ザイラ
ごきりと音。
大粒の宝石をつけた指輪が肩口に食い込む。
崩れ落ちそうになるが、そうなるとその場で殺されかねない。インノチェンテは必死に耐える。
「蛇頭と話つけてきたの。まずバルダッサーレは引退、獅子頭のとこに送るわ」
これは当然とインノチェンテは思う。絶対的に強いからこそ恐怖が与えられるのだ。負けた以上その役割を奴はもう果たせない。
代わりに誰か派遣する話があるかと思ったが、ヒメナはそれには触れなかった。
「次に細かい嫌がらせ、襲撃はやめろ。結果出してないの、わかる?」
指輪でぐりぐりと肩を押し込まれる。
「は、はいっ……はいっ!」
「最後、今季はもうシーズン終盤でヴィンスってのを闘技場で殺りようがないでしょ。だから来季、闘獣戦に引き摺り出しなさい。そこであんたが!全力で直々に手を出しな。男を殺して女を連れてこい。機会はこれで終わりよ」
「はいっ……!」
「いいか、あのヴィンスという男は強い。それをしっかり念頭に置くことね。
それと、今季観衆に恐怖を植え付け直すのを忘れないこと。緩んだまま1年を終えたら、その機会もなく死ぬことになるわ」
ヒメナはついっと指を上げる。その先で、彼が先ほどまで呑んでいた蒸留酒の瓶の上半分が音もなく滑り落ちた。
インノチェンテには魔法の発動の予兆すら感じ取れない。
「殺しに来るのがわたしだといいわねぇ。直ぐに死ねるもの。蛇頭は悲惨よう?」
良く、とても良く知っている。
「じゃあね、励みなさい」
「は、複合獣に……無限の栄光あれ……」
言い終わる前に山羊頭ヒメナは部屋から忽然と消えていた。どさり、とインノチェンテは地面に崩れ落ちた。
同刻、王都、歓楽街。
闘技場の正門から南、下町へと向かうと、表通りは商店街が広がっている。治安も良く、女性や子供連れも買い物を楽しむ綺麗な通りであるが、ちょっと外れて路地を奥へと入って進むと歓楽街が広がっているのである。立ち並ぶ居酒屋、娼館、連れ込み宿。
客引きと嬌声が壁の向こうから聞こえてくるような連れ込み宿の一室。
洋燈の灯りの下、先ほどまで激しく睦み合っていた男女が寝台に裸のまま腰掛けている。
男は煙草を咥え、手にしたメモ帳を無機質な瞳で読み進める。メモ帳に書かれた丸っこい文字を最後まで読み進めると、それを隣に座る栗色の髪の小柄な女に渡した。
「ど、どうですか?」
尋ねる女はザイラ、まだ20歳前後の決闘士新聞の新人だ。
男は煙草を根元まで吸うと灰皿に押し付け、ゆっくりと煙を吐いた。
ザイラが見ている限り、彼は情事の後にいつもこの煙草を吸っている。嗅ぎ慣れない甘い香りの漂う煙草だ。
「いいんじゃないの、だいぶ書くのこなれてきたでしょ」
そう言って女に笑いかけるのは王都新聞で5年ほど闘技場担当の記者をやっているピーノ。
「やった」
ザイラはメモ帳を受け取ると、ピーノの腕にしなだれかかる。
2人は今季の初戦の時に会って以来、こうして会うようになっているのだった。
「でもザイラすげーじゃんよ。新人なのにA級観戦記に特集のページとかまで任されてさ」
「えへへ。教えてもらってるおかげだよね」
「かもな。あー、そういやさ。ロドリーゴさんは?」
「ロドリーゴさん?」
突然話を振られ、彼女はきょとんとした表情で尋ねる。
「ん。今年B級観戦記は書いてるけど、特集とか出してないからさ」
「ああ、そうなのよ」
ロドリーゴが幾度となく行なっている決闘士ヴィンスへの取材はまだ日の目を見ていない。彼はヴィンスを中心としたC級決闘士の特集をした原稿を書き上げて机の上にこれ見よがしに置いてある。
試合毎に追記・修正されて完成度を高めていくそれは、原稿を採用しない決闘士新聞編集長ヤコポへの雄弁なる無言の抗議と言えた。
その話を聞いてピーノは言う。
「ザイラのとこ、弱小だからなぁ」
決闘士新聞は闘技場のことしか扱わない専門紙だ。王都での販売が中心ではあるが、王国全体に流通する王都新聞とは売上も組織の規模もまるで異なる。
「だからアレだよな、そっちの編集長が尻込みするのは分かるんだよ」
「うーん……」
ピーノは新しい煙草を一本取ると口に咥えた。
「〈点火〉」
指先から火種を生み出して煙草の先端を炙る。再び紫煙が漂った。
「無限の複合獣は組織としてデカすぎる。弱小新聞社が立ち向かうにはリスクがデカすぎるんだよ」
「うん……」
「ただまあ、潮目は変わりつつある。
道化師戦だ。彼の長いキャリアの中で、少なくとも新人に負けたのは初めてだろ。
つまり、これならヴィンスを称賛する記事がないのは、民衆から見ても不自然と思える域に来たわけだ」
「ならっ!」
ザイラが身を乗り出す。ピーノは首を横に振った。
「だがその1本目の記事をお前のとこが書くのはいかにも不味いってことだ。
なあ、ザイラ。その原稿一回見せてくれねえ?こちらで上と掛け合って記事の買い上げとかできるぜ」
「そんな……原稿持ち出しなんてできないよ。あ、でも自分の勉強用に前の原稿を書き写したメモなら……」
「貸しな」
ピーノはザイラに手を差し出す。彼女がメモ帳を差し出すと、笑みを浮かべてそれを奪い取った。




