前編
シルヴィア・ローサイン侯爵令嬢はとても素直な性格だった。
とても素直で、ある意味頑固である。
夕暮れ時の生徒会室、彼女は今日も今日とて一生懸命執務に励んでいる。
ノックの音が聞こえてシルヴィアは書類から顔を上げずに「どうぞ」と返事をした。
「義姉さん、またこんな遅くまで仕事をしているの?」
険しい顔をしながら入室してきたのはシルヴィアの義弟のリュシアンだ。
「あらリュシアン、迎えに来てくれたの? もう少しかかるから先に帰ってもいいわよ」
手元の書類に何かを書き込みながらシルヴィアが聞くと、リュシアンはため息をつきながらどっかりとソファーに腰を下ろした。
「待ってるよ」
そうしてリュシアンはしばらく不機嫌な顔をしながらシルヴィアが一心不乱に仕事をするのを眺めていたが、耐えきれずにボソッと言葉を漏らした。
「他の役員は?」
「お仕事が終わったので帰ったわよ」
「……義姉さんは仕事が多いんだね」
「ああ、これは追加のお仕事なのよ」
「……それは生徒会長のノースラン殿下の分じゃないの?」
「よく分かったわね。さ、これで良し!」
シルヴィアは軽い調子で返事をすると手元の書類をササッと纏めて立ち上がった。
やっぱりそうだ。きっとノースラン殿下は仕事が終わったシルヴィアにいつものように口八丁手八丁で自分の仕事を押し付けたに違いない。それも他の役員の目に触れないように。そういうとこは頭が回るのだ、あのノータリン王子は。
「どうして義姉さんが殿下の仕事をしなくちゃいけないんだよ。……毎回毎回あのクソボケ王子……」
「え?」
リュシアンの後半の言葉がよく聞き取れなくてシルヴィアは聞き返したが、リュシアンに「何でもない」とそっぽを向かれたので手早く帰り支度をした。
リュシアンはそっぽを向いたままシルヴィアに問いかける。
「ノータ……ゴホン、ノースラン殿下はどこに行ったんだ?」
「殿下は街に視察に行かれたわ」
「視察?」
リュシアンは唾を吐きたい思いだった。
彼は生徒会室に来る前に見かけたのだ、ノースラン殿下が可愛いと評判の転入生、ミラ・リブロー男爵令嬢とイチャイチャしながら馬車に乗り込むのを。
「はん! 視察って何の視察だよ!」
「……リュシアン?」
シルヴィアの眉が顰められたのを見てリュシアンはあっさりと降参して話題を変えた。
「あのね、あなたには分からないかもしれないけれど———」
「あ、そうだ、今日の夕食は義姉さんの好きな子牛のクリーム煮なんだって。シェフがいい肉が手に入ったからって張り切ってたよ」
「まあ、それは楽しみだわ」
シルヴィアは機嫌を直してルンルンと馬車に向かった。
何度も何度も繰り返した言い合いだからシルヴィアの言う事はわかっている。
「あのね、あなたには分からないかもしれないけれど、ノースラン殿下は私を信頼してこのお仕事を任せてくださっているの。殿下は仰ったわ『僕の代わりを出来るのは未来の妻であるシルヴィアしかいない。だから僕はあえて君に仕事を任せているんだ。僕に相応しい妻になってもらうためにね。僕も辛いんだ、君はわかってくれるよね』って。私は殿下に相応しい妻になるべく努力を惜しまないわ」
シルヴィアにとってノースラン殿下の言葉は絶対なのだ。彼の言葉をひとかけらも疑うことなく素直に信じている。
ーー♦♦♦ーー
「義姉さん、このレポートはノースラン殿下の宿題じゃないの?」
「ええ、殿下は私がもっと賢くなれるよう試練を課してくださっているの」
———何が試練だ、自分で出来ないから押し付けたんだろ。
「今日も生徒会の仕事を押し付けられたの?」
「殿下はお忙しいのよ。殿下はこの学園をより良くするために女生徒の意見を取りまとめていらっしゃるのですって。私を信頼しているから重要な書類仕事を任せてくださっているの」
———気に入った令嬢を侍らして楽しんでいるだけだろ。
「殿下とのお茶会、すっぽかされたんだって?」
「いいえ、私が日にちを勘違いしていたみたいなの。五時間後にいらして謝ってくださったわ。だけど私がしっかり覚えていないからいけないんだとお叱りも受けてしまったの。まだまだ修業が足りないみたい」
———クソボケ王子が! 王宮から迎えの馬車が来たんだから日にちを間違える訳無いだろう!
「義姉さん! ノースラン殿下が尻軽男爵令嬢にドレスを贈ったって本当?」
「リュシアン、シリガル男爵令嬢じゃなくって、ええと……ああ、リブロー男爵令嬢よ。彼女は可愛そうなご令嬢なんですって。男爵家の庶子なので肩身が狭くてドレスの一枚も買ってもらえないそうなの。ノースラン殿下は王子の義務として困っている方に救済をしているそうなの」
———なわけあるか。孤児院に行ったこともない、街の困窮している人たちには目もくれない王子が何を抜かす。
「義姉さんはドレスどころか花一輪だって貰った事無いじゃないか」
「あら、私は困っていませんもの。それにね、ノースラン殿下が贈り物をくださらないのは私の為なの。将来の王子妃が贅沢に慣れては国の為にならないからあえてそうしているのですって」
———婚約者に使う予算がある筈だろう、その金はどこに消えた。
リュシアンは何度も意見した。シルヴィアは怒っていい。ノースラン殿下のいう事など聞く必要はない。
でもシルヴィアは自分の意見を曲げなかった。「私は婚約者であるノースラン殿下の事を信じています。ノースラン殿下は凡人の私などが思いもつかないような深謀遠慮がおありなのです。将来の伴侶たる私が殿下を信じなくてどうするのです」と。
そうしてリュシアンが直接ノースラン殿下に文句を言いに行こうとすると釘を刺された。婚約者同士の事に口を挟むなと。
だから、今はまだリュシアンはノースラン殿下を見かけると睨むだけに留めている。今はまだ。
(まあいい、ノータリン王子の不貞の証拠や、予算の使い込みの証拠はすべて集めてある。これ以上何かをやらかすなら容赦はしない。今のうちに楽しんでおくがいいクソボケ王子)
ーー♦♦♦ーー
リュシアンはローサイン侯爵の後妻の連れ子である。
ローサイン侯爵は先妻を深く愛していた。だから十年前に一粒種の幼いシルヴィアを残し、流行り病で夫人が亡くなってしまった後独身を貫いてきた。
そんな侯爵がリュシアンの母親を後妻に据えたのは救済の意味合いが強い。
リュシアンの母はシルヴィアの母の親友だったのだ。同じ家格の伯爵家の令嬢同士、学生時代に馬が合って親友になった。その後シルヴィアの母は侯爵家に嫁ぎ、リュシアンの母は子爵家に嫁いだ。
リュシアンが幼い頃までは交流があって、リュシアンは一つ年上のシルヴィアによく遊んでもらった。実はリュシアンの初恋はシルヴィアだったりする。
リュシアンの父はろくでなしだ。女とギャンブルに入れ込んで莫大な借金を作った。
リュシアンの母とシルヴィアの母の交流が途絶えたのはそのせいだ。シルヴィアの母の方からではない。リュシアンの父がローサイン侯爵に金を借りに行き、それを知ったリュシアンの母がローサイン侯爵家との交流を断ったのだ。これ以上迷惑をかけないために。
だからその一年後、流行り病でシルヴィアの母が亡くなってしまった時はお葬式にさえ行けないことをリュシアンの母は酷く嘆いていた。
そのままローサイン侯爵家と交流を断って七年、いよいよ借金で首が回らなくなったリュシアンの父は妻子も何もかもを捨てて逐電した。数か月後に酒場での喧嘩で刺され物言わぬ姿となって発見された。借金を抱え路頭に迷うリュシアンとその母を救ってくれたのがローサイン侯爵だったのだ。
「私はマリーナ(シルヴィアの母)の思い出話をする相手が欲しい。それにシルヴィアも難しい年頃になってきた、男親の私ではフォローできない部分もあるだろう、どうかシルヴィアの母親になってくれないか」
それが侯爵のプロポーズの言葉だったそうだ。
そんな救済の意味合いの強い侯爵の再婚だったが、この三年で二人は穏やかな愛を育んでいるように見える。
「お父様ったら肝心なところがヘタレよね。お義母様は控えめな性格なんだからお父様があと一歩踏み込んで情熱的に愛を囁いたらよろしいのに」
シルヴィアの言葉だ。リュシアンも全く同意見だ。
だからリュシアンはその時が来たら情熱的に愛を囁こうと思う。
ーー♦♦♦ーー
数か月が過ぎた。
今まで複数のお気に入りの女生徒を侍らせていたノースラン王子だったが、最近はリブロー男爵令嬢を常に傍に置いている。二人の距離は今や友人どころか婚約者同士でも赤面するほど近く、人々の注目を集めていた。
単に王家の醜聞を楽しんでみている者、シルヴィアの地位に嫉妬していい気味だと嘲笑っている者、そしてシルヴィアを心配して眉を顰める者。
しかし当事者のシルヴィアはまったくいつもと変わらず忙しい日々を送っている。
シルヴィアは忙しいのだ。
第二王子とはいえノースラン殿下と結婚した後は一時的に王家に入ることになる。王太子である第一王子に男児が誕生したらシルヴィアの生家であるローサイン侯爵家に籍を移し侯爵家が公爵家に陞爵される予定らしいが、王子妃になる以上王子妃教育に通わなければならない。加えてノースラン殿下の分の宿題、レポート課題の作成、生徒会の仕事……
シルヴィアは忙しいのだ。
ついに事は起きた。
それは冬期休暇に入る前の学期最後の終業式でのことだった。
生徒会長として学期末の挨拶を述べた(原稿はシルヴィア作成)ノースラン殿下は一人の女生徒を壇上に呼び寄せた。
何事だ、とざわざわする生徒や教師たちを気持ちよく見回したノースラン殿下は、生徒会副会長として生徒の最前列に座っているシルヴィアに向けて言い放った。
「今この時をもって私はシルヴィア・ローサイン侯爵令嬢との婚約を破棄する!!」
一層騒めく生徒たち、ガタンと椅子を蹴立てて立ち上がる教師たち。
リュシアンは一早く自らの席を離れ、シルヴィアを庇うべく駆け寄ろうとした。
しかしリュシアンが駆け付ける前にシルヴィアはすっくと立ちあがるとひたとノースラン殿下を見つめて言った。
「そんな! 困りますわノースラン殿下! それでは……それでは……私は殿下の妃となる未来を失いますの?」
「ああそうだ。今この時からお前は私の婚約者ではなくなる」
愉悦の表情を浮かべてノースラン殿下は壇上からシルヴィアを見下ろす。
シルヴィアは「そんな……そんな……」と呟いていたが両手を握りしめるとノースラン殿下を見上げた。
「それでは……ノースラン殿下は私にもう試練を課して下さらないのですか? お願いです! 今まで私が代わりにやっていた殿下の宿題だけでもやらせていただけないでしょうか? 殿下が私に試練だといって殿下の宿題やレポートを任せてくださるから私は日々成長できるのです」
決して声を荒げたわけではない。それでもその言葉は涼やかに生徒たち全ての耳に届いた。
「え? な、なにを言い出すんだっ」
思ってもみなかった言葉を返され動揺するノースラン殿下。必死に取り繕おうとするノースラン殿下の耳に一人の教師の言葉が聞こえる。
「ああ、どうりで! 試験の答案用紙は判読が難しいほど悪筆のノースラン殿下のレポート課題だけは綺麗な読みやすい達筆だったんだよなあ。内容も素晴らしかったし」
「だ、誰だ? 不敬な!」とノースラン殿下がグリンと教師たちの辺りに首を回すと複数の教師がうんうんと頷いているのが目に入る。
ノースラン殿下が絶句すると更にシルヴィアが追い打ちをかける。
「宿題はダメなら生徒会のお仕事は? 先ほどのような殿下のご挨拶の原稿だけでも作らせていただけませんか? ノースラン殿下がお忙しいのはわかっております。毎日街に視察に行き、民の暮らしを守っていらっしゃる。女生徒の声を聞いてこの学園を良くしようと努力なさっていらっしゃる、どうか、その手助けだけでもさせていただけないでしょうか」
誰かが「ぷっ」と吹き出すのが聞こえた。
「公費で遊びに行くのが視察なら俺もやりたいよなー」
「やだー、さっきの殿下のご挨拶、感動したのにー、興ざめー」
「可愛い令嬢の意見だけじゃなくて俺たちの意見も聞いて欲しいよなー」
「お前、殿下にしなだれかかって『あーん』なんてできないだろ、意見聞いてもらえないぞ」
生徒たちがどっと沸き、身に覚えのある何人かの令嬢が赤面した。
「だ、黙れ黙れ!!」
その時、喚くノースラン殿下の横から先ほど壇上に呼ばれた女生徒が進み出る。
「皆さま酷いですわ! ノースラン様はとってもお優しくてご立派な方ですのに……」
ウルウルと瞳を潤ませて必死に言い募る女生徒は思わず庇ってあげたいような可憐さだった。
シルヴィアがきょとんとその女子生徒を見上げる。
「あなたは?」
「シルヴィア様……酷いですわ。ミラ・リブローですぅー」
「しらばっくれるなシルヴィア! お前はこの愛らしいミラを———」
シルヴィアをひたと見つめはらはらと涙をこぼすリブロー男爵令嬢。
ノースラン殿下が再び割って入りシルヴィアに向かって怒声を上げたのとシルヴィアがそれを上回る声で「ああ!」と叫んだのが重なった。
「あなたがリブロー男爵令嬢なのですか!!」
シルヴィアの勢いに一瞬リブロー男爵令嬢が一歩後退する。
「えっええ」
「一度お会いしたいと思っていましたの! そう、あなたがリブロー様なのですね!」
「そ、そうよ、それが何?」
「私、ノースラン殿下からあなたの事をお聞きして何かお力になれないかと心を痛めていたのです。あなたがドレスの一枚も買ってもらえないほど貧しいので、ノースラン殿下がドレスや宝石を差し上げていると。食事も満足に与えられないので街の……えーと何でしたかしら……そうそう、〝黒薔薇の館〟とかいうレストランでご馳走していると聞きましたのよ。ノースラン殿下は困っている者に手を差し伸べる、これも王族の務めだと仰っていましたわ」
「……貧しいものに……食事にも困っている?」
「おま……〝黒薔薇の館〟の事を誰に……」
リブロー男爵令嬢とノースラン殿下の顔が真っ赤になりワタワタしだした。羞恥なのか怒りなのか……
生徒たちは生徒たちで呆れたようにこそこそと話をしている。
「リブロー男爵令嬢が貧しいなんて初めて聞いたぞ」
「いつもアクセサリーとか自慢していたわよ」
「それより〝黒薔薇の館〟ってレストランじゃないだろ、ほら、あれだよ」
「ああ、いかがわしい男女が密会に使うっていう連れ込み———っとと」
「なんであなたがそんなこと知っているのよ、使ったことがあるの?」
「ち、違うよ! ほら、噂で……さあ」
ほんの一部の男子生徒は口を滑らせて青い顔をしている。
そんな生徒たちの話など耳に入らないようで、シルヴィアはただ心配そうにリブロー男爵令嬢を見つめていた。
一人の男子生徒がおずおずと手を挙げた。
「あのー、僕の家の領地も昨年の冷害で苦労しているんです。ノースラン殿下は援助して下さるんでしょうか」
「はあ? そんな事———」
「もちろんですわ!!」
またもノースラン殿下の声を遮ってシルヴィアは大きな声を上げた。
「ノースラン殿下は崇高な志を持っていらっしゃいますもの。困っているご令嬢を救わなくてはいけない、リブロー様に贈り物をするのは王族の務めだ、といつも私に聞かせてくださっていましたわ。あなたの事もきっとノースラン殿下は私財を投げ打ってでも救ってくださいますわ!」
それなら僕も、私もと数人の手が挙がった。
ノースラン殿下は彼らの期待の眼差しから目を逸らす。
「そ、それは……後で、そう、後で相談に来るがいい」
気まずげにごにょごにょと呟いた後、ノースラン殿下はハッと気が付いたようにシルヴィアに視線を戻した。
「そうだ、今しているのはそんな話ではない! シルヴィア! お前との婚約破棄の話をしていたのだ!!」
なんとか軌道修正をしてノースラン殿下はちょっと元気を取り戻したようだ。
「シルヴィア・ローサイン侯爵令嬢! お前は我が愛しのミラを苛めて傷つけた。そんな陰湿な者は王子妃に相応しくない。よってお前有責で婚約を破棄する!」
やっと言ってやったとノースラン殿下は満足げ、リブロー男爵令嬢もむふんと鼻息の荒いノースラン殿下の腕にしがみついてニヤニヤとシルヴィアを見下ろしている。
「あーあ、〝我が愛しの〟とか言っちゃ駄目だろ」
「不貞丸出し」
「どっちの有責だって?」
「それよりローサイン侯爵令嬢ってリブロー男爵令嬢と初対面だろ」
「ああ、さっきそんな話していたよな」
生徒たちは呆れを通り越して面白くなっていた。
目の前の馬鹿二人はどこまでやらかしてくれるんだろう、そんな期待の目で壇上の二人を見つめる。
その期待の目を勘違いした壇上の二人は勢いづいた。
「シルヴィア! 極悪非道の性悪女め! 従順なふりをしても私は騙されないぞ!」
「シルヴィア様、謝ってください…… グスン……私は……謝ってくれたら街で暴漢に襲われたことも……夜会で着るドレスを破られたことも……中庭の噴水に落とされたことも……許してあげますぅー。 グスン……怖かったけれど……私は優しいですからぁー……」
リブロー男爵令嬢がまたも瞳をウルウルさせて(涙の出し入れ自由自在、ミラの努力の賜物だ)ノースラン殿下に縋りつきながら必死に(見えるように、これも努力の賜物だ)言い募るが、シルヴィアはきょとんと首を傾げた。
「シルヴィア様ー、謝ってくださいー」
「シルヴィアめ、しらばっくれるつもりか! 私は性悪なお前と婚約破棄をしてこの健気なミラと真実の愛を貫くのだ!!」
鼻息荒くノースラン殿下が叫んだ時、シルヴィアの前にスイと一人の人物が立ち塞がった。
その人物、リュシアンはシルヴィアを庇うような位置に立ち、冷静に言葉を発した。




