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名前は呼んでやらない。







生みの母は私が小さい頃に亡くなったし、父と育ての母は焼け落ちる屋敷から逃げ遅れて先日亡くなった。親戚なんて、両親の遺産が自分たちの手には渡らないと知った途端に手のひら返し。「クロエちゃんは大人だから、もう独りでも大丈夫だよね!」なんて。揃いも揃って、財産のことばっかり。

だから今の私は天涯孤独、自由の身。火事で焼けちゃったから、文字通りに帰る場所もなかったりする。まあ、もし家が残っていたとしても即座に解体して、残った土地も売っぱらっただろうけど。




そんな私が二度と会いたくない、と思っている相手が、あろうことか寮の前に佇んでいる。気だるげに、ものすごく場違いな雰囲気を漂わせて。

あっちはまだ、私に気づいてない。気づいていたら、どこから来るんだか分からない自信に満たされた顔で、勝ち誇ったようにニヤニヤしながら近寄って来るに決まってるもの。


「せ、先輩。着替えるのやめて、このまま食べに行きません……?!」

「……は?」


怪訝な表情をした先輩の視線が、私の顔と手元を行ったり来たり。

そりゃそうだろう。絶対にアイツに会いたくない私が、先輩のシャツの裾をがっつり掴んでシワシワにしてるんだから。だけどそんなことに構ってられないくらい、私は切羽詰まっているわけで。


「いやあの、すっごくお腹空いちゃって。

 ノルガさんと立ち話してる間、待たされたからだと思うなぁ!」

「はぁ……?」


嫌そうに顔を歪めた先輩が、私の目を射抜くように見つめてきた。探るようなその視線に、ただでさえ落ち着かない気持ちが暴れ出しそうになる。出来れば、今すぐに背を向けて王城に駆け込みたい。あそこには蒼の騎士団の本部もあるし、絶対に安全だから。

でも、そんなことしようものなら先輩が怪訝に思うに決まってるもの。せっかく王城で働けるようになったのに、この立ち位置が危うくなるようなことは起こしたくない。

先輩! お願いだから今すぐ街に下りようよ!


ところが先輩は首を縦に振ることもなく、半泣きになってシャツを引っ張る私の手をベリッと引き剥がした。そしてそのまま、ちらりと視線を投げる。もちろんその先にあるのは、寮の前に佇む人影だ。


「なんだか知らないけど、行くよ」

「やっ、ちょっ……」


引っ張られた勢いで体が傾く。口では踏ん張ってるつもりでも、足は流れに逆らえなかったらしい。どんどん寮が近づいてくる。

嫌だ。やばい。どうしよう。心臓が口から出そう。


「クロエ、もういいから口閉じて」


無理、ほんと無理!






ビタン、ベタン、と石畳を叩くような足音に気づいた男が顔を上げる。

半ば引き摺るように歩かされていた私は、もう見たくもなかった顔を前にガチガチに固まった。もう一歩も近づける気がしない。

すると、容赦も情けもなく私を引っ張っていた先輩が足を止めた。いやたぶん、私が鉄の塊よろしく固まったからだけど。


あとちょっとの距離から、男が駆け寄って来るのが見える。あの顔はきっと、ここにいるのが私だってことに気づいてるんだろうな。

思わず息を飲んだ私に、先輩が視線を寄こす。でも声をかけるほどの間もなく、男は私の目の前にやって来ていた。


私を見据えて駆けて来た男の目が、一瞬先輩の方へと流れる。そして怪訝そうな表情を浮かべたと思ったら、すぐに私に向き直った。人を不快にさせる笑みを浮かべて。


「……よぉ、クロエ。急にいなくなるから探したじゃないか。

 今は王城で働いてるんだって?

 まったく、働き口なら俺が用意してやるってのに」


小さい頃は典型的ないじめっ子。成長してから会う機会も少なくなって疎遠になったと思っていたのに、天涯孤独な身になった途端に上から目線であれこれ指図してくれて。構わないで、って言ってるのに。ほんとにもう……。

ああ、やっぱり私、この男が苦手だわ。


子どもの頃からのアレコレを思い出したせいか、私は頭に血が上るのを感じながら口を開いた。


「誰から聞いたのか知らないけど……。

 この辺りは無関係な民間人は立ち入り禁止なの。

 今すぐ帰って。もう放っておいてよ」

「無関係じゃないだろ、幼なじみなんだから」

「私は馴染みになったつもりは一切ありません。

 昔も今も、ずっと、私とあんたは赤の他人でしょうが」

「相変わらず辛辣だなぁ」


売り言葉に買い言葉。抑えきれずに滲んだ嫌悪感にも、男はまったく動じない。だから嫌なんだよ。何を言っても、こっちの言いたいことが伝わってる気がしないんだもの。


心の中で唸りながら、思わず奥歯を噛みしめた時だ。先輩が私の手を、くいくいっと引いた。

そういえば手を掴まれて、無理やり連れて来られたんだった。今まで振りほどく余裕もなかったけど、もういいよね。


ところが。離して下さい、と言おうとして見上げた私は、喉元まで上がってきていた言葉をごくりと飲み込んだ。私を見下ろしてる先輩の顔が、笑みを浮かべてるのに目だけ笑ってなくて。

……補佐官様みたいですよ、って言ったら絶対怒るから黙ってよう。


すると、いろんな気持ちをお腹の中に収めた私に先輩が耳打ちした。


「あとでじっくり聞かせてもらうから。

 コレ、ひとつ貸しね」


先輩と補佐官様って、根本的には同類なのかも知れない。





「――――君」


一応あれで私に断りを入れたつもりなのか、先輩が一歩前に出る。

短い付き合いだけど、この人が頭のよろしい騎士なのは分かった。だから変なことはしないと思うけど、すごく心配で。私は思わず繋がれたままの手を慌てて引っ張った。


「先輩っ」

「相手が素直に警告を聞かない場合、騎士は実力行使も許されてる。

 ここは、そういう場所なんだが」


無視か。


「だから、幼なじみを訪ねて来ただけなんだって。

 何もかも売っぱらって消えたから、ずっと探してたんだよ!」


あんたも余計なことを。


「幼なじみねぇ……。

 “赤の他人”って言われる程度で?」


溜息混じりに呟いた先輩の顔から、張り付けた真面目騎士の仮面がボロッと落ちた。

しかも、どこか小馬鹿にしたような言い方をするものだから男の口元が引き攣る。険しい表情を浮かべた男は何か言いたそうに息を吸い込んだけど、唇をわなわなと震わせただけ。

そういう奴なんだよね。勝てない相手のことは見ない振り、勝てる相手のことはどこまでも追いかける。すぐそばに思い通りになる人間がいないと気が済まないから。

……なんで私の周りは、そんなのばっかりなのよ。


結局、男は先輩には反論しないまま私に視線を移した。


「仕事なら紹介してやるって言っただろ」

「だから言ったでしょ?!

 あんたの家の使用人になるのだけは絶っっ対イヤなの!」


胸の中に溜まりに溜まった感情が、言葉を後押しする。

ちょっと声を荒げちゃったけど、もういいんだ。賢い先輩のことだから、きっと王城に来る前の私のことなんか想像出来てるだろうし。右からも左からも困難がやって来るなら、迷わず会話の成り立つ方を選びたい。少なくとも、今より苛立ったりすることはなさそうだし。


ちらりと仰ぎ見れば、先輩が眉間にしわを寄せている。

私はちょっと同情した。1日働いて疲れてるっていうのに、こんなことに巻き込まれちゃって。なんだか申し訳ない。


……全部失った時に王都を出れば良かった?

でもあの時は一文無しに近かったから、どこにも行けなかったんだもの。

じゃあ幼馴染みの家で働けばよかった?

いやいや。金貸しの跡取りで粘着質な男の下僕同然になるなんて、絶対無理だ。精神的に死んじゃう。


「もーやだ……」


再び視線を男に投げた私は、思い切り溜息をついた。別に目の前の男が全部悪いわけじゃないのに、すごく悔しくて悲しくて。鼻の奥が痛い。


すると何を思ったのか、男までもが溜息をついた。なんだかすごく、深刻な表情を浮かべて。


「やっぱり。上手くいってないんだろ?

 お前に王城勤めなんて無理だと思ったんだよ。

 意地張ってないで、もう帰って来いって……」




悔しいけど、何も言い返せなかった。散々ポンコツ呼ばわりされてるし、さすがに“ちゃんとやってる”なんて言えないもの。

私は、それまで頭の中を沸騰させていた熱がスッと引いていくのを感じていた。先輩が頷いたらどうしよう、なんて。そんなことも考えた。


「……だからウチで働け、って言ったのに」

「でも私は……」


押し黙った私をどう思ったのか、男が肩を竦める。

どうしよう。反論したいけど、“嫌だ”の一点張りじゃ延々とこのやり取りが繰り返されるだけだし……。


終わりの見えない会話に気が遠くなりかけた時だ。

先輩が、失笑した。


「いやいや、クロエはよくやってるよ?

 上の人達からも相当気に入られてるし。ね?」

「え、えと……」

「まあ本人は、まだ自信がないのかも知れないけど。

 謙遜が過ぎるのも考えモノだよ、クロエ」


思ってもないことを!

珍しく褒めちぎられ、さらには肩も抱かれてしまっては腕にポツポツと鳥肌が……。ああああ、腕を思いっきり擦りたい! 先輩のばか!


危うく頬が強張りそうになったところで、とっさに顔を伏せる。変に勘のいい男が訝しがったら、元も子もない。

“着替えたい”って言うだけあって、ぴったりくっついた先輩から汗の匂いがする。いっぱい遊んだあとの王女様とも、違う匂い。なんかちょっと、ドキドキしちゃいそうで嫌だ。

変に意識しすぎるのも良くないだろうから、せめてあんまりくっ付かないように微妙に離れてみる。


その途端に、先輩が“余計なことするな”と言わんばかりに私を引き寄せた。


「引き抜き交渉を持ちかけるのは、君の自由だ。

 でもパートナーである僕は、クロエを手放す気はないよ。

 これでも信頼して一緒に仕事をしてる」


先輩の肩に頭をぶつけながら聞いた言葉に、顔が熱くなる。

ものすごく恥ずかしいことを、なんでサラッと言えちゃうんだろう、この人。しかも絶対に思ってないことなのに。詐欺まがいもいいとこだ。


「ああ、それから一応言っておくけど。

 クロエの雇用主は、誰とは言えないけど国王陛下に近しい方々だ。

 強引なことをして敵認定されたら、即座に報復があると思っていい。

 あの人達の身内愛を舐めてかかったら悲惨な目に遭うよ。

 ……これは、今までいろいろ見てきた僕からの忠告ね」

「え、と……?」


男は、きょとん、としたまま口を半開きにして目を点にした。言われた内容が難しかったか、それとも理解して頭の中が真っ白になったか……。たぶん両方だ。なんとなく、自分に不利だってことは分かったっぽい。

すると追い打ちをかけるようにして、先輩が口を開いた。


「クロエは今、そういう場所で役割を与えられて働いてる。僕と。

 だから“幼なじみ”の君でも、彼女が嫌がれば近づかせられない」



そう言った先輩の横顔は、今までにないくらい騎士らしくて。ほんのちょっとだけど、補佐官様やオーディエ王子様とも臆せずに対峙出来るわけが分かった。

……守ってもらった、っていう実感付きで。









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