クライマックス0、1
ξ˚⊿˚)ξ <後半は第一話と同じですのよ。
A級昇格戦当日。
闘技場の地下控室。ヴィンスがここに来るのももう20回を超えた。
いつもと何が変わるわけではない。
だが今日は部屋に入るなり芳醇な香りを感じた。
机の上には薔薇の花が生けられていた。我が最愛。ユリシーズが妻のトゥーリアの名を冠した紅の薔薇。
「わぁ……!」
ブリジッタが歓声を上げる。
「親父からか」
これを贈ってきたということはウィルフレッドやイヴェットではなく父からの激励ということか。
恐らく同じものはアルマの控室にもあるだろう。そちらは母からの激励の意味として。
ヴィンスは笑みを浮かべる。
「ブリジッタ。その花、貰っていきなよ」
「やった」
ブリジッタは花瓶を抱きかかえてくるりと回った。
そう言えば彼女と買い食いするくらいはあるし、夜会のパートナーとしてエスコートしたこともあるが、デートに誘ったり贈り物をしたことはないなあとふと感じた。
「あー……」
こてり、とブリジッタは首を傾げた。
「いや、決闘が終わったらにしよう」
「何よ」
頭を振り、照れたように鼻の上を掻いた。
「決闘の後のことを口にしようとしていた。縁起が悪いから終わったら話す」
「うん、待ってる」
ヴィンスは服を脱ぎ捨て白い裸身を、豊かな筋肉を晒す。身に纏うは下穿き一枚のみ。
そして袋から新品の籠手と脚甲を取り出す。
ヴィンスが脚甲を装着する間、ダミアーノが腹を揺らしてうろうろと部屋の中を歩き回っていたが、エンツォが肩に手を置き、椅子へと座らされる。
「お前が緊張してどうするんだ、ダミアーノ」
「だがエンツォ、アルマだぜ」
「分かってるさ。だがそれ以上にヴィンスは分かってるだろう?」
「うん?」
甲をつけ終えたヴィンスが顔を上げる。
ヴィンスの前にブリジッタが椅子を運んで座る。手慣れた手つきで籠手を装着し始めた。
「お前、アルマとさんざん戦ってきたんだろう?どうなんだよ」
「俺とアルマの戦績は三勝一万一敗だ。四肢を全て斬り飛ばされたこともあれば胸や腹に穴を開けられたこともある。
だがその数は関係ない」
彼が10歳の時の負けが何の指針になろうか。どうだろうか。脳裏にアルマの姿を思い浮かべる。
「当時のアルマがそれなりに全力で戦ってくれたこともある。
今の俺はその時の彼女より確実に強い。だが今日のアルマはそれとは別格の力を見せるだろう。その武器も彼女自身もね」
「その割には落ち着いてやがるな」
ヴィンスはにやりと笑ってみせる。
「何、慣れた相手だ。俺だって成長したところを見せたい。俺の2年間をぶつけて抗うのみだ」
「ん、終わったよ」
ブリジッタが離れる。ヴィンスは拳を開閉し手首を捻り、籠手がずれないことを確認する。
立ち上がり、拳を振る。軽い。鋼の籠手、脚甲とは重さが違う。
「うん、いつもありがとう」
扉が勢いよく開けられた。
「いよう、勝ってきたぜ!」
チェザーレだ。全身を、右手にぶら下げた刀を返り血で染めている。
今日の前座として闘獣戦をこなしてくれていたのだ。
「おめでとう!」
ブリジッタが彼と手を打ち鳴らす。
チェザーレはヴィンスの前に立ち、拳を向けた。拳を合わせる。
「おめでとう」
「会場を温めてきてやったぜ。まあ、その必要もないかもしれんがな」
分かっている。今日はこの控室にいてなお外の熱気を感じるのだ。
チェザーレは笑う。
「ま、景気づけだよ。後輩、お前も勝ってこい」
「ああ、先輩」
ヴィンスはにやりと笑う。
ダミアーノが肩を叩き、エンツォが突き出した拳と打ち合わせる。
「あの生意気な女に目にもの見せてこい」
「お前なら勝てるさ。ぶちかましてこいよ」
ブリジッタがヴィンスを抱きしめた。
「勝って。無事で戻ってきて」
ヴィンスもまた彼女を強く抱きしめ返し、そして言葉を返す。
「ああ、行ってくる」
そうしてヴィンスは部屋を出た。
王都ラツィオにある世界最大の円形闘技場。その地下、石造りの廊下を歩いていく。
冷たく、薄暗い廊下だ。だがこれから始まる決闘に興奮した観客の熱気が天井より漏れ出してくる。厚い壁を通してなお遠雷の如く響く歓声。
そして綺麗に掃除されているにもかかわらず消しきれぬ血臭、死の臭い。
その薄暗い廊下を切り裂くように、ヴィンスは歩む。
薄暗い廊下を進み行き着く果てには、床が迫り上がる形の昇降機。その前には槍を持ち武装した兵士と係官。
ヴィンスは壁際へと歩いていく。22柱の人類守護神が1柱、“力”の神像が飾られている。魔界の向こうの島で仁王と呼ばれる筋骨隆々とした像に似たその前に跪き、今日の勝利を、無事を祈る。
「……決闘士ヴィンス、時間です」
係官より声がかけられる。
ヴィンスは立ち上がって頷き、昇降機の上へと乗った。
「あ、あの!」
兵士が声をかける。振り向くヴィンス。
「応援してます!」
ヴィンスは僅かに微笑んで言った。
「ありがとう」
係官は兵士を小突き、頭を下げさせた。
「集中を乱しまして申し訳ございません」
「大丈夫」
「では上げてよろしいですか?」
「ああ」
係官が腕を上げると、床に仕込まれていた魔法円が輝き、ゆっくりと昇降機は浮上していく。
上を見上げれば井戸の底にでもいるかのように。
切り取られた青空が段々と大きくなっていく。
「まず入場しますのはB級順位戦8勝2敗!しかしそのうち1敗は不戦敗!あの悪食竜を討伐した竜殺しの片割れ!本日A級への昇格を賭けて戦うは、黄金の野牛所属、ヴィンス・竜殺し!」
〈拡声〉の術式で声を大きくした女アナウンサーが彼の名を呼ぶ声が聞こえる。
そして観客の歓声が。
青空が大きくなっていき昇降機が停止した時、ヴィンスは砂地の上に立っていた。
すり鉢状の円形闘技場の底。見渡せば数万の観客がヴィンスに向けて歓声を送っている。
ヴィンスは片手を上げてそれに答えた。
歓声が収まったとき、最前列に座るアナウンサーが大きく息を吸うのが見えた。
「伝説が歴史から帰ってきた!A級順位戦全勝優勝を2年連続で成し遂げ、偉大なるS級決闘士にその名を連ねた女決闘士!その強さを示してくれるのか!無所属、アルマ・北斗七星!」
観客が歓声を上げる。それはヴィンスが今までに聞いたことがあるどの歓声よりも大きなものであった。
緑を帯びた銀髪を長く垂らした女が地面より迫り上がってくる。
美しい女。褐色の肌に引き締まった肉体をしているが、戦士には見えない細身。そして長い耳。エルフである。
ヴィンスがかつて見続けていた黒白のメイド服でも、先日の武装を展示していた時に着ていたドレス姿でもない。
金属製の胸当て、肘当てにショートパンツとブーツ。それ以外は鎧も着込まず、褐色の二の腕や腹を晒している。
扇情的とも言える姿。だがその全身から放たれる闘気が、魔力が。そのような気を起こさせる気にもならない。
会場は一瞬で静まった。
数万の観衆が。伝説のS級決闘士に興味があったものも、二十年も前の決闘士が強いものかと疑っていたものも。全てが彼女の雰囲気に呑まれていた。
「師アルマ……」
ヴィンスの声が砂地の上を流れていく。
アルマはその端正な顔を片側だけ上げるように粗野な笑みを見せた。
「良くここまで上がってきました、我が弟子」
だがその少し吊り上がった眼は笑っていない。緋色の瞳はぎらぎらとヴィンスを見つめている。
「ありがとうございます。……今日ここに立ち塞がるのが貴女とは思っていませんでしたけど」
「仕方ないのです、ヴィンス。貴方と確実に戦えるタイミングはここしかなかった。ああ、貴方がいけないのですよ。
あの可愛らしかったヴィンセント坊っちゃまがこんなに強く逞しくなるなんて」
砂地の中央に審判の男が立つ。アナウンサーが声を張り上げ、観客を盛り上げているが、もはや深く集中を始めたヴィンスの耳には届かない。
「構え!」
ヴィンスは右肩をアルマへと向けて拳を構える。脚を開き、上半身は少し前傾で右手、右脚前の半身。彼のいつもの構え。
アルマは自然体に近い、僅かに手を浮かせた状態で正面を向いて相対。
むろん、ヴィンスはそれが彼女の万全の構えであると知っている。
「用意はいいか?」
審判が確認する。
「はい」「ええ」
闘技場の砂地の上を風が吹く。
固唾を飲んで見守る観客。凍ったように動かない二人。
「A級昇格戦、始め!」
歓声が地を揺らした。




