バルダッサーレ戦・決着
ヴィンスが囁く。
「痛みを感じないだろう?攻撃の瞬間に〈鎮痛〉をかけたからな」
肉の下、ヴィンスの手が大腿骨を握っているのがわかる。神経が触られ、不随意の動きで痙攣するが、ヴィンスの手はびくともしない。
バルダッサーレの目が審判を探して動く。ヴィンスはわざとバルダッサーレの身体に隠れて審判から見えないような角度に移動してから今の一撃を放ったのだ。
さらに審判はバルダッサーレの試合において鞭の範囲外、かなり遠くにいる。審判が回り込んでくる時間が遅い。無限に感じられる。
「インノチェンテに伝えろ。俺は全て暴力で押し切り、黙らせるぞと」
「わ、分かった。分かったから」
「……だがお前はブリジッタを痛めつけたからな」
「ひ、ひぃっ!こ、降」
言葉は途中から悲鳴と絶叫になった。ヴィンスが〈鎮痛〉術式を解除したためである。
審判が駆け寄るが、その前にヴィンスはバルダッサーレの大腿骨を握り、バルダッサーレを頭上で振り回した。
動脈が破れ、鮮血がヴィンスの身体に降り注ぐ。
血塗れになったヴィンスはバルダッサーレを真横に振り回して大腿骨を握り潰した。支えを失ったバルダッサーレの身体が壁際へと吹っ飛んでいく。
血に飢えた観客たちすら静まり返る原始的な暴虐。
ヴィンスは大きく両手を広げ、天を仰ぐようなポーズを取る。右手から粉々になった大腿骨の破片が砂地に落ちた。
「審判?俺はとどめを刺すべきか?」
「し、勝者ヴィンス!医療班!急げ!」
ヴィンスが昇降機を降りると、係官と槍を手にした警備の兵が驚愕の表情でヴィンスを迎える。
「どうした?」
「いや……。まさかバルダッサーレ殿を相手取って勝ち星をあげられるとは。感嘆いたしました。おめでとうございます」
「お、おめでとうございます!」
係官と兵士が言う。係官が興奮した兵の方をちらりと睨み、だが何も口にはしなかった。
「ありがとう」
兵士と闘士は個人的な話をしてはいけないのではなかったか。ヴィンスはそう思ったが、それだけ言うと笑って手をあげて立ち去った。
水道で血を落としてから控室の前に来る。
「……?」
中に3人より多い気配。少し息を整え、警戒しつつ扉を開けた。
控室には30代中程の男。中位以上の貴族の一門であろう、上質な衣服と立ち姿、背後には兵士を2名連れている。
ダミアーノが言う。
「おう、ヴィンス。おめでとう」
「ありがとう。彼らは?」
「運営委員さ……手回しが早いことだ」
エンツォが吐き捨てる。
「ええ、ラツィオ闘技場、運営委員会所属のラファエーレと申します。黄金の野牛組合のヴィンス氏に査問するため参りました」
ラファエーレ……ヴィンスは考える。どこぞの侯爵家の三男だったか……、世代も違うししっかりと覚えてはいない。
「ここでいいのか?それともどこかへ移動を?」
「いや、今回はここでいいでしょう。ああ、ありがとうございます」
ブリジッタがラファエーレに席を勧める。そのままひょこひょことヴィンスの前に。
青褪めた表情、濃紺の瞳には涙。
「ばかっ……!何が無傷で帰ってくるよ!」
「嘘はついてない」
ブリジッタはヴィンスの腹を一発殴るとラファエーレの向かいに立たせた。
「血塗れだったじゃない……」
ヴィンスの身体は湿っている。
机からタオルを1枚ヴィンスに渡し、もう1枚で背中側を拭っていく。
「さて決闘士ヴィンス、先程の決闘に関してあなたには2つの嫌疑が。1つは対戦相手のバルダッサーレ氏が降参の意志を示したのにその後に攻撃したのではというものと、過剰攻撃ではないかというものがあげられています」
「まず前者に関してバルダッサーレは降参のための動作を取っていない。降参という言葉を言っていない。審判も試合を止めていない」
「降参と言いかけていたのでは?」
「そうかもしれないし、何か術式の詠唱だったのかもしれない。『降参』のSから始まる術式なんていくらでもあるので」
「分かりました。後者に関しては?」
「あの程度で過剰攻撃と言われるとは思わなかった。だとしたらラツィオの決闘士たちは軟弱なのだな」
「C級順位戦ですよ?」
「C級にあんなレベルの決闘士を置いて放置している方が悪いのでは?」
身体をある程度拭ったヴィンスは、椅子に浅く座ると脚を組み、肘掛けに頬杖をついて嘲笑の笑みを見せた。
ラファエーレと共に入室してきた兵士たちがヴィンスに剣を突きつける。
「……不遜な態度ですね。心証を悪くしますよ?」
「やあ、すまない。一仕事終えたばかりの決闘士に対してあまりにも愚かな物言い、真面目に取り合う気にもならん」
エンツォが吹き出した。
ヴィンスは続ける。
「どうせ無限の複合獣から抗議を受けたから査問に来ざるを得なかったのだろう?貧乏くじだな、ラファエーレ。
だが、俺は去年ブリジッタが同等の怪我を負わされていることを知っているし、それ以前に彼に潰されたものたちのことも聞いている。
なあ、決闘士が事故で相手を殺すのが悪いとは言わないさ。でも3年前に降参と言っていた新人をいたぶり殺した彼は無罪なんだろう?」
バルダッサーレの所業についてはブリジッタから、それと新聞記者としてこの話に詳しいロドリーゴからも聞き出しているのだ。
「……あれは事故ということになっています」
「そうだな、だから当然これも事故で処理するべきだ」




