XXXIV
茶室に一人の老人が端座している。
茶を点てるでもなく、花入れの椿の侘助をじっと見ている。
畳の目を慈しむように撫でて、彼は一つ、吐息を落とした。
たとぅ、たとぅ、たとぅ、と。
木靴を踏み鳴らす音。
ああ、本当に来たのかと思う。
射干玉の服。水色の髪飾り。
涼やかな風貌のセロファン師。
そして告げられる言葉を、自分はずっと待っていたのかもしれない。
「貴方の見たい色を言ってくれ」
「私は、死ぬのだな」
「うん。病院でも言われただろう? 免疫細胞の病気だよ。本当なら今、貴方が病院ではなくこんなところにいるのだって奇跡なんだ」
老人は笑った。苦く。
奇跡と言うならセロファン師の存在こそが奇跡だ。
「私の家は代々、茶道の家元をしている」
「うん」
「昔、好きになった女性がいたが、家格が釣り合わないという、時代錯誤な理由で引き離された」
「うん」
「その彼女は藍染を学び、ブランドを立ち上げて成功するまでになった」
老人は同じ頃、茶道の家元として名を上げていた。
分野は違えど、一線で活躍する二人だったのだ。
そして彼は一度だけ、祝いの花束を持って彼女の元を訪ねた。
彼女は白いペンキ塗りのモダンな店で、忙しそうに立ち働いていた。
その隣には、彼女を見守り、支える男性がいた。
老人は花束を店のスタッフに渡し、そっと立ち去った。
「もう少し、頑張れていればと、最近になってよく思うのだよ」
彼女の笑顔。
それがずっと自分に向けられたままでいられる選択肢はなかったか。
「藍色を、見せてくれ。海のような。空のような」
それは彼女の口癖だった。
藍染の可能性を語る彼女の頬はいつも紅潮していた。
「海のような、空のような藍色。承った」
セロファン師は上着から、びかびか光るセロファンを取り出した。
老人の中で時間が巻き戻される――――。
「終わったのか」
セロファン師が茶室を出ると、待ち構えていた狭霧が問うてきた。
「ああ。聴いていたんだろう? 全部」
「うん。……あのおじいさんは、一生、恋をしていたんだな」
感傷的な物言いに、セロファン師はくすりと笑う。
「さあ、早く帰ったが良い。このままでは君は不法侵入と遺体の第一発見者の名目で、警察に行くことになるよ」
物柔らかに狭霧を促し、セロファン師は一度だけ茶室を振り返った。
侘びと寂びの佇まいの中、思い出を抱いて永遠の眠りに就いた老人がいる。




