嘉睿戦・後
嘉睿の胸が大きく動く。試合開始時と同様に[呑吐勁]から[練気]、気息を全身に廻らせ直しているのだ。それと共にヴィンスは肌がぴりぴりと静電気でも帯びているかのような錯覚を覚えた。
嘉睿からの闘気が殺気に上塗りされているかのようだ。
ヴィンスは内心で笑う。彼はなぜここまでの力があって闘技場で負けるのか。これを発揮して戦っていないからだ。
遠距離や魔術に対する訓練と思って闘技場にいるのだろう。
それは自らの修行のためか、A級に上がる前にその訓練を積んでおきたかったのか。
あるいは単に本気を出す価値を見出せなかったのか。
そう、絶招とは必殺技の意であったか。相手を殺す気にならねば打てぬ技だということだ。ヴィンスもまた気を引き締めなおし、五体に魔力を漲らせる。
「カアァァッ!」
嘉睿の破魔の声がヴィンスの体表の魔力を掻き消す。
だが構わぬ。ヴィンスはただ愚直にいつもの構えのままだ。
嘉睿は前へ。
八極拳の真髄は相手の間合いより内側に入り、密着とも言って良い至近で威力を爆発させること。だがそれは相手の間合いを一度通らねばならないことを意味する。
例えば劈掛掌という間合いが遠い時のための別の拳術を使っても良い。八極拳の弱点を補える。自分も扱えるし、弟子の浩宇にも授けた。
だがいらぬ。もはや接近のための歩法もいらぬ。ただ自然体で歩き、近づいていく。
ヴィンスは困惑する。隙だらけであるように見えて、全身が斑なく均等に隙になっているのだ。
それは裏を返せば全身の全てに嘉睿が気を配っていると言うこと。
拳を撃ち込めない。
ヴィンスの突き出した右の拳に、とうとう嘉睿の胸が触れる。
視線が絡んだ。無言。
ヴィンスが右の拳を放つ。筋肉が締まり、関節が骨を固定した瞬間。
嘉睿が前へ動く。[聴勁]である。触れている部分からヴィンスの動きのおこりを完全に読み切ったタイミング。
ヴィンスの腕が硬直するが、正面に突き出される力にはなっていないその刹那。
刹那の見切りはいっそ奇妙な現象を発生させる。
鉄山靠は肩や背での体当たりで相手を崩すが、嘉睿の胸で腕を押されたヴィンスがバランスを崩し、蹈鞴を踏むこととなった。
ヴィンスの構え。極端な横向きの構えであるが、その防御的な最大の利点は人体の急所が集中する身体の正面。正中線を晒さないことにある。
だが今、体を崩された。
嘉睿は斜め前へと進み、ヴィンスの正面に。
馬歩冲捶の動きで踏み込み、右拳。
胸の中心を穿つ。
さらに寸勁。手が相手の身体に密着した状態から威力を爆発させる。
ヴィンスの身体が後方へと流れるが、この技は連撃。脚は既に嘉睿の身体を前へと送り込んでおり、追随しつつ身体を沈め……震脚。
拳を突き出した状態で巌の如く固定された身体。ヴィンスの胸に拳が刺さる。拳が全て胸に埋まったかのようであった。
右の拳または肘を使って瞬時に撃ち込まれる正中線への三連撃。その技はこう名付けられている。
絶招、[猛虎硬爬山]。
今、彼の肋骨は砕かれ、心臓が撃ち抜かれた。致命傷だ。
ヴィンスは糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
彼の鼻と口からごぽりと血が溢れる。
嘉睿は拳を戻し、体を起こす。
「審判、医者を」
嘉睿が審判にそう告げ、背を向けた瞬間、崩れ落ちる動きを逆再生したかのようにヴィンスが立ち上がり、大きく後方に跳んで間合いを取る。
気を失っているのか、眼の焦点も合っていない。撃たれたのでもない鼻と口から血を撒き散らしながらも、その状態で跳びすさり、左手を胸に当てつつ、右拳を前に構えてみせた。
審判も分かっている。あの倒れ方は危険な倒れ方だったと。嘉睿の言う通り、即座に試合を止めて医務官を呼ぼうとしていた。
しかし、その前にヴィンスは拳を構えて見せた。
ただ、気を失っていても反射で拳を構えることはある。逡巡ののち、声をかけた。
「決闘士ヴィンス!意識はあるか?」
少しの時間の後、ヴィンスは大きく咳き込み、地面に血を吐いた後、声を発した。
「大丈夫、かすり傷だ」
「……馬鹿な」
嘉睿の声が響く。
「ヴィンス、なぜ生きている?」
「……あ、あー」
血の喉に絡んだような濁った声が出て、また大きくむせて血を吐いた。
「……ちゃんと、とどめを、さすべき、だったな」
「肋骨を折って心臓に打撃を入れたがとどめにならんと?」
「はは、そうだ」
ヴィンスが笑みを浮かべた。
この一連の動き。これはヴィンスの〈遅延〉術式により事前に組み立てられたものである。
遅延魔術とは事前に使っておいた術式を発動させずに登録と待機させておくやり方、特にそれを合言葉により魔術を一斉解凍することは、戦闘を得手とする魔術師ならよく行う技法である。
ヴィンスの初戦の相手、セノフォンテもこれを使っていた。
高名なのはアイルランドの人類の防人、ベルファストの一族。今は戦線が押し込まれた責を取り、ポートラッシュ辺境伯を名乗っている父娘だろう。
特にその娘アレクサンドラは10歳にして15の強化魔術を同時発動した天才にして、ブリテン王家は第二王子を婿入りさせるため婚約を結ばせたほどと、遠く離れたラツィオですらその名を聞く。
ヴィンスもまたこれを使える。ただ彼は、それを自分が意識を失った時に自動発動するように登録していたのだ。




