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セロファン師は気が進まない  作者: 九藤 朋
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 荒ぶる海。

 船より大海に投げ出される事故に遭った青年は、何とか救助が来るまで持ち堪えようと必死に浪間を漂っていた。

 夜の空は暗く、こんな時なのに雲間から垣間見えた満天の星空が煌めかんばかりだ。

 こんな夜に。

 こんな夜に自分は死ぬかもしれないのか。

 それは余りに無念ではないか。


 ど、どうと一際大きな波涛が打ち寄せる。


 青年の身体が海に沈まんとした時、それは聴こえた。


 たとぅ、たとぅ、たとぅ、たとぅ、……


 その音は、荒ぶる波の音より確実な死の前触れ。

 セロファン師の噂を、青年も知っていた。


 やがて荒天のもと、海上に浮いて現れたセロファン師。

 見方によっては天上の使いの顕現と見えたかもしれない。

 射干玉の色の喪服。

 髪に艶めく、水色の鈴の髪飾り。

 木靴を履いて。


 嵐をものともせず、ふうわりと宙に浮いていた。

 小首を傾げて青年に、最期に見たい色を尋ねる。

 青年はセロファン師と自分の在り様の落差に憤った。

 だがそんな間もなく波が打ち寄せ、青年の口の中に入る。

 青年はえずいた。

 それから彼はしばらく水面に顔を出していたが、何の色を見たいとも言わず、海中に沈んでいった。


「………」


 そうしたことはあながち少ないケースでもなかった。

 最期に見たい色をはっきり望める人間のほうが少ない。

 こんな時、凪いだセロファン師の心は揺れる。

 微かに、不穏に。虚しく、寂しく。本人に自覚はないが。

 なぜ、最期の色を見せさせてくれないのかと。


「残念だったわね」

 声に振り返ると白いパンツスーツの少女がいた。

 セロファン師と同じく、宙に浮いて。

 金髪、白いパンツスーツの少女は、黒髪、射干玉の喪服のセロファン師とはまるで対になる外見をしている。唯一の共通点が、足に履いた木靴だ。

 金髪が藍と墨色を背景に、黄金の絹糸のように輝いている。


「…君が現れるのは僕のせいなのかな?」

「そうでもあって、そうでもないわ」

「解らないな」

「あたしはあんたに最期の色を言った人で、まだ生きたかった人の無念から生まれた存在。生を求めた心の具現者。あたしはあんたの前に現れることで、それをあんたに思い知らせているのよ」

「僕の為すことに正義も悪もない」

「知ってるわ。そしてあたしの存在に正義も悪もない」

 ふ、と少女の双眸が憐れみに翳った。

 セロファン師の左頬に白い手を遣り、掠めるように口づける。

 それは男女の枠を超えた、無味乾燥な唇の触れ合い。

「同情でキスって出来るの?」

「それを女に訊くのは野暮ってものよ。…またね」


 ざん、ざざん、と鳴る波音に、木靴の音が混じってやがて消えた。



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