第76話 母たちの自由、娘たちの未来
月島屋の二階、飲み会の賑わいが一段落したころだった。
和服姿の春子が追加の焼き物を手に、娘の小夏とともに階段を上がってきた。
「はい、お待ちかねの豚串よ。かえでさん、これもうちの自慢なの。ぜひ味わっていってね」
二階に上がってきた春子は手際よく盆の上の焼鳥を娘の小夏と一緒にテーブルに配っていく。
「リンさん……あなたの話をさっき聞いて、なんだか他人事に思えなかったの。 私もね、昔は……あまり胸を張って語れる人生じゃなかったのよ」
月島屋の女将、家村春子はうつむきがちに焼鳥の乗った皿を受け取ったリンに語り掛けた。
「似たような境遇?では東和にも『岡場所』があるんですか?先ほどの神前曹長の話では東和では売春は違法だと聞こえたのですが」
リンは不思議そうな表情を浮かべて春子を見つめた。春子は一度嵯峨の方に目をやった後、静かに自分の身の上について語り始めた。
「中学を出てから、仕事を転々として……結局、安さが売りのソープランドに勤めることになったの。当時はお金が無くて……しかもその時付き合っていたチンピラに金を無心されて仕方なく勤め始めたんだけどね。見た目は合法だけど、実際は『本番アリ』の、違法スレスレの最悪な店だったわ」
自嘲気味に語る春子の言葉に純情な誠は衝撃を受けていた。噂には聞いていたがそういう店にかつて春子が勤めていたというのはある意味ショッキングな出来事だった。以前から春子に感じていた影の原因がそこにあるのだと気づいて誠の心は揺れた。
「その付き合っていたチンピラも最低の男で、お腹に小夏が居ると言うのに金の為だと休まずに店に出されて、悪阻がひどいから休みたいと言うと殴ったり蹴ったり……私もなんでこんな男と一緒に居るんだろうと嫌になって来たわ。その時出会ったのが新さんなの」
安い風俗店ならたぶん現れるだろう嵯峨の登場に誠はある程度予想がついていた。誠がこの『特殊な部隊』で初めて嵯峨に会った時、嵯峨が読んでいたのはそう言う店の情報が載っている雑誌だった。当然、当時からそう言う店には通っていたに違いないことは容易に想像がついた。
「新さん、最初は普通に客として来てたの。でも店に違法なサービスがあるって知って、私に『警察に密告しろ』って言ってくれたのよ」
嵯峨を見る春子の視線は輝いていた。彼女が嵯峨に好意を持っているらしいことは、いくら恋愛に鈍い誠にもすぐに分かった。
「警察に密告?そんなことしたら店が潰れて隊長が通えなくなるじゃないですか」
春子の言葉に誠は『駄目人間』の駄目っぷりから考えてそんな善人のようなことはしないものだと決めてかかっていた。人を騙すことと陥れることに関しては天下一品の策士。それが誠の嵯峨への評価だった。
「おいおいおい、神前。俺をそんな人の道に外れた種類の『駄目人間』だと思ってたのか?俺はそこまで腐っちゃいない。俺は合法の店しか行かないよ。それに当時の俺はそう言う違法店の摘発に手を貸しててね……警察に色々出入りする仕事をしていたから」
嵯峨は昔を懐かしむような遠い目をして語りだした。
「当時の俺は、東和に出て資格を取ったばかりの『食えない弁護士』だった。司法試験は通ったが、仕事の電話をただ待つだけの『掛弁』ってやつでな。だがそれじゃ満足できなかった。だから街に出て、風俗や闇金の被害者の相談を自分から拾って回った。確かにまあ、その相談相手のほとんどが女の子だったのが事実だったのは認めるよ……企業経営者の爺さんの顧問弁護士なんてやってても面白くなさそうじゃん」
嵯峨の語る言葉にはいつもの『駄目人間』に感じる負のオーラは無かった。
「俺が遼南内戦に出向いて東和を留守にした後は茜がその志を継いでくれた。茜もちょっと調べればわかるが『風俗街で虐げられる女性の味方の人権派弁護士事務所』って言うことで世の中の期待を集めてたんだぜ。まあ、アイツは目立つのが嫌なのと人望があってアイツの後を引き継ぐ弁護士は後を絶たなかったから今でも東和の吉原に『嵯峨弁護士事務所』って言う看板を掛けた弁護士事務所がある。神前、アメリア。お前さん二人は趣味に金を使いすぎて闇金の被害に遭いそうだからもし遭ったらそこに相談すると良い。腕利きの弁護士が調停に乗り出してくれるぜ」
嵯峨はそう言いながら苦笑いを浮かべて誠を見つめた。誠は、自分の中で1つの『誤解』が溶けていくのを感じていた。
自堕落な煙草好きで、ずる賢い策略家だと決めつけていた嵯峨惟基という男。その中に、かつてこんなにも『誰かの人生を変えた』男がいたのだと。
「その頃の新さんは有名な大手の弁護士事務所を飛び出して小さな弁護士事務所の売れない弁護士をしていたのよ……新さんの言う通り吉原の風俗街の中心部の雑居ビルに入った当時はちっちゃな弁護士事務所だった。そこがあそこで働く女の子たちに救いの手を差し伸べてたのよ」
春子は遠い昔を思い出すようにそう語った。
「金に拘らない事件しか受けない個人の弁護士事務所。だから売れない。食べていくのがやっとの貧乏弁護士。私が自分のヒモの事を相談したら話を付けてくれるって言うのよ。なんてこの人は馬鹿なんだろう。私とヒモの関係を整理したって一円にもならないのに。でも他の女の子も『嵯峨さんに相談すれば何とかしてくれる』って評判で……あの町で活動する弁護士なんて店の利益の事しか考えない金に汚い人間のクズばかりだったもの。そんな中で新さんだけは違った。新さんは本気で女の子の為だけに仕事をしてた。まあ、その時いい関係になった女の子も何人か居たみたいだけどね」
誠は春子の言葉でこの部隊に入ってから初めて嵯峨と言う人間を尊敬することが出来るような気になっていた。
「私もヒモだった男。あの男はキレたら何をするか分からないって私は言うんだけど、自分は軍に居た事が有るからチンピラ程度どうと言うことは無いと言って間に入ってくれて……それであの男の呪縛から解放してくれたのよ。アレが無ければたぶん小夏は死んでた。生まれたばかりの小夏を見て、こんな金のかかる子供なんか産んでどうするんだって私を脅しつけるような男だもの。きっと小夏を殺してたわ、あの男が。でもそんな男も、新さんの前じゃ子供みたいだった。包丁を振り回して脅しても、新さんは眉ひとつ動かさず、素手であっさり倒して警察に突き出したのよ。まあ、包丁を持ってたのはあの男なのにどう見ても加害者にしか見えないってことで新さんも連行されて警察署で散々絞られたみたいだったけど」
純粋に尊敬のまなざしで誠は嵯峨を見つめた。春子の告白にただひたすら照れ笑いを浮かべる嵯峨の姿が誠の瞼の裏に強く焼き付いた。
「あの男。小夏の父親はもうこの世には居ないわ。私と別れた後、強盗殺人を三件も起こしてすぐに警察に捕まって……全部で五人も殺したんですもの、最高裁まで争っても死刑は免れないわ。去年だったわね、死刑が執行されたって話は聞いたけど……このことは小夏には内緒にしておいてね。死刑囚の娘だってことはあの子にはしられたくないから」
春子は階下にランの日本酒を取りに行ってきた小夏が帰ってくるまで、手短に自分の境遇を語った。
「……私ね、小夏を産んでからもずっと、自分を責めてたの。 こんな母親に育てられて、この子はまともに育つのかって。 でもね……いま思うの。この子がいてくれたから、私は立ち直れたんだって」
そんな言葉にリンは静かにうなずいてその無表情に作り物のような笑顔を浮かべた。
「だから私にはリンさんの気持ちは少しだけわかる。ここは自由の国、東和よ。過去に縛られることなんてない。命があるなら、笑って生きた方が得ってもんよ。……リンさんも、これからは自分のために生きなさい」
春子はそう言って追加の豚串を持って来た小夏に笑いかけた。その表情はどこまでも母親のそれだと誠には思えた。




