バルダッサーレ戦・前
『明文化されてはいない、規則ではないですが、やってはいけない戦い方が闘技場にはあります。分かりますか?弟子ヴィンス』
かつてアルマは訓練後に倒れているヴィンスにこう話を切り出した。
ヴィンスが首を横に振るとアルマはこう言ったのだった。
『盛り上がらない戦い方をすることと、初撃で相手を殺す攻撃をすることです。例えば試合開始早々、〈睡眠〉で一方が突如眠ってしまったらどうでしょう?』
『それは嫌ですね。初撃で殺してはいけないのはなぜですか?瞬殺とは闘技場で良く聞きますが』
ヴィンスは尋ねた。
『瞬殺とは相手に一瞬で勝つ事を意味します。それは圧倒的な力を示したと称賛されること。
ですが、初撃で殺すことは意味が違います。それだけの力がありながら、王国の財産たる決闘士を無為に殺したと見られるのです』
そう、この戦いで確実に言えることが1つ。
バルダッサーレはヴィンスの顔面を初撃で打つことはない。
それにバルダッサーレは間違いなく嗜虐趣味者だ。長くヴィンスをいたぶりたいと思っているだろうから余計に。
バルダッサーレの鞭が視認すら困難な速度で迫る。
ヴィンスは右手を首の前に立てた。身体を打った鞭が首に絡むのを防ぐために。
バルダッサーレの鞭はヴィンスの腹側を打つと見せかけて空中で軌道を変化させ、背中を打つ。
激しい打擲の音、皮膚を弾く衝撃と、鱗の複雑な形状が皮膚を、その下の肉までも削る。
血が、破れた皮膚が飛び散る。
がはっとヴィンスの口から衝撃で息が漏れる。
僅かに表情が歪んだ。
ヴィンスは積極的に回避をしようとはしなかった。実際、今の攻撃を避けられたかというと半々だろう。こんなところで運を天に任せたりはしない。
一方のバルダッサーレは思った。ふむ、無詠唱で使用した術式は〈鎮痛〉ですか、と。
鞭打の痛みは他の武器とは比較にならず、本来耐えられるようなものではない。
だが皮膚を、肉を打たれる衝撃は今のように呼吸を乱し、全身をこわばらせる。
「ははは!痛みを消したとてあなたお得意の突進も、術式の詠唱もできないでしょう!さらにぃ……!」
バルダッサーレは鞭を手元に引き寄せながら左手の指輪を経由して術式を使う。
「〈ぼやけ〉!」
幻覚系の術式、姿を残像のようにぼやけさせるものだ。彼の操る鞭が残像を引き、挙動がまるで読めなくなる。
「はっ!」
鞭が振り下ろされた。視認すら怪しかった速度の鞭が、さらに幾重にも分裂したようにヴィンスへと襲いかかる。それは彼の右腕と脇腹の皮膚を抉り取った。
鮮血が舞う。観客が悲鳴と歓声を上げる。
「どうしましたぁ!身動きすら取れませんかぁ?」
3度目の鞭が振り下ろされた。ヴィンスの太腿から背にかけての肉が削ぎ落とされる。
いくら痛みを無効化しているとは言え、物理的な衝撃は骨や内臓まで響き、声が揺れる。碌に詠唱はできない。
「ふふん、無抵抗では面白くありませんよぉ!」
ヴィンスは身動きが取れず無抵抗にやられているだけなのか?
否。
彼は〈鎮痛〉を使用した後、無詠唱で1つの術式を使い続けている。
それは彼がアルマからその使い方を指導された唯一の術式。
〈念動〉だ。
だがヴィンスは魔力放出が出来ない身。小石1つ宙に浮かせることが出来ない〈念動〉に何の意味があるのか?
ヴィンスは〈念動〉を自分にかけているのである。
まずは全身が動かないように固定、そして左手を動かすために。
右前の彼の構えで身体に隠れてバルダッサーレからは見えぬ左手。
その5指が完全に独立した動きで魔法文字を描き続けていることに誰も気付いていない。彼は5文字を同時に描いているのだ。
今再び振り下ろされた鞭。4度の攻撃によりヴィンスの首から下は、皮膚が剥げ、そこから溢れる血でそのほとんどが紅に染まっている。
だがその間に、ヴィンスは数百文字の魔法文字を描く必要が合るほどの大魔術の準備を完成させた。
ヴィンスの身体の後方で左手が輝き、身体全体へと浸透していく。
バルダッサーレは仮面の下、怪訝な表情を浮かべた。
今の輝き、その大きさから見て、かなりの魔力が消費された大魔術に見える。
だが、無詠唱で一体何を発動させた?
ここにヴィンスの特異な体質が有利に働く。
なぜ幼い頃、ヴィンスは魔術が使えないと思われていた?『内に莫大な魔力を秘めているのに、一切の魔力を漏らさない』からだ。
そして彼は強化魔術師。魔術の効果が外からは見えないのだ。
実のところ、彼が今まで対峙してきた対戦相手たちも、観客たちも、ロドリーゴも、黄金の野牛組合の者たちも、もちろんバルダッサーレも。
ヴィンスの魔力容量は少ないと思い込んでいるのだ。
よって誤った結論を導いてしまう。
「ハッタリですかぁ?〈光〉で偽装して、警戒させることで攻撃の手を弱めようとでも?」
バルダッサーレは〈加速〉術式を使用、さらに激しくヴィンスを打ち据える。
ヴィンスは避けない。その唇が弧を描いた。
「バルダッサーレ」
彼は構えを一度解くと、血塗れの右腕を掲げて左手で撫でる。
血が拭われた下、白い肌が見える。皮膚が弾けて露出していたはずの肉は見えなかった。




