エルフ史
かつて世界は滅びかけていた。
偉大なる龍も、それに従う蜥蜴人も、エルフの賢人も、ドワーフの技術者も、獣人の戦士も。
いかなる知恵も力も魔力も、世界の滅びには抗し得なかった。
世界の滅びとは何か。
それは星の死であった。天に輝く太陽が急激に暴虐の炎と化したのだ。
誰も日輪に手は届かない。
諦念が全ての種族を覆った時、全身に鱗も毛皮も髭も長い耳も持たない女が現れた。
「私は世界渡りの魔女、人は私を“世界”と呼ぶ。
はじめまして。異界の民たち」
女は豊かな金の髪をふわりと漂わせ、少女のような、だが永き時を生きた知性を感じさせる藍の瞳をしていた。
彼女はさっと天に手をかざすと、そのひと振りで死の陽光を魔術で遮り、集まる者たちに告げた。
「この魔術も一時的なものです。私とて太陽をおさめることはできません。
ですが、選択肢を提示することはできます。
安易な死か苦難の生か。星と共に死ぬか、新天地へと移住するか」
種族の長たちは新天地とは何かと尋ねた。
すると“世界”と名乗った女は、この星ではなく、次元を渡った先にある地球という別の星であると告げた。
そことここは近しい次元なので、はるか昔には稀に次元の歪みを超えて迷い人が互いに来ていたことがあるはずだと。
エルフの長は頷いた。
かつて貴女のように耳の短い人がエルフの村にいたことがあると。
種族の長たちは苦難とは何か尋ねた。
すると“世界”と名乗った女は、その新天地には魔族という敵対存在がおり、それと戦わねばならないことを告げた。
また新天地には既に住んでいる者たちがいるため、そこで使われている言語を覚えねばならないこと、文化や習慣、魔素の違いによる体調への懸念など多くのことを語った。
星と共に滅びること、あるいは最後の瞬間まで星の滅びを回避しようと残ることを選んだものもいた。
だが多くは彼女の提案に諾と言った。
ある満月の夜。紅き月が地を照らす夜。
エルフたちの言葉でアヴェマンテレラーと呼ばれていた大陸が大きく揺れた。
そうしてゆっくりと浮上を始めた。宙に浮かぶ巨大な船のように、その大陸は動き、界を渡った。
それは獣人の子が祖父になるくらいのとても長い旅路であった。
だが、それは一晩の出来事だった。その間、常に満月が大地を照らし続けたからである。
ある日唐突に旅路は終わった。
天にある紅き月はそのままに、だが黄色の月と青白い月が天にあった。
そして星々はまるでその形を変えていた。
天にあるはずのフェンリル座も王の剣座もなまこ座もなかった。
そして夜明けが来た。
巨大で全てを燃やし尽くす地獄のような太陽ではなく、穏やかに地を照らす太陽だった。
全ての種族は己の神に、祖霊に感謝の祈りを捧げた。そして“世界”という女に感謝を告げようとした。だが彼女はもういなかった。
これが界渡りの伝説。
だがこれは神話ではない、歴史である。いや、長命種たるエルフや竜族にとっては歴史というほど昔でもないかもしれない。
アヴェマンテレラーの地が地球についてから。それは地球に住まう者たち、人類と出会い、この地が彼らの言葉で新大陸と呼ばれるようになってから、まだ150年程度の時間しか経っていないのだから。
アルマや彼女の父母は地球生まれのエルフだが、祖父母は界渡りを実際に経験しているのだから。
さて、地球と呼ばれるこの新天地において。
エルフの戦士たちは最も苦境に立たされたと言って良い。
エルフと言えば練達の弓兵として高名であった。
だがこの地球において。かつて弓を遥かに上回る飛び道具があったという。
ドワーフたちが作りだした銃という武器を、1000年に渡って洗練させたものであると。
今やそこまで高性能の銃という武器は存在しないというが、その遺産とも言える魔術がこの世界には存在する。
〈矢避け〉と〈矢返し〉である。
魔術により飛び道具を回避する術は彼らの世界にも存在した。
だがそれは大量の魔力を必要としたり、難易度が高く覚えるのが難しいものであった。
だがこの世界のそれはより洗練され、無駄を削ぐことで、消費する魔力も詠唱の時間も少なく、習得が容易であり、さらに多様であった。
例えば効果時間が一瞬しかないが、撃たれた瞬間に発動させることができるものすら存在するのだ。
エルフの戦士たちは既にその術を手にしていた魔族、あるいは人間たちとの争いの初期。それによって大きな打撃を受けた。
エルフは氏族によって職を決める傾向にある。
その1つ、エーベンプーの氏族、エルフ語において黒檀を意味する彼らは、褐色の肌をした戦士の氏族であった。エルフ全体でも一二を争う強壮な戦士たち、女子供であろうと誰もが剣と弓を学ぶ氏族。
だが彼らは弓の腕前が優れた者たちを多く失ったことで大きく勢力を落とし、誇り高き戦士の氏族ではなく、誇りなき暗殺者の集団となったのだ。
暗殺者、あるいは盗賊、斥候。エルフは種族として知覚が鋭敏であり闇を見通す目を有する。
元より、夜陰に隠れ、気付かれないように戦うことは得手なのである。
戦士団を形成することが困難になったエーベンプーの氏族は個々に傭兵となった者もいるが、汚れ仕事に手を出していた。
そこにアルマは産まれたのだ。




