先輩、用法が間違っちゃいませんか。
うへぇ、とでも呻きそうな顔をした先輩が、声のした方に体の向きを変える。のろのろしてるあたり、たぶん会いたくない相手なんだろうけど……。
先輩に合わせて、私も振り返る。一応視線を走らせて王女様の様子も確認したけど、片っぱしから絵本を取っては床に置いてる。あの様子なら、少しだけ背を向けても大丈夫そうだ。……ていうか、そういうのを気にするのが護衛騎士の仕事なんじゃ……。
「やっぱりキッシェくんだ。
よかった、生きてた~」
「あはは、まあねー……」
言葉を濁してる先輩を横目に、私は目の前に立つ女性をこっそり見つめる。
すらっとした美人さんだ。なのに大きなレンズの眼鏡のせいで、なんだか垢抜けない雰囲気がある。その格好と抱えた本の数を見る感じから、彼女がこの図書館の司書さんだ、ってことは想像出来るんだけど……。先輩が顔見知りっていうのが、なんとも腑に落ちない。
「何、今日はどうしたの?
……って。君って護衛騎士になったんじゃなかった?」
「いや、そうなんだけどさ」
「あ、もしかして休み?」
「や、そういうんじゃないんだけど……」
小鳥がさえずるみたいに女性が言葉を紡ぐと、先輩の表情がだんだんと強張っていく。
先輩がチラチラと視線を寄こしてるのを感じつつ、私は素知らぬ振りで佇んでいた。傍から見ている分には、滅多にない先輩の姿を見られるのが面白くて。
すると女性の目が、言葉を濁すばかりの先輩から私に向けられた。
「どうも、こんにちは~」
「こ、こんにちは……?」
「お友達?
私、シルビア。キッシェくんとは仕事仲間だったんだ~」
「……そうなんですか?」
思いがけない言葉に、きょとんとしてしまう。でもすぐに察した私は、ぽふ、と両手を合わせて先輩を見上げた。
「ああ、そっか。
先輩、前は図書館警備の騎士だったんですね。
それで“異例の大抜擢”――――」
「うん?」
小首を傾げたのは、シルビアさんだった。私の言葉を止めた彼女は何を思ったのか、くすくす笑って首を振った。
「違う違う、私達の仕事は図書館司書だよ」
咄嗟に仰ぎ見た場所に、先輩の顔がない。びっくりして視線を移せば、本棚に手をついて顔を背けたまま固まった白い背中が見えた。
「前々から剣の腕は凄いって聞いてたけど、騎士団に入っちゃうなんて。
聞いた時には、ほんっとに驚いたんだから~」
「あー、うん……」
「いやもう、元同僚として鼻が高いよ!」
降参、とばかりに絞り出した先輩をよそに、シルビアさんが頷いている。でも彼女が先輩を絶賛するたびに、白い背中が萎れていくみたいで。
なんか、もしかして。人に知られたくなかったのかな。そうか、だからご機嫌斜めだったのか。……って、子どもか。
それにしても、先輩が図書館司書だったとは驚き……。
にっこにこのシルビアさんと対照的に、先輩の背中がずぶずぶ沈んでいくように見えちゃって。何かに焦った私は無意識に口を開いていた。
「す、すごいじゃないですか!
えっと、こういうの文武両道っていうんですよね!」
ポンコツから片足くらいは抜け出せたはずの私の無我夢中なひと言に、シルビアさんが大きく頷く。にこにこして、先輩との再会がよっぽど嬉しいんだろうか。
「そうそう! 立派だよね!
ここにいた頃は、すっごい虚――――」
「うわぁぁぁっ、シルビア!」
ところが、だ。
嬉しそうに話すシルビアさんの言葉を遮って、先輩が声を上げた。同時に彼女の肩に手をまわしたかと思えば、ぐるんっ、と方向転換する。ちょうど、ふたりして私に背を向けるかたちで。
「えっ、なになに、どうしたのさ~?」
きょとん、としたシルビアさんに、先輩が何やら耳打ちしてる。全然聴こえないし、先輩の表情も見えない。いやいや、そもそも聞きたいとも思ってないんだけど。でも、なんかちょっと嫌だ。何が嫌なのかって訊かれても困るんだけど、なんか見ていたくない。
……内輪の話なんだったら、私は王女様のところに行くかな。一応、挨拶もしたことだし。いいよね。
思わず眉根を寄せていた私は、ふたりに背を向けた。
「借りたい絵本、決まりましたか~?」
「はい、どうぞ。返却は5日後までにお願いします。
10日経っても返却されない場合は今後の貸し出しが出来なくなるので、
くれぐれも注意して下さい」
「わかりました。
……えっと、返却は本人でなくても大丈夫ですか?」
カウンター越しに絵本を受け取った私は、仕事が終わったら自分が返しに来るつもりで尋ねた。すると貸出カウンターのお兄さんが、こくりと頷く。
その細めた目尻にうっすら浮かんだ皺に見惚れそうになりつつ、私は先輩を探した。王女様と繋いでるから、全部の絵本を私がひとりで持つのは難しい。先輩にも持ってもらわないと。
「せんぱー……」
あたりを見回した私は、自分の眉毛がぴくりと動くのを感じて口を閉じる。なんとなく走らせた視線が、シルビアさんと談笑してる先輩の姿を捉えたからだ。
声をかけられてから、ずーっとあんな感じ。正直、面白くない。だって今は仕事中なんだもの。王女様に何かあったらどうしてくれるんだ。
……なんて、ポンコツな私に言われたくないかも知れないけどさ。
久しぶりに会った同僚との時間も大事だろうけど、王女様の予定だってあるんだから。そう自分を奮い立たせて、息を吸い込んだ。
「せ、ん、ぱ、い」
ここは王立図書館。大きな声なんてご法度だ。私は出来る限り抑えた声で、先輩を呼んだ。
すると、それまでシルビアさんの隣に立って難しい顔で相槌を打っていた先輩が、私に気づいて頬を緩めた。そして彼女に何かを言うと、足早にこっちにやって来る。
「助かったよ、なかなか話を切り上げられなくってさ」
「へー」
横に並んで耳打ちしてきた先輩の言葉に、私は適当に相槌を打つ。助かったとか、話を切り上げられなかったとか。そんなのは別にどうでもいいもの。
私はカウンターに積んだ絵本を指差した。冊数こそ多くはないものの、仕掛けがある分厚くて重たい絵本もある。ちなみにそれは、王女様がお母様をびっくりさせたいからどうしても、と強請ったもので。
「じゃ、帰りましょう。
先輩はこれ持って下さいね」
「え、こんなに? ていうか、僕が持つの?」
「お喋りに夢中になってた先輩がいけないんですよ。
相談しようと思ったけど、ふたりで楽しそうにしてるんだもん。
先輩の手、空いてるでしょ?
あ、ちなみに私は王女様と手を繋ぐので!」
「……で!」
「えぇぇ……楽しくなんか、全然してないのに……」
息継ぎもしないで捲し立てた私に、王女様も加勢してくれたらしい。繋いだ手を振り上げて、なんだか楽しそうだ。うん、距離がグッと縮まったようでクロは嬉しいです。
「――――そうだ、キッシェ」
がっくり肩を落として情けない声を零す先輩を見ないふりでいると、ふいに貸出係のお兄さんが口を開いた。
「新しい絵本とレシピ本が入ったから、ミーナちゃんに教えてやって。
旦那が返却待ちしてたのも戻ってきて、カウンターに取り置きしてる」
「あー……そっか……」
先輩が視線をあさっての方へ投げる。その刹那に、ちらりと目が合った気がして、私は内心で小首を傾げた。
「当分、あいつに会う予定はないんだけど……。
でもまあ、会ったら伝えるよ」
外に出た途端、夏の太陽が照りつける。じりじりと頭が焦げちゃいそうだ。王女様に帽子を被らせればよかったなぁ。
そんなことを考えていた私は、ふと思い出して、なんとなく尋ねてみることにした。
「ねぇ、先輩。
さっきの、ミーナさん?……って誰?」
「え?!」
先輩の肩が、びくりと揺れる。
王城の中に入るまでの、暑さを紛らわすための適当な話題のつもりだったのに。そんな反応されたら、ものすごく気になるじゃないか。私は追及してみることにした。ほんのちょっとだけ、困らせてやるつもりで。
「もしかして、昔の恋人とかー?
あ、でも“旦那”って言ってたから……今は既婚者か」
「――――ぐっ、げほごほっ」
「咽るとか、逆にあやしいし……」
思いっきり動揺してるらしい姿を見て、思わず呟く。すると暑さの中でも元気が減らない王女様が、目をキラキラさせて口を開いた。
「ミミのことでしょ?! しってるしってるー!」
「え?
王女様もご存知ってことは……王城関係者なんですかっ?」
びっくりして、目が丸くなる。私は無意識に張ってしまった声を慌てて落としたけど、王女様の目はキラキラしたままだ。知ってることを話したい気持ちが、顔いっぱいに溢れてる。
王女様は、ぶんぶん頭を振って頷いた。
「あのね、ミミはリオ――――」
「うわっ、ちょっとまっ――――」
「あっ、いたいた!」
王女様が得意気に言うのと、異様に取り乱した先輩が小さな口を塞ぐのと……それからさっき別れたはずのシルビアさんの声が聴こえるたのは、ほとんど同時だった。
……いいとこだったのに。なんてタイミングで現れてくれたんですかシルビアさん……。
「……げ。どうしたのシルビア」
私と同じ理由かどうかは別として。どうやら先輩も、彼女の出現はあんまり歓迎したくないみたいだ。思いっきり嫌そうな顔をしちゃってる。そのへんは、もうちょっと取り繕ってもいいような気がしなくもない。同じ女性として。声をかけた相手の顔が歪んだら、さすがに落ち込むと思うんだけど。
ところが私の心配をよそに、シルビアさんは全然へこたれなかった。
「せっかく会えたから、食事でも一緒にどうかな~って!
今日は早番だから、夕方には終わるんだけど。キッシェくんは?」
「む、無理」
「じゃあ明日は? 明日も私、早番だからさ~」
すごいなシルビアさん。鋼の心だ。考える素振りすら見せなかった先輩を、ものともしない。
……でも、ちょっと待って。私も、もしかしたら彼女みたいなことしてるかも。蒼鬼さまのこと好き過ぎて、周りが見えなくなることがあるもの……。
うん、ちょっと気を付けよう。
そんなことを考えていたら。
「――――ひぃ……っ?!」
突然、肩に痛みが走った。口から悲鳴ともつかない声が漏れる。
何が何だか分からないまま視線を投げれば、大きな手が私の肩にあるじゃないか。これ、もしかしなくても先輩の手だよね。しかも思い切り掴んでるらしく、結構な痛さだ。
それでも王女様の手だけは離さずにいたら、今度はまた前触れもなく引き寄せられる。ぐいっと、勢いよく。私と一緒になってステップを踏んだ王女様が、ちょっと楽しそうだ。子どもは予期せぬことにも精神的に強いらしい。羨ましいです。
トン、と当たったのは、掴まれてない方の肩だった。
何にぶつかったのかと視線を走らせる。目の前にあったのは、青い血管がうっすら見える喉。そしてほのかに鼻を掠める、香水の匂い。
……うわっ、近っ。
瞬きをするくらいの間に起きた出来事に、私は思わず息を飲む。出遅れちゃったのは、きっとそのせいだ。我に返った時には、先輩が口を開くところだった。
「ごめんシルビア、こういうことだから無理!」
はいぃぃぃっ?!




