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セロファン師は気が進まない  作者: 九藤 朋
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LVIII

 その部屋は酒瓶がゴロゴロ転がっていた。中央に、仰臥する白髪の女性。陽が部屋の中にまで入り込んで、硝子を煌めかせている。女性の顔は赤く、口からは(よだれ)が垂れている。泥酔していることが窺えた。そこに響く、木靴の音も、彼女の意識を覚醒させはしない。


 たとぅ たとぅ たとぅ


「こんにちは」


 セロファン師の声に、女性がうっすら目を開ける。うん? と彼を見て、瞬きする。


「ああ、あたし、またやっちまったのかい」

「アルコール中毒なんだね」

「重度のね。あんたは、幻覚だろ? これまた、やたら綺麗な幻覚だね。あたし、そんな趣味あったのかい」

「僕はセロファン師。幻覚ではないよ。死ぬ前に、貴方の望みの色を言ってくれ」

 死ぬ前……、と女性はぼんやり繰り返す。それから、じわじわと言葉が沁み入るように、顔色が変わった。

「――――あたし、死ぬのかい」

「うん。急性アルコール中毒でね」

「なんてこった!」

 女性は顔を両手で覆った。アルコールに狂わされた人生だった。結婚しても、断酒出来ず、夫に愛想を尽かされて離婚した。まだ幼い子供の親権は、夫にあった。子供は成長して、結婚、自身の家庭を持ち、一時期は恨んだ母とも交流を持つようになった。


「……この秋には、一緒に温泉旅行に行こうって話してたんだ。酒を、断って。でも昨日は久し振りに旦那と逢って食事して。まだ愛してるなんて言われたもんだから、ついつい浮かれて飲んじまった。旅行に、行かなくちゃならないってのに」


 セロファン師が頭を傾けると、水色の鈴が小さく鳴った。無慈悲に断じる。

「それはもう叶わないよ。貴方は今からセロファンを見る」

 意地悪などではない。セロファン師にそんな感情はない。彼はただ、己の生業を遂行するだけ。女性は震える息を吸った。そして、細く吐いた。


「しゃしゃんぼの花の、白を」

「しゃしゃんぼ」

「春、咲くんだ。白、いや、クリーム色の、鈴蘭みたいな小さな花が。秋には実がなって、食べることも出来る。まだ子供と、旦那と暮らしてた頃、夕方の散歩で一緒に眺めた……」


 女性の頬を涙が滑り落ちる。もう少し。もう少しだけ我慢出来ていれば。また、絆は結ばれようとしていたのに。

 セロファン師が、射干玉色の上着から、セロファンを取り出す。


「しゃしゃんぼの花の色。承った」


 女性が事切れた後、立ち去ろうとするセロファン師の耳に、玄関の鍵が開く音と、男性の声が聴こえた。


「母さん、いるのかい? 今度の旅行のパンフレットを持って来たよ」


 答える声はもう永遠にないと思いながら、セロファン師はドアを一瞥してその場を去った。遠く、泣き叫ぶような声が聴こえた。




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