XXIII
老人の孤独死など今の時世には珍しくもなく、溢れ返っている。
小さな木造アパートの一室で、今まさにそうした老人の一人が死を迎えようとしていた。風邪が中々治らないと思ったら、どうやら、肺結核だったらしい。
医師にかかる余裕もない老人は、死期を悟った心持で迎えた。
季節は春を過ぎ、爽やかな初夏を迎えようとしている。
死ぬには絶好の時かもしれない。
これが陽の射す昼間なら言うことはなかったのだが。
咳込んだ老人は、枕元に置いたタオルを手に取る。赤く染まったタオルは、老人の余命を物語るようだ。
どこからともなく、不思議な音が聴こえる。
たとぅ、たとぅ、たとぅ。
二階の大学生が騒いでいるのだろうか。それにしては音がリズミカルで規則正しい。
「やあ、こんばんは」
「セロファン師……」
「そう、セロファン師だ。貴方の望みの色を言ってくれ」
「伝説かと思っていた」
「現実だよ。僕の存在は。貴方も今、こうして存在するように。そうして命の灯火が消えようとしているのと同様に」
現実だ、とセロファン師は繰り返した。
こんな僥倖があるのか、と老人は喜びに泣いた。
戦時中には随分と酷いこともした。人を傷つけ、殺し、騙し、奪い。
罰してくれるのに望む色は一つの色しかなかった。
「月のない夜みたいな黒を」
波立たない湖面のようなセロファン師の表情が、僅かに揺らいだ。思案したのは一瞬。
彼は懐から、身に纏う喪服のような黒い服と似た、いや、それより尚暗い色を取り出した。
――――――――永遠に救いのない色。だからこそ安寧に身を委ねられる色。
老人は笑った。笑うと皺が刻み込まれた顔がくしゃくしゃになった。
それから彼は真っ赤な大輪をがぼりと吐いて、それきり動かなかった。
黙って淡々とした表情でそれを見届けたセロファン師は闇夜のセロファンを上着の内に仕舞う。
「相変わらず、しけた面してんなあ」
は、として振り向くと、アパートの窓の外に金髪の青年が二人、立っていた。
一人は皮肉な笑みを浮かべて、一人は冷静な面持ちで。
彼らは二人とも、純白のスーツを着ていた。
皮肉な笑みを浮かべた青年はひらりと室内に侵入すると、事切れた老人の頭をとん、と靴先で小突いた。それを咎めたのはセロファン師ではない。同伴の青年だった。
「やめろ、要」
憂い秘めた眼差しは、次にセロファン師に向けられる。
「ナナが君にほだされたみたいだからね」
「それで今度は君たちが僕の生業を邪魔しにきたと」
「そういうことだ」
「好い加減にして欲しいな」
「互いに仕事だ。そして存在理由だ。そうだろう、セロファン師。いや、零」
セロファン師は眉をしかめた。彼には至極珍しいことだった。
零は知る者とて少ない彼の名前。記号と換言しても良い。それをさも親し気に呼び掛けられるのは不快だった。
「今夜は通達に留めておくよ。行くぞ、要」
「良いのか。佐里」
「またいずれ、僕らは会う。その時は、零。今夜のようにはいかないよ」
風が旋回するように吹いて、彼らの黒と金の髪を乱す。セロファン師の髪飾りの鈴が小さな音を立てた。
セロファン師が前髪を掻き上げると、彼らの姿は消えていた。
月の光が遠い、と思う。
けれどそれに安息を感じる自分がいる。
暗闇を望んだ老人と自分を、セロファン師はしばしの間、重ね合わせた。




