1-3
血溜まりに沈む惨殺死体。それは赤く、紅く、朱く、不気味なまでに鮮やかで。
その返り血を浴びて、私も赤く染まる。
これこそが命の色。嘘偽りない原色。
その鮮やかさに、背中がゾッとするほど魅せられる。
いつまでもこの光景を見ていられる気もするが、勿論そんなわけにもいかない。
未だ、北の方から悲鳴が聞こえる。近づいてくる。
村を染める赤は、北側から徐々に、南方へと侵食して来ている。
早々に南へと脱出する必要があるだろう。赤色の死神に追いつかれる、その前に。
最後にもう一度、北へ視線をやる。そして踵を返した。
振り向くことなく走り始める。
死ねない。まだ、死ぬわけにはいかない。
藤堂さんの言う理想郷、その世界をまだ、私は知らないのだから。
しかし、そんな私の出鼻を挫く音が響く。ガタッと建物の隅からの物音。
「誰!?」
走り始めた足を止め、物音がした方へと長剣を向ける。
短く誰何の声を上げると、注意深く、木造の家に視線を送る。
「私よ、シズク。その剣を下ろして」
そう言って、声の主が家の影から、足を引きずるように姿を現す。
それは、伸ばした亜麻色の長髪を靡かせる少女の姿。……このような寒村には似つかわしくない、美貌の持ち主であった。
「……ミレイ」
私は、その少女の名を口にする。
彼女は村長の末娘。この村で私と最も縁深い人物の一人だ。
より多くの労働と引き換えに、習得したこの世界の読み書き。
その教師役を務めた村長一家の中で、最も親身に教えてくれたのが彼女であった。
また、それ以外でも、何かと優しく私を気遣ってくれた少女。
そんな少女が、足を引き摺りながらゆっくりと近づいてくる。
「ミレイ、貴女足が……」
彼女の片足は、素人目にも酷い怪我を負っているように見受けられた。
「ええ、逃げてくる途中に……。だから、シズクお願い。肩を貸してちょうだい」
確かにその足では、一人で逃げることなど出来ないに違いない。
彼女が無事逃げ出すには、誰かの助けが必要だ。
しかし、その誰かにとっては、自身の生存の可能性を著しく低下させる、重荷以外の何物でもない。
どうするの? いったい、どうすれば……?
逡巡している内に、彼女はすぐ私の目の前まで近づいていた。
「お願い、シズク」
弱弱しく懇願してくる少女。この村で唯一、私の味方であった、そんな少女を私は……。
「ごめんね、ミレイ」
「えっ?」
私は、血濡れの長剣を振り下ろす。彼女の無事な方の足目掛けて……。
「いやぁぁああああ! 痛い、痛い! ……どうして、こんな……!」
上がる悲鳴。肉を切り裂く嫌な感触。そして、信じられないように見上げてくる少女の視線。
どうしてですって? ……当然、それは私が助かるためよ。
これで、彼女は身動きを取ることすらできない。こんな、身の隠しようもない道のど真ん中で……。
そう、彼女は撒き餌だ。
寒村に似つかわしくない美貌の少女。無防備に寝そべる、そんな餌を、兵士たちがどうして捨て置ける?
血に酔い、本能を露わにした兵士たちが、どのような行動に出るか。それは、語るまでもないことよね。
彼女はきっと、その身を以って、私が逃げる時間を稼いでくれるに違いない。
全ては、自分が生き残る為。……あまりに醜いエゴイズム。
でも、仕方ないよね。人間誰しも、自分が一番可愛いのだから。
そして私は再び走り出す。今度こそ死地から脱するために。
「よくも、こんな……。戻ってこい、異邦人! 得体の知れぬお前のような娘を、あれほど目をかけてやったのに! 恩を仇で返すな! 戻ってこい!」
背後から、恨みの籠った声が投げつけられる。
異邦人、得体のしれない娘……ね。
そら、見たことか。あれが、あの女の本性だ。
あの女は、心からの善意で、私に親身になったわけじゃない。
そうすることで、私の忠誠心を得ようとしたか。あるいは、慈悲深い己の姿を、他の村人たちに見せようと思ったか……。
いずれにしろ、結局は、自分のための行動だったってわけね。
ああ、良かった。これで罪悪心も、少しは薄らぐというものよね。
胸を撫で下ろしながら、走り続ける。
そうして、ついに私は、村からの脱出に成功したのだった。
ドレミ村を南に出てすぐの丘を登っていく。
その丘は、ゴツゴツした岩が疎らにあり、所々草が生えている。
それ以外は裸の地面が広がるばかり。
もういよいよ、本格的に陽が落ちる。
そんな時間に、こんな場所を駆け上がるなんて、普通ではありえない。
まあ、普通であるはずもない。
私は、赤い死神から逃れるべく走っているのだから。
はあ、はあ、はあ、と荒々しく息を吐く。
最早、運動量の限界をとうに超えていた。体が悲鳴を上げている。
それでも立ち止まるわけには……。
「あっ!」
口から短く悲鳴が漏れる。足をもつれさせ、地面に転んでしまった。
はあ、はあ、駄目、もう限界。
血と土にドロドロに汚れた服の端を握り締める。
そうして、陸に打ち上げられた魚のように、酸素を取り込もうともがく。
暫くそうしていると、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
ただ、まだ立ち上がれそうにない。
私は座ったまま、これまで走ってきた方角を振り返った。
その目に映ったのは、おぞましい程に鮮やかな赤。
天は夕陽によって染められ、地は家々を燃やす業火が染め上げる。
天地を染める赤。まるで、今日流れた数多の血で染まったかのよう。
そう、この服を染める赤のように。
それを見ていると、私の胸の内に、根源的な恐怖、そして確かな安堵が沸き起こってくる。
この赤を、ここで見ている自分は、自分だけは助かったのだと。
「よかった……。あそこから抜け出せて……本当によかった」
思わず、そんな呟きが漏れる。
そして、ボロボロと、目から涙が零れ落ちていく。
ああ、この涙は、唐突に命の危機に瀕した恐怖故の涙ではない。
当然、死んでいった村人たちへの憐憫の涙でもない。
自分だけは、何とか助かった。その安堵から零れる涙だ。
そう、我が身こそが一番大事。それに比べれば……。
兵士を殺すのも、村人を見殺しにするのも、一体どれほどのものか。
罪悪感など、全く覚えない。
溢れるのは、本当に良かったという安堵の気持ちのみ。
暫し、その天地の赤を眺めながら、涙を零し続ける。
……ダメね、そろそろ動き出さないと。
呼吸も落ち着いた。いつまでもこうしていられない。私は、ゆっくりと立ち上がった。
そして瞳から流れた涙を拭いとると、口を開く。
「さて、これからどうしましょうか?」
勿論、ここから移動するわけだけど……。どちらに向かうべきか?
北は除外。東西……よりも、やっぱり南がベスト?
南に向かう街道を真っ直ぐ進めば、アルルニア王国北部における物流の拠点、商人都市リーブラに出ると聞いたことがある。
リーブラは、王国北部最大の都市。当面の目的地として、申し分ない。
今後どのような道を進むにしても、選択肢は多い方がいい。
田舎村よりも、大都市の方が、より多くの選択肢を得ることが出来るに違いない。
さてさて、目的地は決まった。だけど、問題がある。
その問題とは、リーブラまで、一日、二日の距離ではないということだ。
自分の状況を再確認する。
持ち物は、血濡れの長剣、ちなみに鞘は無い。後は、同様に血に染まった、襤褸のような衣服のみ。
……酷過ぎる状況だわ、これは。
魔王討伐に、王都を旅立ったばかりの勇者でも、もう少しましだと思う。
最も重要な、水、食糧、あるいは金銭の類は、揃って皆無。
これでどうしろと? 行き倒れまっしぐらじゃない!
「……はあ。ホント、最悪」
溜息と悪態が、口から衝いて出る。
っと、ダメダメ。そんなことしていても、何の足しにもならない。
気を取り直し、今後の方針を思案する。
……取り敢えずは、水の確保が最優先…かな?
つい、と東に目を向けた。
ここから東に向かえば、南北に流れる川がある。
街道から外れてしまうが、川沿いに南下した方が良いかもしれない。
多少遠回りでも、常に水場の確保が出来るし、それに、ドレミ村がそうであったように、川沿いに集落があるかもしれない。
地理に明るくないので、確証は持てないが……。可能性は低くはないはず。
水だけで、リーブラまで持つわけもない。
つまり、何処かの集落に立ち寄る必要がある。そこで、どうにかして食糧を分けてもらうのだ。
対価は……情報……でどうだろう?
近隣の集落が、隣国の兵士に襲われた。
そんな情報は、彼等にとっても重要なもののはず。何せ、次に襲われるのは、自分たちかもしれないのだから。
少なくとも、生き残りである私を、そう邪険には扱うまい。より多くの情報を聞き出そうとすることだろう。
よし、ある程度の方針は固まった。行動を開始しよう。
私は南東の方角へと、歩き出した。
****
「……またもや、判断ミスか」
当ての外れた失望感から、そう呟く。
まあ、判断ミスと言っても、ドレミ村でのそれほど、致命的ではないけれど。
川沿いに集落があるという読みは当たっていた。当たっていたが……。
その村も、既に襲撃を受けた後だった。
黒く炭化した木材が、そこかしこに散見する。
焼け落ちた家々の残骸だろう。何か、有用なものは見つからないかと、その残骸の中を歩いていく。
「しかし、見事に何も無いな…って、うげぇ。……もしもーし、そんなところで寝ていると、風邪引きますよー」
……返事がない。ただの屍のようだ、なんてね。
まったく、焼死体なんてものは、見ていて気持ちの良いものじゃない。
はあ、有用なものなんか、何も見つかりそうにないな。これ以上、村人のバーベキューを拝む前に、退散しようかな。
そう考え、歩みを再開した。しかし、すぐに足を止める。そして首を傾げた。
それにしても、村人のバーベキュー……か。
自然と、そんな表現が出て来る当たり、随分と箍が外れてきているな。
そんな風に感じて、苦笑が漏れる。
きっかけは、勿論、藤堂さんとの出遭い。
決定的な引き金は、あの兵士を殺した時? ……それとも、ミレイにあのような仕打ちをした時かしら?
どうであれ、私という人間性は、醜くなる一方ね。
「…………それでも、これが本当の私」
そう呟いて見せる。そう、きっと、後悔だけは……! ッ、何か聞こえる!?
「――――! ――――――!」
やはり聞こえる! 唐突に聞こえたその音に、体が強張る。
これは……人の声、幾人もの足音、……それから、馬の蹄の音だろうか?
何者かが近づいてくる。……村を襲った兵士たちが戻ってきたのだろうか?
と、とにかく隠れないと。
周囲を見回す。何処か、隠れることの出来そうな場所は……あっ、あそこだ!
目に入ったのは、焼け残った家畜小屋。
急いで、その裏に回り込む。壁を背に体育座り。そして、懸命に聞き耳を立てた。
「――――。――――。――ですね。いき――は―――にない」
徐々に近づいてくる声。物陰から様子を窺う。
…………全員で、二十人程度、か?
騎乗の者が二人。後は全員徒歩だ。槍や剣で武装していることから、戦いを生業としているものたちだと思われる。
……しかし、恰好がバラバラだな。
そう、服装に共通点が見受けられない。その上、先日のドレミ村の兵士ほどしっかりとした恰好でもない。
もしかして、賊の類かしら? ふと、そんな考えが頭を過る。
まあ、ドレミ村を襲った者の仲間であれ、賊であれ、私にとって、危険な手合いであることに違いはない。
取り敢えず、気付かれないようにしないと……。
「さて、これからどうします、団長?」
はっきりと会話の内容が聞こえるまで、男たちは近づいてきていた。
会話は、騎乗の男たちによるもの。
派手な羽飾りのついた帽子を被る男が、もう一方の男に話し掛けている。
それにしても、団長か。長とつくぐらいだから、声を掛けられた方の男が、この集団のリーダーだろうか?
その、団長と呼ばれた男を注視する。
……年の頃は、二十代半ばから後半辺りか。
赤茶の髪に端正な顔立ち。そして、細身ではあるが、服の上からでも良く鍛えられているのが分かる体つきをしている。
身形は、集団の中で最も仕立ての良さそうな服の上に、皮鎧を着込んだだけの、比較的軽装な姿。そして腰に一振りの西洋剣を佩いている。
勇壮な戦士を思わせる男だ。彼がリーダーというのも頷ける。
その団長と呼ばれた男が、暫しの黙考の後、返答する。
「……そうだな。一旦リーブラに戻って、辺境伯に報告すべきだろう」
リーブラに戻る? 辺境伯に報告?
彼らはリーブラから来たというのか。それに辺境伯とは、商人都市リーブラを含む、この辺り一帯を治めるメデス辺境伯のことだろうか?
だとすると、彼らは、メデス辺境伯に仕える兵士たち?
うーん、この世界における貴族固有の軍隊というものが、どの程度のものかはしらないが……。
バラバラな兵装など、正規兵としては、随分とお粗末な気がするな。
あるいは、雇われ傭兵だろうか? それならば、しっくりくる。
そして、彼らの会話から察するに、彼らはメデス辺境伯の命を受け、一連の襲撃事件の調査、情報収集を行っている。そんなところか。
さてさて、どうしたものか? この状況、どう判断する?
頭を高速で回転させていく。
ふむ、当初の筋書きとは多少異なるが、彼らに助けを求めてみようか?
彼らの任務が情報収集なら、私という生き証人の重要性は量りしれない。交渉次第では、リーブラまで同道してもらうことも、難しくないのでは?
少なくとも、自領の領民にいきなり危害を加えたりしないはず。……しないよね?
ええい、何にしろ、人の助けなくては生き倒れまっしぐらなのだ。覚悟を決めろ!
意を決して、物陰から姿を現す。
「あ、あの……!」
そして、少し震える声で、男たちに話し掛けたのだった。




