美味しいご飯になんて、釣られませんから!
明らかに顔色を窺う素振りに、私は盛大な溜息をついた。どれくらいかというと、体中の空気を集めて吐き出してやったくらいの盛大さ。渾身の溜息です。
先輩が小さく溜息をつく。私は、いつもの仕返しとばかりに、つーん、とそっぽを向いてやった。おかしいな、こんなにするほど恨みが募ってるわけじゃないと思うんだけど。でも、なんだかイライラが治まらなくて。
自分の中に燻ってる変な気持ちに気づきつつ、ちらりと先輩を見遣る。シルビアさんとの舌戦を乗り切って、さすがの騎士もお疲れみたいだ。
でも労わるつもりはない。そりゃそうだ。まるで恋人みたいな密着具合で“こういうことだから”って。しかも、そう言われてもシルビアさんは食い下がったんだよ。私、使われ損じゃない。後輩の用法、間違ってますよ先輩。
……ああ、イライラする。
「だいじょぶー?」
王女様が繋いだ手を引っ張った。大人ふたりが作る変な空気に気づいたのかも知れない。我に返った私は、急に恥ずかしくなって思わず苦笑してしまった。
そのあと、マナーのお勉強を終えた王女様が絵本を読んで聞かせてくれたんだけど……。もしかして慰めようとしてくれたのかな。
……うん、あんまり深く考えないようにします。
「――――考えたんだけど」
ふいに声をかけられた私は、咄嗟に視線を上げた。
なんやかんやあった今日も無事に子守が終わって、さあ部屋に帰ろう、っていう時のことだ。空が夜の色に染まりかけてる。
「え? 何を?」
先輩と何か話してた記憶はない。何か考えないといけないようなこと、あったかな。思わず小首を傾げれば、彼は頬をひくつかせながら言った。
「お詫びに、食事でも。迷惑かけちゃったし」
その言葉に、王女様と一緒に過ごして忘れていたことが思い出される。居たたまれません、と言わんばかりの表情を浮かべて目を逸らすんだもの。そんな先輩を見せられたら、私の方こそ恥ずかしくて気まずくなるっていうのに……!
「……ん?
今、何て?」
ぶわっと頬に集まりかけた熱がみるみる引いていくのが分かる。
すると先輩が、ちょっと戸惑った様子で口を開いた。
「いやだから、お詫びに食事を……」
「奢りで?」
ちょっと前のめりに尋ねれば、先輩の足が少し後ろにさがる。
「へ?
あ、うん……まあ……」
「やったー!」
「……なんか、騙された気分だ……」
飛び上がる勢いで喜んだら、ぽかん、としてた先輩が次の瞬間ものすごく苦そうな顔をした。すみませんね、だって炊事が一番苦手なんだもの。
その時だ。石畳に伸びる影がひとつ増えた。私のそれの、すぐ真横に。
今は家路を急ぐ人が多い時間だから、私は道を譲るために先輩の方に体を寄せた。だけど、近づいてきた影が私を追い抜く気配はなくて。変だな、と思った私が窺うように視線を上げれば、横で先輩が手を上げてて。
「あ。やっぱりキッシェさんだった」
にかっと笑ったその人は、なんだか大型犬みたいな人懐っこさがある。
先輩に会釈したその人は私の視線に気づいたのか、向き直って口を開いた。
「ノルガです。えっと……君がクロエで合ってる?」
「え?
ええと……そうですけど……?」
全然知らない人の口から自分の名前が出ると、なんとも奇妙な感じがする。そんな気持ちが顔に出ちゃってたんだろう、先輩が苦笑混じりに言った。
「ノルガは、アンの旦那さんなんだよ。
……って、知らなかったっけ?」
大型犬みたいなノルガさんは、遅番で働くアンさんの顔を見に王城に寄ったら先輩を見かけて追いかけて来たんだとか。手首にチラリと見えるモノは、たぶん騎士団のコインだ。色は分からないけど、先輩とは騎士仲間ってところか。
「――――で。あれから、そっちはどんな感じ?
今の仕事してると、全然情報が入って来なくてさ」
久しぶりに顔を合わせるのか、先輩が道端で世間話を始める。
お腹空いたなぁ……。でも、ふたりが話し終わるまで、ちょっとの辛抱。このあと先輩の奢りで夕飯だもんね。ひとりで食堂に入るのも躊躇してたから、すごく楽しみなんだ。
そう自分に言い聞かせている間にも、ふたりの会話が弾む。私は静かに石畳を見つめて、空気に徹することにした。
「今のところ、おおむね順調に済んでます。
団長の時代にみっちり巡回した賜物ですね」
「そっか。良かった」
耳に意識を集中させていた私は、内心で首を傾げた。巡回、なんて言葉が出てくる騎士団は、きっと蒼しかない。ノルガさん、蒼の騎士なんだ……!
そう直感した瞬間に、ふたりの会話が全然耳に入ってこなくなっちゃった。蒼鬼さまと面識があるかも知れない、なんて思ったら胸が高鳴るに決まってる。想像だけでこんなに舞い上がれるなんて。もしも蒼鬼さまご本人とお会いする機会に恵まれた時には、私、卒倒するんじゃなかろうか。
「クロエ、口が開いてる」
「ところでクロエは、蒼の騎士団に興味があるとかないとか……」
「あっ、りますあります!」
先輩のひと言に失笑したノルガさんが、私に向かって言って。唐突な質問に我に返って口を押さえた私は、慌てて頷いた。ちょっと勢いがついて前のめりになっちゃったのは、見なかったことにして欲しい。
するとノルガさんは、先輩の顔を見て困ったように笑いながら眉毛を八の字にした。
「アンが言ってた通りだ。
普通に良い子じゃないですか」
「……ポンコツだけどね」
「せーんーぱーいー……!」
どうしてノルガさんがあんな質問をしてきたのか、と不思議に思っていた気持ちが小さな怒りにあっさり掻き消されていく。
せっかく褒めてもらえたのを叩き落とすかのような台詞に、思わず握りしめた手がぷるぷる震えてる。さっきまでの殊勝な態度はどこ行っちゃったのかな、先輩。すっかり忘れてたけど、ちゃんと夕飯奢ってくれるんでしょうね。
そんなことを考えていたら、ふいに先輩が手を叩いた。
「そうだ。さっき図書館で伝言預かってきたんだった。
ミーナとエルに言っといて。本が入ったから、取りに来いって」
「了解です」と頷いたノルガさんは、そのあとすぐに何かを思い出したのか、王城の方へと戻って行ってしまった。ほんとは蒼の騎士団のことを聞きたかったから、ちょっと残念。
その時だ。
「いたっ」
突然おでこに痛みが走った。痛みは全然大したことないんだけど、なにしろ突然過ぎて何がなんだか。
すると面喰った私を、先輩が鼻で笑った。
「何をボーっとしてんの。行くよ。あと口はちゃんと閉じて」
……ほんと、私の顔色窺ってた先輩はどこに行っちゃったんだろ……。
おでこを擦りながら先輩の隣を歩いていると、寮が見えてきた。真っすぐ街に出た方が早いんだけど、先輩が食事に出る前に服を着替えたいんだって。
早く夕飯を食べに行きたい、って文句を垂れてみたんだけど、残念ながら据わった目で「僕に制服のまま街に出ろって言うのか?」って。でもいいんだ。奢ってもらえるなら少しの回り道くらい、へっちゃら。さて、何をご馳走になろうかな。
「キモチワルイなぁ……」
思わず鼻歌混じりにスキップした私を見ても、先輩の機嫌は悪くなさそうだ。相変わらず、ちょっと意地悪だけど。
「何でもいいんですよね?!」
頭の中はすっかりご飯のことで占められてて、先輩の返事なんか全然耳に入らない。浮かれた私は、行ってみたかったお店をひとつひとつ思い出しながら歩いていた……んだけど。
「――――あれ?
珍しいな。寮の前に誰かいるみたいだ」
先輩のそのひと言につられて視線を上げた私は、頭の中が真っ白になった。呼吸をすることすら忘れて、その場から動けなくなってしまった。
もう二度と会うことはない、と思っていた。思いたかった。
「クロエ?」
鼻歌が止んだことに気づいた先輩が、訝しげに私の顔を覗き込む。今までだったら数歩先から、鼻で笑って追いつくことを催促する先輩が。
引き返してくれた先輩のシャツの裾を握りしめた私は、何も答えられなかった。肝心な時に言葉が出てこないなんて、やっぱり私はポンコツなのかも知れない。




