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内部告発。
俺が入院している間に、世間ではあっという間に事件が進行していった。
綾野が関わっていた、かもしれない太田新薬研究所が警察の捜索を受けたのは、そこに俺が拉致されている可能性を『直樹』とお由宇が示唆し調査を依頼したのと、あの扇から『SENS』が発見され、里岡に捜査が及んだためだ。
あの日やってきた『直樹』は実は既に警察と繋がっていて、マイクとカメラを身につけた状態で入ってきていたこと、里岡が話をつけに来たというのも老舗の存亡を秤にかけたうえでの警察への協力だったこと、そこで確かに軟禁状態になっていた俺は踏み込むのにかっこうの餌だったこと、そういう事件のあらましを見舞いに来てくれたお由宇が少しずつ教えてくれていた。
綾野はあの時結局捕まらなかった。混乱に乗じ、密かに姿をくらましていて現場で逮捕されるようなことはなかった。
そのままでは太田が一人で『SENS』を開発販売し、『トップ・トランス』を利用して海外への販路を広げた、そういう落ちになるところだったはず、それを覆したのが『トップ・トランス』の幹部社員と名乗る人間の内部告発、しかもそれは古典芸能で交流するという名目で『トップ・トランス』をスポンサーとして何度もフランスを訪れていた一団が、実は古美術品の密輸に関わっており、『SENS』もその取引の一つに入っていたと暴露する内容で、綾野はもちろん朝倉家や里岡までも巻き込む大騒動に発展していた。
だがセンセーショナルな見かけとは裏腹に、業界では着々と里岡と『トップ・トランス』の関係者を切ることで終結に向かいつつあり、皮肉な見方をするコメンテーターは密輸にせよ『SENS』にせよ、それを求める人間がいるかぎり、こういったルートも組織も根絶しないでしょう、とまとめていた。
「処罰されたのは結局」
「研究所所長太田正道と里岡雄樹、ぐらいね」
「綾野は」
「さすがに自分に繋がる証拠をそれほど残してるわけじゃなくて」
今回もまあ怪しいとは思われているけれど、一通りの事情聴取が済めば保釈金を積んで出てくるでしょう。
ほんとにあんたは見てるのかよ。
俺は一瞬、痛いほど真っ青に晴れた空に輝く太陽を見上げた。
「周一郎はどうしてる?」
「さあ」
お由宇は軽く首を振った。
「表舞台には一切顔を出してないわね。『直樹』として事情聴取されてるはずだけど」
「ああ、うん」
実は一度だけ入院中に周一郎はやって来ている。
俺がまだあんまり動けない時に人目を避けるように『直樹』として。
『滝さん?』
サングラスをかけていないまっすぐな視線で俺を見て、不安そうにベッドの側に立ち竦んでいた姿を思い出す。
「滝さん?」
「ん…」
熱っぽい体を持て余して目を開けると、そこにいつの間にか周一郎が立っていた。
「大丈夫?」
「『直樹』…?」
一瞬あまりにも柔らかな問いかけに時間が前後したような気がして、熱のせいもあったのだろうがついそう呼びかけると、
「…はい」
ぴく、と体を震わせた相手は微かに笑った。
「熱があるの?」
静かに伸ばされてきた掌はひやりとして気持ちいい。
「ちょっとな」
回復するために体が頑張ってる証拠らしいぞ。
そう笑い返すと、ばか、と小さく応えた声があって目を開ける。
「ごめん」
「ん?」
「巻き込んで……ごめん」
たどたどしい謝罪。
「怪我…させて……ごめん、ね」
額に載せた掌から伝わってくる震え。
「僕は、ほんとに、滝さんを巻き込む気じゃなくて」
俯いて視線を合わせない瞳が揺れている。
「あの時、回りが、真っ白になった」
囁くような声が続く。
「僕は、生きてちゃ、いけない」
苦くて淋しい響き。
「こうやって、大切な人を、いつも、傷つける」
ほぅ、と吐き出される息。
「見なくていいものを見て、知らなくていいことを知って。大人しく殺されてれば、いいのに」
それもできない。
「どうしたら……いい?」
滝さん。
「僕は…」
なんで生まれてきたんだろう。
「こんな能力」
誰も幸せにしないのに。
「違う…だろ?」
「…え?」
「違うぞ…」
ほら、と俺は額の掌に無事な方の手を載せる。凍りついたように固まる相手に笑う。
「こうやって俺が生きてるのは、お前が居たおかげだし」
あのままだと確実に死ねてるわけだし。
「俺は今こうやって生きてて嬉しいぞ?」
翻る扇を思い出していた。
「あのな……裏表だと思うんだ」
「……はい?」
「人間も世界も」
全部一面だけあるんじゃなくて、全部一面だけ正しいんじゃなくて。
「表も裏も」
全部正しい。
「そりゃ時々酷いことがあるけどさ」
酷いことばかりかもしれないけどさ。
「それでも空は青いし、風は吹くし」
俺の世界もお前の世界もきっと必要なんだ、誰かにとって。
「片方の世界が壊れる時、もう片方から助けが来て」
片方の世界だけじゃ思いつかない方法とか見つけられない道とか、そういう、自分の世界を越えたところから救う力が来る。
「だから世界が壊れずに済むんだ」
今回のことがそうだろう?
「俺だけじゃ死んでた」
先にお前を見殺しにしてたら、俺も最後に死ぬしかなかった。
「ありがと、な」
「っ」
びくりと震えた掌が慌てて手を引こうとする、それを引き止める力は俺にはなくて、ぱたりと滑り落ちた俺の掌をはっとしたように相手が掴む、その必死さに。
「ありがと、周一郎」
「くっ」
一瞬くしゃくしゃに歪んだ顔に笑いかける。
「どっちでもいいけど、俺は『直樹』より、お前がいいや」
「………馬鹿ですね、相変わらず」
はげ落ちていく笑みの向こうにあったのは、痛々しいほど怯えた顔、それでもその顔が訴えるのは胸を貫く激情で、ただ繰り返す、どこへも行くな、と。
「うん、すまん」
馬鹿で。
「その馬鹿を」
これほど守りたい僕もきっと馬鹿です。
聞こえるか聞こえないかの掠れた声を耳の奥で覚えている。




