2-15
腹が減っては戦ができぬ。その言葉は真理だ。
戦場における軍隊の命綱、それは兵站線に他ならない。
度々軽視されがちなそれだが、一度兵站線に問題が発生すれば、兵たちはそのありがたみを痛感する。
それの維持なくしては、どれほど精強な軍団であろうとも、全くの無力となる。
さて、この兵站線の維持だが、その長さが長くなれば長くなるほど困難となる。
今、マグナ王国軍は、アルルニア王国メデス辺境伯領の領内深くまで侵攻し、マグナ本国からの兵站線は伸びきっている。
兵站を担当する後方参謀たちは、その対処にかかりきりになっていることだろう。
この兵站線、マグナ本国からリーブラまで続く主要街道を、輜重部隊に運搬させるわけだが、一つの部隊に最初から最後まで運搬させるわけではない。
その街道上には、中継点となる物資の集積所、兵糧基地が設置されていた。
この兵糧基地を経由して、適宜物資は運搬されているわけだ。
大きな基地は二か所。
一つは、トロボ川より北部に位置し、もう一つは、トロボ川と、両軍が睨み合う丘陵地帯の中間に位置していた。
つまり、この二か所の兵糧基地こそが、マグナ王国軍にとっての急所であった。
闇夜の中を騎兵隊が疾走する。
道とは言えぬ道を抜け、主要街道に出ると南下していく。
目的地は、南側の兵糧基地だ。
時を同じくして、別の騎兵隊もまた、ここよりもずっと北方にて、主要街道を北に向け疾走していた。
その目的地は北側の兵糧基地となる。
その騎兵隊の数は、それぞれ二千余り。アルルニア諸侯軍に属する部隊であった。
しかし、合わせて四千にも上る兵が、何処から湧いてきたというのか?
南側を疾走している騎兵隊ですら、マグナ・アルルニア両軍が睨み合いを続ける丘陵地帯よりも、はるか北の地にある。
どうすれば、哨戒の目を潜り、そんな位置まで移動できたというのか?
答えを言えば、彼らは初めから、そこに潜伏していたのだ。
そう、トロボ川にて、王国軍と諸侯軍が対峙する、その以前から。
主要街道を北に走る騎兵隊は、トロボ川を越えたさらに北方まで足を伸ばし、そこで潜伏し続けていた。
同様に、主要街道を南に走る騎兵隊は、トロボ川より少し南の位置に。
最初に持ち込んだ大量の食糧を少しずつ喰い潰しながら、ただひたすら静かに、この時を待ち続けたのだ。
マグナ王国軍は夢にも思うまい。
丘陵地帯にいる彼らの遥か後方に、四千もの敵部隊が潜伏していたとは。
兵力の分散。それは基本的にタブーとされる。
優勢を保つ大軍ですら、それをするのに躊躇するものだ。
ましてや、数で劣り守勢に回っている側がすることではない。
だが雫は、野戦築城という堅固な防御陣地を築いた。
その中に籠っている限りは、多少の兵力差はどうとでもなる。
兵力の分散を忌避する理由は少なかった。
それに籠城戦では、騎兵という兵科の強みを殺してしまう。
騎兵の強みは言うまでも無く、その機動力にある。
一所に留まらせるのは面白くない。
ならばいっそと、あまりに大胆なことに、諸侯軍全体から掻き集めた騎兵の大多数を伏兵として配したのだ。
そうして考案された奇襲案は、騎兵の強みを活かす、機動の原則に則った奇襲案であった。
機動の原則とは、決勝点にいち早く――敵軍が対応できない短時間で――軍を送り込み、その場の優位性を確立すること。
ここでいう決勝点とは、二つの兵糧基地だ。
もちろん、それぞれの基地には守兵が配されていることだろう。
しかし、その数はそれほど多くはないと予想できる。
その上、警戒度なども高くはあるまい。
それぞれ二千の奇襲部隊は、戦場全体から見れば寡兵もいいところだ。
しかし、兵糧基地の守兵にとっては十分な脅威となる。
その機動力を以て、瞬時に兵糧基地へと攻勢をかける。
途中で、敵の哨戒網にかかるかもしれない。しかし、敵の援軍が駆けつける時間など与えない。
その前に全てを終わらせる。
奇襲部隊は一夜の内に、兵糧基地までの道程を踏破する心算であった。
闇夜を疾走し、刻一刻と、兵糧基地に迫る奇襲部隊。
それこそが、朱が確信し、マクシミリアン大将が嫌な予感を覚えていた、雫の用意した暗剣の正体であった。
****
東の空に赤い太陽が顔を覗かせ始めた。
ここは、トロボ川より南側に設置された兵糧基地、そこよりやや離れた位置。
騎兵の速度なら、一〇分もあれば、兵糧基地に届くそんな場所であった。
そこまで迫っていたのは、奇襲部隊二千。
その中で指揮官である男は、周囲にいる部下たちの顔を見回した。
一晩中、全力で駆け抜けたことにより、いくらかの疲労が窺えた。
しかし、それも気にならないほどの昂揚が、兵らの顔にあるのも同時に見てとれた。
これならば、問題ない。
そう指揮官の男は判断する。
「諸君、ついにここまで来た! これより、敵兵糧基地に奇襲をかける!」
指揮官のその発言に、兵らの昂揚は益々高まった。
「守兵の数は不明だ。しかし、多少我らより多くても恐れるに値しない。全く無警戒の奇襲に遭えば、動揺してまともに戦えるはずもないからだ!」
部下たちが自分の発言を飲み込むのを待って、更に発言を続ける指揮官。
「寝ぼけ眼の敵兵の度肝を抜いてやれ! 我らの手で勝利を決定付けるのだ!」
「「「「うおおおおおおおおおお!!!!」」」」
指揮官の檄に、雄たけびを上げる騎兵たち。
その勢いのまま、兵糧基地へと駆け抜けて行く。
そして一〇分ほどの時間を経て、兵糧基地へと殺到する。
基地の外からは、簡単な柵にぐるりと囲まれた、複数の天幕の姿が見てとれる。
そして歩哨であろうか、柵の傍に立つ男たちが驚きを顔に張り付けながら、何事かを叫んでいる。
「立ち向かう兵のみを排除せよ! 逃げる兵は捨て置け! 速やかに抵抗力を奪い、物資に火をかけるのだ!」
指揮官の叫びに応えるように、部下たちが兵糧基地へと突撃していく。
敵の守兵は、驚き慌て、効果的な反撃ができていないように見える。
いける! これなら、兵糧基地を陥とすことができる!
奇襲部隊の指揮官はそう確信する。
しかし、その確信は、そう時を置かず揺らぎだす。
――何故だ? 何故、押し込めきれない?
最初の混乱に乗じて、多数の兵を討ち取った。
なのに、何故だ? 何故、こうも後続の守兵が湧いてくるのだ!?
予想外の事態に、指揮官は困惑する。
いくらなんでも、この守兵の数は異常ではないか!
何故だ、何故、これほどまでに厳重に防備されている!?
「駄目です! 敵の守兵の数が多すぎて、とても突破できません!」
部下から悲鳴のような報告が届く。
「ぐぬぬ、止むを得ん。せめて手近な天幕にだけでも火をかけよ!」
ここまで来て何もしないわけにもいかない。
入口近くの天幕にのみ火をかけていく。もっともこれでは、どれほどの損害を与えたというのか。
奇襲作戦は完全な失敗であった。少なくとも、この場においては。
「退却だ、総員退却!」
ろくな働きもできぬまま、退却していく奇襲部隊。
指揮官は馬を駆けさせながら歯噛みする。
「……何故。何故だ。何故、何故なのだ!」
ついに奇襲部隊の指揮官は、声に出して疑問の声を上げる。
彼の疑問も尤もだ。
確かに通常では考えられない数の守兵が、兵糧基地を守っていた。
その守兵は、つい先日増強されたばかりであった。
命令を出したのはレグーラ大将。
彼が律儀にも、魔女の脅威から自軍を守る為に講じた対策の一つであった。
別にレグーラ大将は、伏兵の存在に気付いたわけではない。
ただ、自軍が逆転を許すとしたら、それはどういった事態だろうと考えた。
真っ先に上がるのはやはり奇襲の類。
実際、フーバー大将も、奇襲によって敗れ去っている。
だったら、奇襲をかけられて困る場所、その全ての防備を固めよう。
幸い、自軍の方が数に大きく勝る。
多少、防備に数を裂いても構うまい。
そのようにレグーラ大将は、判断したのだった。
かくして、雫の企みは挫かれた。
もっとも、完全に失敗したわけでもなかった。
南側の兵糧基地の守兵増強には間に合ったが、より遠方にある北側の兵糧基地までは、兵の増強が間に合わなかったのだ。
結果、北側の兵糧基地にあった物資の悉くは焼失することになった。
敵兵站に壊滅的打撃を与える。
その上で、兵站を失い、混乱と疲弊の極致に陥るマグナ王国軍を撃滅する。
それが、雫の描いた戦略であった。
しかし、それは中途半端なものに終わる。
兵糧基地の片方を失った結果、マグナ王国軍の継戦能力は失われた。
しかし、秩序だって、本国に退却するだけの兵糧は残されたのだ。
結局、アルルニア諸侯軍は、悠々と退却するマグナ王国軍を、指をくわえて、見送るしかできなかった。
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神聖歴七三五年、赤馬の月から碧龍の月。
マグナ王国、第二、第五、第六の三軍が、メデス辺境伯領に侵攻。
コンラート元王太子を中心に、アルルニア諸侯軍が合力し、これを迎撃。
戦局は終始、数に勝るマグナ王国軍を、アルルニア諸侯軍が地形を利用して防衛するという形となった。
ここで特筆すべきは、シズクが考案したとされる野戦築城である。
この戦いが、戦史において初めて、本格的な野戦築城が用いられたものとする学説が多数を占める。
諸侯軍はこの野戦築城を以て敵軍主力の攻勢を防ぎつつ、隙を突いて兵糧基地への奇襲攻撃をしかけ、マグナ王国軍の退却を促した。
結局、勝敗が付かず、引き分けのまま、この戦いは集結したのである。
もっとも、作戦案を講じたとされるシズクの本来の狙いは、マグナ王国軍の退却を促すことではなく、兵站に壊滅的打撃を与えた上での、王国軍の撃滅であったのだと、しばしば指摘される。
真実は定かではないが、結果として、マグナ王国遠征軍はさしたる損害を受けぬまま、本国に帰国。
以降、戦力を保持したままのマグナ王国に対抗するため、コンラート元王太子ら解放軍は、新たな戦局を展開していくこととなる。




