平凡な日常 こずりの場合
「それじゃ、今夜の7時に迎えに行くわ」
「了解」
朝靄に沈む街。
しかし、昨夜は綺麗な月夜だったし、降り注ぐ暖かな光が今日も良い天気だと約束してくれているようだ。
「で、その後は?」
「この街1番の高級ホテルに乗り込むの。身代金を持ってね。それが貴方達の最後の仕事よ」
「結局犯人は分からず仕舞いか。情けない」
仕事で潜入していたアラブ首長国連邦での最後の日。
丸1週間かけて捜査していた誘拐事件も、今夜で全てカタがつく。そんな日の朝、こずりは依頼人であり、誘拐された子供の母親でもある元同僚と、モーニングティーを味わっていた。
「いいのよ。お金も犯人もどうでも。誘拐事件は誘拐された被害者が戻って来るのが1番なんだから」
「その意見を否定はしないけど…。ところで、今夜のお供ってどうして私なの?。他の連中なら貴女の為なら、きっと何でもするわよ」
「こずりじゃなきゃ駄目なのよ。貴女は強いから」
「女ならね。でも男で私より強い人間は、いくらでもいるって」
「そういう意味じゃないんだけどね」
「はっ?」
「何でもない」
思わせぶりな台詞に疑問を投げかけても、目の前の女は優美に微笑むだけだ。
「演技でも、夫以外の男と深夜に2人っきりなんて、冗談じゃないわ」
「そういう問題?。それで私に男装させ様なんて思う、貴女の神経が解らない」
「男装似合うわよ、こずり」
「下手なコスプレしてる気分」
「正体を隠すには最適でしょう」
「…趣味を疑う」
「失礼ね。高かったのよ、それ」
「なら、地味めの安い普通の服が良かった」
男装するとは聞いていたが、女がこんな酔狂な衣装を用意しているとは思わなかった。呆れるようにそう言うこずりが身を包むのは、この国の男性用民族衣装のトウブだ。
「こずりは元が良過ぎるんだから、服装が地味だと、姿形が目立つのよ。そのカッコウなら豪華な服を着た綺麗で気障な子供がいる。どこの酔狂な金持ちだって印象しか残らない。それに、それ特注よ」
「それは格別の配慮をどうも」
「いいえ。大事なこずりの為だものね」
「大事ね」
首周りの布に指を這わせ、自分の姿を客観的に眺める。全身や頭髪を緩やかな布で包むその衣装は、確かに性別や素性を隠すには向いているかも知れない。
「でも、コレはないわ」
だが、あらためて目に入る自身のまぬけさな姿に、こずりは本日最大の溜息を吐いた。
「ところで、最後の仕事の前に1つ聞かせてくれる。これって本当にお金目当ての営利誘拐?。それとも犯人の本当の目的は別にあったりする?」
「何故そう思うの?」
「貴女が意外と冷静だから」
「私はいつも冷静な氷の女よ」
「元は、でしょ」
突然のこずりの言葉に、疑わしげな視線を向けて首を傾げる。女のそんな計算されつくした、可愛らしい態度にもこずりは誤魔化されない。
「今の貴女は、家族を愛する普通の妻で母。私を騙したいなら、慌てふためいて泣き叫んだほうが良かったんじゃない。私の正体を隠す努力なんてしてないで」
「それは…」
「それに」
女の言い訳を遮って、こずりは更に言葉を続けた。
「貴女、今回の犯人の正体を知ってるんじゃないの?。ついでに言うと、犯人が子供に危害を加えない事も」
「何の事?」
「とぼけないで。誘拐犯は昔の男?。それともただのストーカー?」
「…昔の恋人よ」
やがて女は誤魔化しきれないとでも思ったのか。案外あっさり口を割った。
「馬鹿馬鹿しい。貴女の息子もとんだとばっちりだ」
「分かってる。だから言いなりにお金も用意した」
「犯人が元恋人なら、欲しいのはお金じゃないでしょ。私は気絶した貴女を介抱して、全身丸洗いでもすれば良いの?」
「そうよ。分かってるじゃない」
「旦那様は知ってるの?」
「知るわけないでしょう」
「ふーん」
「過去は問わない。その条件で結婚したのよ」
「過去は問わないか。それってお金で雇われた傭兵みたいね。もしくは、エルシー・キュービット?」「誰?」
「踊る人形」
「ホームズ?。失礼ね」
アンハッピーエンドで終わる物語の主人公に例えられ、女が眉をひそめ、小さな鼻に皺を寄せる。相変わらず、そんな仕草や表情までが美しい事に、こずりは素直に感嘆した。
「気が進まないなら断ってよ。勘は鋭いくせにやる気のない探偵なんて、迷惑なだけだわ」
「無理矢理忙しい私を指名しておいてよく言う。相変わらずね、女王さま」
思わず怒鳴った女に、貴女の怒りなんて怖くもないとばかりにこずりは余裕の笑みを向けた。
「貴女も相変わらずよ。そんなに私が嫌い、こずり」
対する女の笑いは冷笑だった。
それにイエスと答える事は酷く簡単だったが、こずりは敢えて別の言葉を口にする。
「本当に愛してる?。家族を」
「ええ」
「子供も、旦那さまも?」
「ええ」
「自分が犠牲になってもいい程?」
「ええ」
「そう」
「……」
二人の間に長い時間が過ぎたように思えたが、沈黙はほんの一瞬だった。
質問に質問を返す無礼を許し、素直に答えを返した女に、こずりはゆっくりと話しかける。
「なるほど。貴女が私を指名したのは、私なら貴女が何をしても止めないと思ったから。子供の無事と引き換えに貴女が傷ついても、見て見ぬ振りをすると思ったから。確かに他の、貴女に惚れてる男達ならそんな事は絶対に受け入れない。彼らに頼まなかったのは、正解だ。ついでに見ず知らずの男にも頼めない。二次被害に遭いそうだから。だから貴女は、貴女を嫌っていて、尚且つ女の私に白羽の矢をたてた」「流石ね。その通りよ」
からかう様なこずりの言葉。それに女は様子を窺うように事務的な反応を返す。
「でも、残念ね」
「こずり…」
真相がバレた事で、依頼を断られる不安に駆られたのか、女の声が今日初めて震えた。
「引き受けたからには傷つけさせたりしない。貴女も子供も。この先、勝手な行動は許さない」
そんな女に、こずりは表情一つ変えずに、キッパリと言い切った。それを受け、女の瞳が一際大きく見開かれる。
「こずりっ、ありがとう」
「礼はいらない、仕事だから。貰うものは貰うし」
「そう?。でも嬉しいわ。ちゃんと守ってね、可愛い恋人を」
「……鳥肌たった」
「酷い。泣いちゃう」
「……止めてよ。本気で気持ち悪い」
「はははっ、正直ね。だから好きよ、こずり」
「私は嫌い。でも、仕事に私情は持ち込まない主義だから」
そのまま、2人は軽口を繰り返す。
立場が変わった事でぷつりと切れた絆が、再び強固に繋ぎ直された。それを2人共が感じていた。
「こうなったら何でもやるさ。思いっきり気は進まないけど」
「さすがね。だから好きよ、ダーリン」
立ち上がる女に目を向ければ、輝くような金髪と真っ青な瞳を持つ美女が心底嬉しそうに笑っていた。
「ああ。俺も」
声帯模写は得意だ。こずりは今の姿形に似合った男の声を出すと身を乗り出して、女の手を取った。
「愛してるよ、ハニー。今夜だけ限定で」
そのまま、白く美しい甲にキスをする。
「仕事は完璧にこなすよ。お任せあれ」
「頼りにしてるわ。じゃね」
無理なく自然に男の声を出すこずりに、妖艶な笑みを残し、均整の取れた女の後ろ姿は、惚れ惚れするような完璧なウォーキングで、ロビーの雑踏に溶け込んで行った。
「本当に平和ぼけしたのね。それとも、やっぱりテンパってるのかな」
女の姿が完全に見えなくなったのを確認し、こずりはほんの少しの緊張をその身に纏った。女は気付かなかったようだが、この場所に着いてから突き刺さるような視線をずっと感じる。それは嫉妬混じりのあからさまな殺気。
「貴女が後をつけられてるのにも、見られてるのにも気付かないなんてね」
そんな溜息交じりの呟きに応える様に、通信機が鳴る。こずりはいいタイミングだと、それを取った。
「首尾はどう?」
「完璧。娘は無事に助けたよ。ちゃんと世話してたんだな、元気だよ」
「それは良かった。まあ、かりにも愛した女の産んだ子だもんね」
「可愛い子だ。大人になったらあいつに似て美人になる」
「それはご愁傷さま」
「そっちは?」
「これからよ。じっとりと粘りつくような殺気を感じるわ」
通信機から聞こえる男の声に、安堵の息をもらしながら、こずりが楽しげに言う。
「それは良かった。よっぽどキザったらしい事やったんだろう。鼻持ちならないくらいに」
「あら、抱き締めてもいないし、口説いてもいないわ。だだ、彼女の言葉に応えて、手の甲にキスしただけよ」
「充分だろ」
大胆な行動を、何でもない事の様に言うこずりに男が苦笑した。
「全くあの女、これが本来の目的だったんじゃないでしょうね」
「昔から人を動かす計算は得意な女だったからな」
昔のよしみで、腕利きの探偵二人を良いように動かし、娘を助け、尚且つ邪魔なストーカーも始末する。
昔の女ならそのくらいの計算はした筈だ。
半分は冗談で、半分は本気の嫌味を込めてのこずりの言葉。それに男も同意を示す。
「あんにゃろ。まあ、素直に動く私達も私達だけど」
「仕方ない。子供の為だ」
「しかも貴方にとっては、実の、ね」
「知ってたのか?」
世間話の延長のように告げられた、とんでもない言葉。
それに男は、たった今まで出していた楽しげな声を呑みこんで、硬質な声で答えた。
「ええ。あの女を知る人はこの結婚をお金目当てだって言った。あの女を愛する人はこの結婚を平穏を望んだ結果だって言った。どちらも間違いじゃないと思うけど。でも」
「でも?」
「あの女と貴方を知ってるはみんな思った。この結婚は血液型で決まったんだって」
「そうか」
穏やかなこずりの声に、その心中を悟ったのだろう。男は少しだけ凍った声を和らげた。
「貴方の血液型はマイナス型のAB。そして、あの女の夫も子供のそうよね」
「そうか。知ってたか」
「隠しておきたいなら、少しは表情をつくろった方がいい。彼女の結婚式の時の顔を見れば、聞かなくとも分かる」
どこか同情を含んだこずりの言葉に羞恥を覚えたのか、男は再び黙り込んだ。
それを揶揄する事無く、こずりは話し続ける。
「良かったね。子供を自分の手で助けられて」
「ああ、そうだな。ありがとう」
今回の誘拐事件に協力してくれた事。
全ての真相を呑み込んでくれていた事。
二重の感謝を込めて男は言う。
こずりは勘が鋭い。こずりに悩みを気付かれ、問われ慰められる事を期待している仲間も少なくはない。きっと、あの女もそうだったのだろう。
自分達はいつも、こずりに甘え、こずりはいつもそれを許してきた。
「ねえ。貴方の秘密を知っちゃったお詫びに私も1つ秘密をあげる」
「秘密?」
「昔、仕事を1件しくじったの。誘拐事件だったわ」
「そんな話、初耳だ」
「この名前になる前よ。知らなくても無理ない」
「お前、百戦錬磨だったんじゃないのか」
「私も人間だったって事ね。探偵がこんな事言っちゃ、いけないんだけどね」
「いや、失敗が1つってのは充分凄い」
「そう?。あの時は、今から思うと最初から何もかもがおかしかった。入ってくる情報も、失踪者も、依頼人も、仲間でさえも」
「こずり?」
男に語りかける形をとってはいるが、こずりの言葉は独り言に近かった。その真意が解らずに眉を顰める男に構わず、こずりは語り続ける。
「いなくなった子を探して、探して。見つけた時には遅かった」
「殺されてた?」
「生きてはいた。でも助けられたのは身体だけ」
「どういう意味だ」
「その子ね、記憶を喪ってた」
「そうか」
「うん、だからね。今日は助けられて嬉しい。ありがとう」
思いもよらない結末に言葉を失くした男に、こずりははコレが言いたかったのだと、優しく言葉を発した。
「この先は私が頑張る。犯人を捕まえる訳にはいかないけど、もう二度と誘拐なんて卑劣な真似をしないように。もう二度とあの女に近く事のないように。お仕置きをするわ」
「悪いな。本当は捕まえたいんだろ」
「いいわよ。捕まえたら、誘拐動機までばれちゃうもん。そうなったら後味悪い」
「サンキュ。とびきりのアフタヌーンティーを用意しておく。早く帰ってこい」
「ありがとう。それにしても、これだけ働いたんだから、報酬は弾んで貰えそうよね」
「報酬か。俺は、かの世界的な名探偵に習って、彼女と子供の写真でもねだるかな」
「どうぞ、ご自由に」
夢見る声で呟く男が、脳裏に思い描くのは、手に入れ損ねた愛しい夢か。
それをあえて否定せずに、こずりは通信を切る。
「さてっ」
そうして、影のようにすべらかに動き、こずりは席を立った。このカフェを出たなら、犯人が手を出し易いように、なるべく人気の無い道を歩こう。
あれで、案外優しいところのある女は、こずりの行動を怒るかも知れない。だが、自分自身を犠牲にしようとした女に、何の文句も言わせない。
「さあ、今度は私の番」
強盗、殺人、テロ、スキャンダル。
こずりの世界ではいつも事件が起こっている。この事件もこずりにとっては、ただの日常にしか過ぎない。
「いい天気」
視線の主がついてくることを確認し、こずりはそよぐ風に気持ち良さ気に瞳を細めながら、歩き続けた。
「今日もまた、いつもの1日の始まりね」
目的は1つ。
この馬鹿げた誘拐事件に永遠の幕を閉じる事。




