悪食竜
インノチェンテはもはやどうやって夜会を過ごして自宅へと戻ったか覚えていない。気がついた時には嵐でも直撃したように荒れた自室で酒瓶を抱えて目を覚ました。
普通であればブリジッタという女など諦めてしまえばいい。というか諦める他ない。ブリジッタの身柄を得たとして、得るのは破滅だけなのだから。
だが諦めたとしてどうか?それは無限の複合獣の頭目に殺されることを意味する。
逃亡は無駄だ。山羊の頭目ヒメナは世界でも有数の転移術士の1人。嘘か真か、ブリテンの転移術の達人、大魔術師サイモン氏の妹弟子であったという。
暴飲を続けながら考え続けた。そして、数日後に1つだけ可能性を感じ、ひっそりと家を出た。
彼が向かうのはラツィオ闘技場より東、カエリヌスの丘。ラツィオで最も人の少ない地域だ。中心部からは外れるとは言え、下町からも近く、決して利便性が悪いわけではない。
ではなぜ住人が少ないのか。それはここに無限の複合獣のラツィオの拠点があるからであった。日夜、魔獣の唸り声が響き、獣臭の漂う町。
インノチェンテら無限の複合獣の構成員たちですら、ここに住まうのは嫌う。
夜中、唸り声が、遠吠えが、咆哮が響く。闇の中にいるはずのない気配を感じる。ここに住んで平然としているのは蛇の頭目のみであった。
インノチェンテは丘の奥にぽっかりと穴を開ける洞窟へと向かう。
それは微睡んでいた。
その微睡は何年も続く休眠であった。
それは孤独であった。
かつていた仲間たちから遠く離れた地に連れてこられた。
それは闇の中にいた。
カエリヌスの丘に掘られた巨大な竪穴、その奥に。
それは巨大であった。
身を丸めて眠っていてもなお、2階建ての家屋を上回る体躯。
それは堅牢であった。
岩に同化するような灰色の鱗に覆われていた。
それは攻撃的な姿であった。
眠っていても見える巨大な角、牙、爪、棘の生えた尾。
それは囚われていた。
地下に掘られた広大な檻の中に、呪術による戒めに。
そうして眠るそれの目を覚ます魔力が叩きつけられた。
小さき者が、それの前で声を張り上げていた。
「覚醒せよ!悪食竜!我が声に従え!」
その目が開いた。
その眼球は黄色、瞳は漆黒。透明な膜に覆われた爬虫類のようなそれは、人間の頭よりも巨大。
小さき者、インノチェンテの手には木と爪と鱗を組み合わせ、糸で縛って作られた熊手のような形状の原始的な短杖。かつて彼が新大陸において龍を奉ずる蜥蜴人の祭器を奪ったものだ。
竜呼びの鉤爪杖、竜種の眠りを覚まし、呼び寄せる杖。小型の竜種なら支配する力もある。
グルルルルルル。
微睡から覚醒したそれは不機嫌そうに唸る。地響きのような声。
ここまで巨大な竜を従えるのは、本来であれば極めて困難である。
だが彼は現場からは離れているが、これでも元々腕の立ち、それなりの魔力も有する調教師であること。龍の鱗の破片を使って作られた祭器を使っていること、そして長い年月をかけて竜を屈服させたこと。
この杖と悪食竜と呼ばれた竜こそが彼の切り札であった。
「お前をここから解放してやろう!新鮮な肉を食わせてやろう!戦え!ラツィオに暴虐の嵐をもたらすのだ!」
それを眠りにつかせていた魔力が、呪術による戒めが霧散する。
その日、ラツィオの全ての住民が天地を震わす咆哮を耳にした。耳の聞こえぬ者ですら大気の震えを感じ、気を失った者が続出したという。
竜の咆哮。声そのものに魔力の込められた竜種の叫びである。
そして竜は洞窟を崩して立ち上がり、翼を広げて丘を飛び立つ。
鈍重な動きだ。蝙蝠に似た形状の翼ももちろん巨大なものではあるが、その巨体を浮かせられるとは思えない。竜種とは存在そのものが魔力の塊のようなもの。術式を使わずとも、その声に、息に、羽搏きに魔力が籠る。
飛び立った竜は、闘技場の中央、砂地へと着陸した。
地響きが起こり、砂煙が舞う。
闘技場の砂地は楕円形、およそ長径90m、短径60mである。その巨大な空間も、中央に四足をついた竜は手狭に見えた。
竜の体躯はその胴部だけで優に10mを超える。そこから長く伸びた首、逆側に長く伸びた尾までの全長は30mに及ぶであろう。
無論、地上の動物にここまで巨大なものはいない。魔獣・幻獣の類でも竜種を除きこのサイズに至るものはない。
鯨のなかでも最大のそれに等しい巨体だ。
それが身じろぎするだけで闘技場が僅かに揺れ、軋む。
本来、このサイズの巨体であればその体重は100トンに迫る。だがその自重に潰れないのも強靭な肉体と魔力によるものである。
またその魔力は闘技場の底が抜けるのも防いでいた。闘技場の地下には闘士や獣の通る通路があり空洞で、闘技場が軋むのは、構造物にかけられた防護の魔力と竜の魔力が反発しているのだ。
こうして、決闘士の季が終わって冬を迎えるラツィオに暴虐と恐怖の嵐が吹き荒れた。
闘技場での囚人の公開処刑、奴隷剣闘士の闘獣戦、あるいは別の老いた獣などの処分。
全てこの竜が行ったのである。
悪食竜、暴食竜、毒竜。
灰色の体躯は常に口周りを赤く染め、その口から滴る毒混じりの唾液は砂を黒く汚染していく。
そうして翌、大同盟暦118年、インノチェンテは黄金の野牛組合に赴いたのだった。




