悪食竜戦・中
「いくぞ」
「ありがと」
ヴィンスが右手に持っていた戦斧をブリジッタに投げ渡した。
ブリジッタは巨大なそれを軽く受け取ると再び斧を構える。
そう、この投擲は予め予定されていた動き。
インノチェンテに対処されるところまで含めて。
竜の動きは決して鈍くない。その体躯の巨大さを考えれば異常なほど速いと言っても良い。
それでも、肉弾戦のみをその信条とする決闘士である2人よりは遥かに遅い。
特に初動は調教師であるインノチェンテの指示を受ける必要がある。そこの時間差を利用するために計算した動きだった。
それを戦斧の投擲をインノチェンテに防御させることでさらに引き伸ばしたのだ。
ただヴィンスにより多くの強化術式を重ねさせるために。
強化術士は決闘開始直後が最も弱い。
またヴィンスとブリジッタが同じ場所にいるところに竜の吐息を広域に吐かれると、その対処と回復のために後手後手に回らざるを得なくなる。それを避けるためでもあった。
悪食竜が息を吸う。口元から緑色の瘴気が漏れる。
竜が一度首を上げ、凶悪な牙を見せつけるように口を開いて振り下ろした。
喉の奥から粘性のある雲のような、気体とも液体ともつかぬようなものが勢いよく吐き出される。
これが悪食竜の竜の吐息、猛毒の息なのであろう。
「〈月面歩行〉!」
ブリジッタが術式を唱えた。自身と手にするものの重量を1/6にまで軽減するもの。今や彼女の体重は10kg程度、身につける鎧や巨大な戦斧を合わせても20kg台といったところか。
迫る毒の雲をブリジッタはふわりと大きく跳躍して避けた。
「いくぞ」
ヴィンスの後方の砂地が吹き飛ばされる。身を低くして吐息を掻い潜るように突進するヴィンスを誰もが見失った。
「〈突き〉」
ヴィンスの右の貫手による捨身の突き。
三指には竜の纏う魔法的な防御を破る〈解呪〉、巌の如き鱗を穿つ〈鋭さ〉、さらに〈貫通〉。ヴィンスの使える中で最も貫通力の高い組み合わせだ。
岩が割れる轟音を闘技場の誰もが聞いた。
毒の息の放出が止み、四肢を砂地につける竜の左前脚。
人で言えば手首にあたる部分にヴィンスの姿があった。
彼の右手は根元まで竜の肉体の中に埋まっている。
長い眠りの中で岩に擦れ灰色に汚れた鱗の断面。暗緑色に鈍く輝く色が露出した。
ヴィンスの指は筋肉にまで達している。人類では達することのできない強靭で高密度の筋肉。この巨体を支えるためのものだ。
悪食竜は虫でも振り払うように手を横薙ぎに振った。
攻撃しようという意図ではない、ちくっとしたから振り払おう程度の反射的な動き。
だがそれだけでヴィンスの身体は持ち上げられ、弧を描いて宙を舞った。
「……!」
ヴィンスは空中で回転し、地面に足から着地すると即座に突進。左手を振り上げている竜の右手に攻撃する。
再びの轟音と衝撃。結果は同様に鱗を割ることができ、同様にもう一度振り払われる。
ヴィンスがさらに突進しようとして、その脚が止まる、いや止められる。
竜がはじめてヴィンスに殺意の篭もった視線を向けたのだ。
「ふん、やっとこっちを見やがったな」
両手に穿たれた孔、鱗は一部が剥落し、その下の重なる鱗やさらに下の赤い肉を見せているが、血はほとんど流れていない。竜種は治癒力も高いのだ。
「ほっ…………ほっ…………よっと…………」
ブリジッタは戦場を飛び跳ねる。
竜の後方へと、動きに巻き込まれないよう大回りして回り込む。
これも事前に相談していた通りの動き。
――竜の攻撃範囲は広い。だが相手の一動作で2人とも巻き込まれるのは避けたい。
――後手後手に回りたくないってやつね。
――ああ、だから序盤、ブリジッタには竜の側面後方に回って欲しい。
それは竜の猛攻を自分の身一つで止めるという宣言に等しい。
だがブリジッタはヴィンスに頭を下げた。
――お願いするわ。
他にやりようはないのだ。竜の正面で耐えられると言えるだけの決闘士、他にいない。
特にブリジッタは治癒術式も使えないのだ。
――ブリジッタには竜が俺を敵視したら、攻撃を仕掛けて見て欲しい。それともう1つ……。
ブリジッタは殺気を感じた。竜から発せられる、魂すら竦ませるような威圧感。
結界越しに観戦している観客ですら、気を失う者も出るほどだ。
だがそれは自分に向けられたものではなかった。
ちらりと斜め後方のヴィンスを見る。
彼はそれを正面で受けて、笑っていた。
ブリジッタは竜への攻撃を断念する。……今は。
彼女は自分を知っている。
あたしはそこまで勇敢ではない。
竜を攻撃して、自分にあの敵視が向いた時、確実に動きが止まってしまう。
ここで攻撃を仕掛けるのは自分の力量を考えた時、ただの蛮勇であると感じた。
「あたしはヴィンスのような英雄に至る器ではないもの」
もっと悪食竜がヴィンスしか向いてないような状況になった時に一撃を加えにいこう、そう考える。それよりも……。
ヴィンスと話したもう1つ。
――それよりもインノチェンテを牽制していてくれ。あいつはこちらを妨害しに来るだろう。
ブリジッタの目の前でインノチェンテが杖を左手に持ち替え、右手を懐に入れた。
中からは黒光りする金属の筒。
拳銃だ。
ブリジッタは月面歩行の術式を解除し、ヴィンスとインノチェンテの間に高速で落下。斧の面の部分を壁のように立て、放たれた銃弾を受け止めた。
カンカンと分厚く巨大な斧頭が銃弾を弾く。
「てめえ、ブリジッタ……!」
「ふん、お見通しなんだから!」




