衝撃に震える朝がきた。
ふくらはぎが痛い。緊張してるからなのか、足に変な力が入ってる気がする。ここでは絶対お行儀よく!……と念じていたけど、やっぱり無理そう。気になってもぞもぞしちゃう。
きっと昨日の夜、競歩並みの急ぎ足で坂道を上ったからだ。あんなので筋肉痛になるなんて普段の運動不足が悔やまれる。
ちらりと視線を投げれば、真っ白な紙が見えた。補佐官様は、判を押す書類に目を通すのに集中してらっしゃるみたいだ。うん大丈夫、気づいてない。
私はこっそり息を吐き出した。その、瞬間。
「――――呼び出した側がお待たせしてすみませんねぇ。
疲れてしまいました?」
反射的に吐いた息を吸い込んで、私は首を振る。補佐官様に謝られるなんて畏れ多い。ていうか、ほんとに隠すつもりで息を吐いたのに。補佐官様は鋭すぎる。
「だっ……大丈夫です……!
気を散らせてしまって申し訳ありません!」
「お気になさらず。書類はこれで最後ですから。
ああ、お茶のおかわりはいかがです?」
「全然大丈夫ですどうぞおかまいなく……!」
「そうですか……?
じゃあ、あと少しだけ待って下さいね」
「はいっ。いくらでも待てますっ」
思わずビシっと背筋を伸ばして声を上げた私は、次の瞬間から胃がキリキリ痛む思いをすることになった。
ふんわりとした笑みを浮かべる補佐官様が私を呼び出した理由を、まだ教えてもらえてない。だから向けられる表情が柔らかいと、その分余計に不安が募るんだよね。この方、にこにこしながらエグいことを平気でする印象しかないんだもの。
やっぱり昨日の夜、王城近くで声を荒げちゃったのがマズかったんだろうか。「財産燃やす」とか言っちゃったし。あれはさすがに物騒過ぎた。私が警備の騎士だとしても、そんな奴がいたら絶対に拘束するよ……。
どうしよう……クビにならないよね……?
「――――ぷっ」
「ふぁっ?!」
思考の海から引き揚げられた瞬間、苦笑いしてる補佐官様と目が合った。
「何か思い当たることでも?
今のところクビにするつもりもないですし、減給も異動もありませんよ」
「こっ……?!」
声に出てましたか?!
「ええ、半分くらい。
それにしてもクロエさんは面白いですねぇ」
脳内が筒抜けなことに愕然としている私を見て、くつくつと笑うのをやめない補佐官様。怒られるよりは断然いいけど、これはこれで釈然としません。しかも“今のところ”って言いましたよね。
「さて」
視線を上げれば、補佐官様が机の上で書類をトントンと揃えているところだった。
執務机からカップとソーサーを持った補佐官様がやって来て、向かい合うようにしてソファにかける。滑らかな動作はしたたかな獣のよう。きっと補佐官様のご先祖様は毛並みの艶やかなクロヒョウなんだろうな。
私のご先祖様はどんな獣だったんだろう。気にしたこともなかった。もう尋ねる人もいないから分からないけど、ちょっと気になるな。一般的に商売に長けてるのはキツネだっていうけど……でもウチの場合は失敗しちゃったし、キツネではなさそう。
「クロエさんに、いくつかお尋ねしたいことがあるんですよ」
ぱちん、とシャボン玉が弾けるみたいに我に返る。そうだった、今は補佐官様に呼び出されて執務室に来てるんだった。
「ここ数日……特に昨日の夕方から夜にかけて、のことですが……」
ぎくっ。
反射的に肩が揺れる。昨日の夕方から夜にかけて……心当たりがありすぎて辛い。顔が強張るのを止められないまま、私は補佐官様の目を見つめた。
「は、はい」
「不審な男と接触しませんでしたか?」
「……え?」
思わず小首を傾げてしまった。あの時、不審だったのは他ならぬ私自身だったよね。もしかして目撃した人が、大声上げてる私を男と勘違いしたとか?
……それはさすがに悲しいものがある。
「おかしいですね。
報告を聞いた限りでは顔見知りかと……」
うん? 顔見知り?
「あの、夜中に大声出してた不審者とか、そういうんじゃ……?」
「いいえ?
あなたの部屋の真下をうろついていた不審者についてですが」
「は、えぇぇっ?!」
驚きのあまり、変な声が突いて出た。信じられない、嘘でしょ、そんなことがあったの。いろんな衝撃がごちゃまぜだ。
だけど混乱する一方で、そんなことをしそうな人間が思い当たる。このタイミングでそんな場所でそんなことをしそうな、しょうもない男を知ってる。
「補佐官様、その不審者の名前、分かりますか……?」
知りたいけど知りたくない。
複雑な気持ちを胸の奥に押し込めて尋ねれば、補佐官様が何かを感じ取ったらしく小さく頷く。そして彼が口を開いた時だった。
執務室のドアが規則的に3回、ノックされた。
補佐官様が、来訪者を部屋に入れてもいいか確認に来た侍女さんに許可を出す。すると短い返事を残して踵を返した侍女さんと入れ替わりで、誰かが入って来た。
私の背後にドアがあるから、それが誰なのか分からない。侍女さんも「いらっしゃいました」と言っただけだった。いつも思うんだけど、補佐官様付きの侍女さんは類を見ないくらいに無愛想だ。鉄の仮面を貼り付けたみたいに。
「――――おや」
補佐官様の声が、珍しく弾んだ。楽しそうで、ちょっと驚きを含んでいるような声。振り返ることが出来ないのが、すごくもどかしい。
誰が来たのか気になって気になって、膝の上に置いた手がぷるぷる落ち着かなくなってきた。今すぐ振り返りたい衝動を抑えながら、耳をそばだてる。
「間に合いましたか。
しかし……これはまた、ずいぶんと……」
「……どうも」
この声。そして、からかうような声色の補佐官様に対して不機嫌さを隠すこともない……究極に目上の方にこんな対応が出来る人なんか、私の身近には1人しかいない。
先輩だ!
私はそれまでの良い子っぷりをかなぐり捨て、勢いよく振り返った。そしてそのまま白い騎士服のてっぺんに付いてる顔を見上げ――――絶句した。
だって、だって! 先輩があの長くて黒い綺麗な髪を、ばっさり!
も、もしかして私が昨日あんなこと口走ったから……だったりして……。
面喰って言葉を失った私を、先輩が鼻で笑う。照れ隠しとかじゃなく、ほんとに見下す方のやつで。いつもなら文句のひとつでも言ってやるところだ。なのに私は、口をぱくぱくさせるばかりで何も言えなかった。
ていうか、なんで勝ち誇ったような顔をするの。昨夜の無表情無口っぷりが嘘みたいなんだけど。結局、寮の部屋に帰る前にかけた「おやすみなさい」のひと言すら無視されたんですけど。あれは一体何だったの。
頭の中を言いたいことがぐるぐる回る。回りすぎて言葉が出てこない。
すると静観していた補佐官様が、苦笑混じりに口を開いた。
「とりあえず、かけて下さいます?」
素知らぬ顔の先輩が腰を下ろすと、ソファが沈んで体がちょっと傾く。バランスを取るつもりで先輩から少し離れたら、今度は面白くなさそうに鼻を鳴らされた。まったくもう。体がぶつかったら、それはそれで嫌そうにするんでしょうに。
なんか腑に落ちないけど、とりあえず補佐官様のお話をちゃんと聞こう。先輩のことは猛烈に気になるけど集中しなくちゃ。仕事中だもの。
私は咳払いをして、居住まいを正した。
「では……」
「もうあなたの耳にも入っているでしょう……」
今までの不穏な空気が消えて、いたって真面目な雰囲気が漂う。なんだか置いてけぼりな気分になりつつも、私は黙ってふたりのやり取りを見ていた。
「昨夜の不審者の件でお呼び立てしました。
クロエさんご本人は、ピンとこなかったみたいですけど」
「まあ、そうでしょうね。
調書は? 追い払って終わりじゃないですよね」
「まだ持ち出しは出来ないので手元にはありません。
でも……」
言葉を切った補佐官様が、胸ポケットから小さな紙を1枚取り出した。私に向けて、さらりとテーブルの上を滑らせる。そこに書いてある文字の羅列を見て、私は溜息を隠せなくなってしまった。
ザイル……金貸しの息子で、子どもの頃からやたらと絡んでくる面倒で嫌な奴。王城で問題を起こすなんて呆れ果てた。そこまで考えなしの馬鹿だったなんて。
「やはりお知り合いでしたか。
これは私の本意ではないのですが、念のために尋ねておきますね。
ザイルという男と、なんらかの約束事をしていたりは……?」
「なんらかの約束事、ですか?」
よく分からないけど遠回しな表現をされた気がして首を傾げると、補佐官様は苦笑混じりに頷いた。ですよね、とでも言いたそうに。
なんだろう。ちょっと腑に落ちないです。どういう意図の質問だったんだろう。
「合意があったかどうか……。
君の部屋で会おう、っていう話があったかどうかだよ」
「いやいや、まさか!」
超絶に機嫌が悪いことを前面に押し出した先輩に耳打ちされて、さすがの私も大きく首を振る。そんなもん、あってたまるか。一瞬にして鳥肌が立ったわ。
先輩が苛立ちを振り払うみたいに首の後ろに手をやる。昨日まで揺れてた、黒くて優美な馬の尻尾みたいな髪の束はもうない。
癖になっちゃってるのかな、なんて思って見ていたら、ちょっと気分が落ち着いてくる。一度立ってしまった鳥肌は消えなかったけど。
「まあ、そんな言葉を使って自分の正当性を主張したようですが。
……このテの不審者には、よくある言い訳のひとつですね。
結局、被害らしい被害もないので厳重注意だけで解放したそうです」
ぞわぞわする腕を擦っていると、補佐官様が背もたれに体を預けて溜息をつく。そして鬱陶しそうに前髪を掻き分けると、再び口を開いた。
「普通の王城勤務者相手なら、それで構わないのですが……。
いかんせんクロエさんは王女付きの子守ですしねぇ」
「いや……その心配は不要ですよ。
この子を通じて美味しい思いをしよう、っていうのは無理があります。
なんたってポンコツですから」
「そこなんですよね。
クロエさんにそこを要求するなんて無謀すぎます。
それこそ王族の嫁か何かにでもならない限りは……」
悪口大会じゃないですか! いくらなんでも貶されてることくらいは分かりますよ!
なんかもう、聞くに堪えない。どうせポンコツですよ。ていうか、部屋に忍び込まれそうだったんだから心配してくれたっていいじゃないの。私も気づかなかったけどさ。
「――――あ」
「――――え」
心の中でぶちぶち悪態をついていた私に、ふたりの視線が突き刺さる。それまでの悪口大会から一転、なんだか疑いの目を向けられてる気がするんだけど……それは私がポンコツだから、なのでしょうか……。
思わず体を引いていたら、先輩がおそるおそる口を開いた。よく見たら補佐官様も顔が思いっきり強張ってるんですけど。
え、私、何かしましたっけ。
「君、蒼鬼のことが大好きなんだよね。
会いたくて会いたくて、震えるくらい好きだったりする?」
「もしかして、あわよくば愛人になってやろうとか思ってます?」
……目が点になるって、こういうことでしたか。




