、天が慈しむべき娘の死を惜しんで流す涙のようであった。
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本日2月06日(金)から2月22(日)までの17日間、17時30分に毎日投稿します。
スケジュール
06金曜:武器物語25話
07土曜:うちの姉ちゃん〜コンビニ編
08日曜:うちの姉ちゃん〜テコの原理編
09月曜:武器物語26話
10火曜:うちの姉ちゃん〜洗濯編
11水曜:武器物語27話
12木曜:うちの姉ちゃん〜コンクリート編
13金曜:武器物語28話
14土曜:うちの姉ちゃん〜バレンタイン編
15日曜:うちの姉ちゃん〜ローマのプリン編
16月曜:武器物語29話
17火曜:うちの姉ちゃん〜雪玉編
18水曜:武器物語30話
19木曜:うちの姉ちゃん〜『蜻蛉切』編
20金曜:武器物語31話
21土曜:うちの姉ちゃん〜猫の日前日譚
22日曜:武器物語・特別短編
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