立ち向かえ神立!-3
口の中が砂の味だ。体はもう、何処が痛いのか分からない。後ろから近づいてくる足音に、天助は体を固くすることしかできなかった。
「あれ、俺言わなかった?」
この声は海靖である。
「三千円じゃなくて、五千円用意しろって話だったんだけど」
天助の太ももに鋭い痛みが走った。海靖が履いてきたのはスパイクだった。
「で、でも、さっき確かに三千円って……」
天助は今日の放課後の出来事を思い出す。いつものように倉庫の裏に呼び出され、夏休みに会うときは必ず三千円を払うように言われたのだ。その後、解散となって帰宅した天助だったが、買い物代行の次に家のインターホンを鳴らしたのは、海靖と央大だった。
公園に遊びに行こうと言われて、天助は迷った。今は金を持っていないのだ。母親にはこれ以上怪しまれるわけにいかない。結局、手ぶらで彼らと公園に来てしまった。当然、始まったのはサッカーでもゲームでもない。お仕置きだった。
「はあ? 言ってねえよそんなこと。頭金すら払えなかった奴が何偉そうなこと言ってんだ」
「でも_____」
ばさばさと頭に砂が降って来る。央大だ。天助は目を開けられなくなった。頭を抱えて地面に蹲っている今、彼には何も抵抗できる術が無かった。それどころか、彼は抵抗しようとしなかった。金を用意できないことへの当然の報いだと、何もかも受け入れようとするのだった。
「これで夏休み明けのお前の運命は決まったわけだ」
央大の声が降って来た。天助はハッとして目を開く。涙が砂を流してくれた。これは痛くて、悲しくて出る涙ではない、と何度も自分に言い聞かせた。
「そうだな。友達料金も用意できないやつは、シンユーにはいらないよな」
「ま、待って」
「当然、お前はクラスでは見向きもされなくなるだろうな。俺らが居たから今までクラスの中心に居られたんだ。本来ならお前みたいな部外者、クラスにすら入れたくなったんだよ」
「海靖……」
天助は首を横に振った。泣いてはいけない。まだ二人とは親友だ。
「嫌だ、俺頑張るから。お金集めるから、お願いだから、親友を辞めないで」
「気持ち悪いこと言うなよ、今更。約束破るような奴はそもそも人として最悪だぜ」
天助の腹に再び海靖のスパイクが食い込んだ。天助は声も出ない。
「まあ、まだ頑張るっていうなら。俺らも鬼じゃないから、待っててやっても良いけど。なあ、央大」
「そうだな」
「ほ、ほんと……?」
天助はかすれ声で問う。まだ望みはあるのだ。彼らはまだ自分を見捨てていないのだ。
「ただし、待たせてる分の料金は払ってもらうからな」
海靖の声が降って来る。
「三万にする?」
「いや、少ない。俺ら結構待たされてるんだ。五万は欲しいところだろ」
「五万、良いね」
天助は目を丸くする。
五万。想像もできないような大金だ。
「五万って……そんなにたくさん無理だよ……」
「へえ。じゃあシンユーには戻れないな」
「それはダメ……!」
「ならとっとと持ってこい!」
二人の足が同時に天助を蹴り上げる。限界だった。天助の口から嗚咽が漏れる。ただ親友で居たいだけなのだ。金さえあれば何も困ることは無いのだ。誰に相談したら良いのだろう。誰に相談したって、怒られる未来が見える。金を盗むことが悪いことなのだ。彼らとずっと一緒に居たいのに、どうしてこんなに難しいのだろう。
「千円も十分に準備できないのに、じゃあ何円なら持ってくるんだよ?」
「友達料金としても安い方なんだからな。五万くらい二つ返事で持ってこい」
天助は何度も頷いた。暴れていると思われているのか、もう攻撃は止まらなかった。
「なーにしてんだー!!」
その時、そんな声が聞こえてきた。二人の攻撃がピタリと止む。誰かの足音が近づいてくる。
「公共の場でそんなお遊びするとは、良い度胸だね君ら!」
それは子供の声だった。天助は目に入った砂のせいでまだ目を開けられない。しかし、この声の主を知っているような気がした。最近、こんな声を聞いたのだ。
「夏にピッタリの遊びを教えてあげるぜ! 気分爽快っ、ラムネのシャワーじゃああっ!!」
次の瞬間、海靖と央大の叫び声が降って来た。
「何すんだ!」
「てめえ!」
二人の怒りが声の主に向いたらしい。天助はわけが分からない。上からぽたぽたと何か冷たいものが垂れてくる。それは、甘い香りがした。
「邪魔すんな!」
海靖の声が遠ざかっていく。
「おっ! やる気があるのは良いことだね兄ちゃん! もう一本行っとく!?」
ぶしゅっ!
今度は天助の服の大分部にも液体が降って来た。同時に海靖の悲鳴が聞こえてくる。
「くそ! おい央大! 行くぞ!!」
二人分の足跡が遠退いていく。天助はそこでようやく目を開いた。まず初めに飛び込んできたのは、真っ青な空だった。白い塊は大きな雲だ。天助は地面に寝転がったままぼんやりと空を見上げる。
「大丈夫?」
突然、視界が暗くなった。天助の顔を反対から覗き込むようにして、少女の顔がぬっと現れたのだ。キャメルのキャスケット棒を頭にかぶり、真っ白なTシャツに身を包んだ少女である。短い髪が後ろで束ねられ、余った髪は顔の横に垂らしてある。何故か彼女は全身が濡れていた。
「……あ」
天助はやはり彼女を知っていた。数時間前に母が買い物代行を頼んだのである。そのときに家に物を届けに来てくれたのは、彼女だった。
彼方もどうやら気づいたようだ。
「さっきの家の子じゃん」
「……代行さん」
「ぴんぽーん。ほい、立てる?」
少女が天助の体側に回り込んで、手を差し出してくれた。天助はその手を掴んで体を起こす。辺りには、少女の他にもう一人居た。それは、やはりあの代行サービスの人間だった。黒い髪に紫のメッシュを入れている少年である。彼の手には、空になったラムネ瓶が二本ぶら下がっていた。
「うっわー、べっとべと」
少女に視線を戻すと、彼女は天助を起こした方の手の指をこすり合わせて顔に苦笑いを浮かべている。
天助は体中から甘い香りを漂わせていた。原因は、少年が持っているあの瓶の中身だろう。天助は濡れている服を上から指で押して、その指を舐めてみた。香り通りの味がする。
もったいないな、と思って座ったままでいると、視界に手のひらが降りてくる。少女が再び手を差し出しているのだ。
「その傷と汚れ具合じゃ、到底家には帰れないっしょ。俺ん家おいで。シャワー貸してあげる」
天助は「うん」と力なく頷いて、彼女の手を握った。少女は小柄ながらも力強く引っ張ってくれた。
*****
少女の名前は小空と言った。少年の名前は透真と言うらしい。二人はたまたま公園の横を通り過ぎ、いじめの現場を目撃したのだという。
「俺が見ている限り一方的な暴力だったけどなあ」
小空が首を傾げている。天助は首を横に振った。誤解を生むのはしょうがないが、あれはいじめではないのだ。金を用意できない自分がすべて悪いのだから。彼らに非があるなどとんでもない。
「海靖たちは悪くない。悪いのは、友達料金を用意できない俺だから……」
「へえ、友達料金。最近の子供の遊びってのは物騒なんだなー」
自分だって子供だろうに、小空は他人事のようにそう言った。濡れた白いシャツがぺたりと肌に張り付いている様子に、天助は何か見てはいけないものを感じて、自然と彼女から顔を逸らしていた。
「友達料金って必要なのかね? 払わず仲良くするわけにはいかないの?」
「だって、遊ぶのはお金がいるし、教室でも仲良くしてくれるし……払わないと殴られるから……でも、殴るのは仕方ないことで、海靖と央大は悪くなくて……」
ごにょごにょと歯切れの悪い言葉が並ぶ。正直、今の質問に自信をもって答えることなどできないと思った。
払わずに親友と言う関係を結ぶ。そうなればどんなに良いだろうと思う。きっと海靖と央大は互いに料金を払っていない。それは、彼らが長い間一緒に居て、信頼関係が十分に築き上げられているからだろう。きっと他のクラスメイトもそうだ。
皆最初は金から始まるのだ。その段階をクリアしたものだけが、本物の友情をプレゼントされるのだ。
遊ぶには金が必要だ。絆を深めるアイテムとして、ゲームや漫画は必要なものだ。話を合わせてやるから、まずその話を合わせるアイテムを買う金を用意しろ、と、そういうことなのだと天助は考えていた。
純粋な彼にとって、友達料金の使い道はそういうものだろうという認識だったのだ。
「お前さ」
今まで黙っていた透真が口を開いた。彼は小空を挟んで、天助の反対側に居る。
「それ、利用されてるだけだろ」
天助の中で、ちくりと何かが痛んだ。
「本物の友達ってのは、金なんかで繋がってるようなもんじゃないだろ。お前らの関係は、第三者から見て全く友達とは呼べないんだからな」
それは、天助がずっと心の奥に隠していたすべての疑問の解答だった。
幼稚園から小学校まで過ごして来た前の街では、友情が金で買えるなどというルールは無かった。かといって、この辺りでのローカルルールでも無いのだ。知っていた。最初から全部分かっていた。心の底では、何となく。
だが、認めたくなかった。あの二人が悪者で、自分をただの財布としてしか見ていないのだとしても。金が作ってくれる薄い友情だとしても、天助はクラスから仲間として見られることが嬉しかった。悪ガキだと一括りにされることが嬉しかった。
「つまり、依存してるんだろ」
透真の言葉の一つひとつが、天助の心に鋭い何かを突き立てる。
「お前は自分の状況が全く分かってない」
「透真」
小空が彼を呼ぶ。
「誰がどう見てもあれはいじめだ」
「わかってる」
天助の視界が滲んだ。泣いたらダメだ。
「そんなの最初からわかってる」
「じゃあ、なんで」
「お前らに俺の気持ちが分かるわけないからだろっ」
天助は足を止めた。小空と透真も足を止める。アスファルトに、雫が落ちた。
「独りが怖かったんだよ。あの二人は、嘘でも俺を独りにしなかったんだよ。だから、ちょっとくらい我慢すれば良かったんだ。俺が頑張れば良い話なんだよ。転校生に居場所をくれた二人なんだ。利用されていたって、俺は本当に嬉しかったんだ」
声が震えて喋りづらい。天助は顔を伏せて、大きく息を吸い込んだ。
入学式の日に話しかけてくれた時から、既に自分の財布だけを見ていたのだろう。あの時は、まだ純粋に彼らを信じていた。本当に友達になりたいだけなのだろうと、そう思い込んでいた。だが、それは違った。金を要求されたのだ。最初は戸惑った。戸惑いながら彼らに金を払った。前よりも距離を縮めてもらえた。それが友情なのだと、その時に勘違いしてしまった。
今更、どうしたら良いのか。認めてしまった以上、これから取るべき行動が分からない。
アスファルトのシミが広がっていく。
「どうしよう。俺、独りになりたくない」
耐えられず、天助はしゃくりあげて泣き出した。今まで押さえつけていた何もかもが、堰を切ったように溢れだす。
「ちゃんと分かってたんじゃん」
それは、小空の声だった。
「えらい。よく言った」
頭に僅かな重みを感じて、天助はゆっくりと顔を上げる。小空が、頭に手を伸ばしていた。
「あとは任せな。俺たちが何とかしてやる」
「でも、お金なんて用意できないでしょ」
天助は、あの二人が用意するよう言った大金を頭に思い浮かべる。今までのつけも考えたら、子供に払える金額ではない。あれは、大人が働いて会社からもらってくる金額なのだ。
「金なんか要らないよ」
小空がニヤッと笑った。それは、何か悪いことを企むいたずらっ子の顔だった。
「金よりも大事なもんが何か教えてやらないとね」




