夜
チェザーレは笑って食事の盆を拾い、ヴィンスの前に置いた。
「ブリジッタの誤解といてくるから飯食ってろ。その間に寝るなよ」
「ああ、手間をかける」
チェザーレは部屋を後にした。
今日は酒ではなく果実水の入った杯へと手を伸ばす。
食べ終わる頃、顔を赤らめたブリジッタが戻ってきた。
「ごめん……なんか勘違いした……」
決闘が終わってから、4時間ほどがたっている。ヴィンスが言った。
「一応心臓は再生してるからもう寝落ちしないか見てもらわなくても大丈夫かな?
細かい体調整えるのは後でも大丈夫だ」
「どれ……」
ブリジッタがごそごそと寄り、頭を寄せて耳をヴィンスの胸につける。
とくとくと動く心音を確認しているようだ。
ヴィンスの顎の下をブリジッタの黒い髪がちらちらと撫でる。その無防備なうなじに手を伸ばしそうになるが、なんとか自制する。
「動いてるの分かった?」
ブリジッタが身を離す。
「ん、ちょっと安心した」
「一応横になって起きてるつもりだけど、寝てても問題はないからな」
ブリジッタが食器を持って下げ、タオルや水差し、何かあった時の呼び鈴を置いていく。
「ありがとうな」
「こういう時はお互い様よ。じゃあね」
ブリジッタがいなくなり、部屋の中で1人、ベッドに腰掛け、息をつく。
暫ししてカタカタとベッド脇に置いて行かれた水差しが震える。
違う、自分の身体が震えているのだ。
ヴィンスはベッドに横になった。夏の夜だが暑さを感じない。
疲労しているが眠気を感じない。
夏用の薄手の布団に包まり、身を抱くようにして転がる。
分かっている。
今日の決闘は生死の境を超えていた。
戦いで得たものは大きい。それも極めて大きい。
武術の動きの真髄の一端に触れることができた。あの術理の全てを理解するには長い時間がかかろうが、ヴィンスは一度見た動きをある程度〈念動〉を使用することで強引に再現することができる。
この動きをなぞるうち、フェンシングを元にしたヴィンスの我流拳法に八極の理を多少なりとも組み込む事もできよう。
だがそれでも。
今日1日で何度か死んだ。特に彼の絶招を最初に受けた時と、最後の絶招を超える技、その2回は確実に死んでいた。
確かにアルマを相手にしていた時も、ヴィンスが治癒術式に熟達して以降は毎日致命傷を受けていた。生死の境を踏み越えたのも、もっと酷い状況だったこともある。
だがそれでも。
致命傷の中でも心臓を止められ、吹き飛ばされるのは身の負担が大きいのだ。
いや、身ではない。心の負担か。
ヴィンスの魔力は『生きた』自分の肉体を対象としている。
人間の生命を象徴する中で最も重要なものは何か。誰もがこう答えるだろう。心臓、と。
心臓の機能としての再生は決して難しくない。
だが、自分が自分の身体を『死んだ』と認識した瞬間、ヴィンスの魔力は彼にかからなくなるはずだ。
特に相手が反魔術師だったことを考えると、吹き飛んで距離を取れなければ間違いなく意識を取り戻す事はなかっただろう。
余裕であると虚勢をはること。それは対戦相手や仲間たちへ向けてだけではない、自分にも言い聞かせているのだ。俺はこの程度の攻撃で死んだりしないと。
だが虚勢は返ってくる。こうして傷が治り、誰もいなくなった夜に。
「ブリジッタ」
ヴィンスの部屋から出てきた彼女をチェザーレが手招きする。
組合の共用部分の椅子へと呼び出した。
「ヴィンスはどうした?」
「一応再生はほとんど終わったんで横になるからもういいって」
「そうか……」
チェザーレは左右を見渡す。人がいないのを確認して言った。
「ブリジッタはヴィンスの秘密って聞いてるのか?」
「言われたことはないわ。でもローズウォール家と深い関係あるんでしょ?」
ローズウォール家に数日滞在していたのだ。あの家の者、それは家族のみならず古参の使用人たちも含めてだが、それが向ける視線に愛を感じる。
「うむ……親父たちは?」
「ダミアーノとかエンツォはわざと聞かないようにしてるけど、勘付いてはいるんじゃないの?」
「まあ厄ネタだよな……話は変わるんだけどさ、あー……」
チェザーレは言いづらそうに赤毛を弄びながら尋ねる。
「ブリジッタはヴィンスのことが好きなのか?」
「好きよ」
チェザーレが面食らう程の即答だった。
「好きで、1つ歳下だけど尊敬しているし、愛しているわ」
「そうか……。あのさ。今夜一晩、あいつを抱いてやってくれないか?」
ブリジッタの瞳が揺れた。
「ヴィンスは……きっとあたしを抱かないわ」
チェザーレはこれが残酷な言葉であることは分かっている。今はここにはいない黄金の野牛組合の皆が大切にしてきた姫を傷つける物言いであることを。なんならヴィンスも傷つくかもしれない。それでも。
「抱きしめてやるだけでいい。ブリジッタ。できないなら俺は今から娼館に行ってヴィンスの部屋に1人送る」
「なんでっ」
「あいつが折れないように、あいつが心を失わないようにだ。あいつの今日の戦い、死に踏み込みすぎている」
結局、ブリジッタは諾した。
「あいつの部屋に入ってみろ。それで何も問題なさそうなら戻って来て構わないから」
そっと音を立てないようにヴィンスの部屋の扉を開ける。
洋燈の灯りも消された静かな暗闇。
開けっ放しの窓から夏の星々の光が薄らとベッドの上のヴィンスの輪郭を浮かび上がらせている。
ブリジッタは起こさないようにそっとヴィンスの身体に触れる。
鋼の如き硬さだった。
安らかに眠っている肉体ではあり得なかった。
寝息も聞こえない。それは息を潜め、身を硬くして、何か恐ろしいものから身を守っているかのようだった。
ヴィンスの唇が動いた。
「……〈鎮静〉」
魔力光が薄らとヴィンスを覆った。精神を安定化させる術式。
彼は1人、自分の心を術式まで使用して安定させようとし、それでもそれが叶っていないのだとブリジッタは気づいた。
彼女はベッドにと上がるとヴィンスの頭を胸に掻き抱いた。
ヴィンスの身体が震える。
彼がここまでされて初めて気付くほど、心が内に潜っていたのだ。
「ごめんね、ごめんね……気づけなくて」
ヴィンスの手が彼女を振り払うように動き、ブリジッタはそれを捕らえてそれごと抱き締めた。




