インノチェンテ
ドラゴンはその巨体を支える強靭な肉体と莫大な魔力を保有しており、その死体から取れる素材は武器・防具・魔術道具の製作者にとって垂涎のものである。例えばその血もまた、ある種の霊薬の素材となる貴重なものである。
たまたま、今ブリジッタの斬った首からの血が、ブリジッタの重力系術式によって地に落ちることなく漂っている。
これを見て解体士たちが眼の色を変えて砂地に飛び込み、血を回収に走ったのには、王すら不敬を咎めなかった。
王ともあれば、その血が同量の宝石より価値があると分かっているからだ。
国王、ミケーレⅢ世が立ち上がり右手をあげる。
闘技場の観客が一斉に彼に向けて頭を垂れ、ヴィンスもその場で跪こうとした。
「よい、そのままで良い、勇者よ。勤勉なる解体士たちも作業を続けて構わぬ」
王の声が静まり返った闘技場に響く。
「決闘士ヴィンス、決闘士ブリジッタ。竜の討伐、大儀であり見事であった。
汝らの勲しは我が胸に刻まれ、汝らが竜殺しを名乗ることを許す」
「は!この上なき名誉にございます!」
右腕を失っているヴィンスはそれでも毅然と立ち、左手を胸に当てて深く頭を下げた。
王が頷き、座る。
観客がざわめいた。ざわめきはだんだんと統一されて巨大な合唱となる。
――竜殺し!竜殺し!竜殺し!
決闘後に王が長々と喋る事はない。
勝った決闘士も大いに傷ついているのが当然だからだ。
ヴィンスは駆けつけた医療班が困惑するほど元気に貴賓席に頭を下げ、観客に手を振り、倒れているブリジッタを気遣う様子まで見せている。だが右腕を根本から失い、毒液とで皮膚が溶け、また出血で全身を赤と緑の斑らに染めたような状態である。
短いながらも王の言葉は最上級の賛辞であった。
竜殺しの称号とて、王が直々に名乗るのを許すのは巨竜を少人数で正々堂々と倒した場合のみである。
ヴィンスは自らの足で、ブリジッタは担架に乗せられて医務室へと向かった。
その夜。
屋敷にてキツい蒸留酒を浴びるように飲んでいたインノチェンテに声がかけられる。
「負けたわね」
ヒメナ、山羊頭の頭目だ。彼女は転移術の達人。いつでもどこにでも存在し得る。
酔えなかったか。インノチェンテは残念に思う。酒精は死への恐怖や緊張に打ち勝てなかったらしい。
酒盃を机に置き、頭を下げた。
「ええ、申し訳ございません。頭目」
「ふん、そう思っていても地に頭を擦り付けないのね」
「もう死ぬ身ですから」
ちっと舌打ちが響き、彼女はソファーに腰掛けた。ぎしりとソファーが悲鳴を上げる。
「蛇頭はあなたを許したわ。竜を失っていてなぜ?」
ここにくる前にヒメナは蛇の頭目とインノチェンテの処遇について話してきたのである。
「……あの方は獣達を愛している。獣達の命を無為に散らすことには厳しい。しかし闘技場で観客にしっかりと恐怖を与え、それが討伐されることはその目的に叶っているのです。
英雄を鍛え討伐されることがその本懐なのだから」
インノチェンテは椅子に深く座り直してため息をつた。
「竜呼びの鉤爪杖を献上し、首を差し出した私にお褒めの言葉までいただきましたよ。
あの方は不気味で恐ろしすぎるが、別に理不尽ではない。……知るのが遅すぎましたね」
ふん。
ヒメナの手に未開封の葡萄酒。インノチェンテの背後の棚にあったものだ。その瓶の首がずるりと落ち、彼女はそれをグラスに傾ける。
「で、どう落とし前をつける気だい?」
「命以外に払えるものはございません。如何様にも」
「そうね」
どさり、と音。
インノチェンテの右腕が床に転がる。
「もうひとつ。なんで負けた場合、うちの組合があの小娘への手出しを認めないという内容で決闘を行なった?」
インノチェンテは額から脂汗を垂らしながら答える。
「もはや無限の複合獣が彼女に手出しをするのは不利益しかございません。彼らの背後にはローズウォール、スカンディアーニがつきました。今日の決闘で王家もです」
どさり、と再び音。
インノチェンテの左腕も床に転がる。
出血が彼のシャツを染め、インノチェンテの顔から血の気が失われていくが、溢れる血はすぐに止まる。彼の首から下げる首飾りが輝く。それは〈血止め〉の魔術を発動させる魔術道具だからだ。
つい先ほど、蛇頭の頭目から授かったもの。
じっとりとヒメナは憎しみの籠った目でその首飾りを見つめ、深く息をついた。
「わたしはてめえを殺したい。その首を刎ねてやりたい。……三頭目からの評定を伝える」
インノチェンテは椅子から跳ね上がるように立ち上がり、腕を失ってバランスを崩しながらも跪く。
「議題:インノチェンテへ与える適正な処罰について。死:1票、追放:2票。
よってインノチェンテを追放刑に処す。何処なりと野垂れ死ぬが良い」
インノチェンテの視界が歪んだ。
目の前には夜の草原。
彼は地面に頭をつけて慟哭する。
蛇の頭目がわざわざ自分の助命のために獅子の頭目にまで声をかけてくれたと言うことだ。
全ての財産と両腕は失ったが、それでも命だけはと。
夜が明けるまでインノチェンテはその場で泣き崩れ、陽射しとともに立ち上がった。そしてその後、彼の姿を見たものはいない。




