バルダッサーレ戦・開始前
選手控室でヴィンスは愚痴る。
「淑女としてあれは良くない」
ヴィンスの鉄籠手を紐で固定しながらブリジッタは言う。
「はいはい、淑女じゃないですからねー。終わったわよ」
「……ありがとう」
ヴィンスは籠手がずれないか確認する。
今日はついに第6節、バルダッサーレとの対戦だ。
ダミアーノがまたうろうろと控室の中を歩く。
「なあ、ダミアーノ」
「……ああ、すまん。どうも落ち着かなくてな」
「いいさ。なあ、アルマとバルダッサーレ、どっちが強いよ」
「そりゃあアルマだけどよ」
「そういうことさ。相手は格上のベテラン決闘士だ。胸を借りる気で行くが、もちろん負ける気はないぜ」
ヴィンスは軽く肩を回し、ダミアーノに拳を突きつける。ダミアーノはそれに拳を合わせた。次いでエンツォと。
「期待してるぜ」
「おう」
先程まで軽口を叩き合っていたブリジッタの表情が強張っている。
「ヴィンス……」
「不安そうな顔は似合わないよ」
ブリジッタは両手で自分の顔を挟むように叩くと、笑窪を見せて笑い、ヴィンスに抱きついた。
「勝って。それと……無事で戻ってきて」
「ああ」
ヴィンスはぽんぽんとブリジッタの背を叩いて告げた。
「今日は全力で行くよ」
エンツォが笑う。
「今までの相手じゃ全力を出すまでもなかったか」
「だから安心してくれブリジッタ、ダミアーノもだ。
勝負だから絶対に勝てるとは言い切れんが、無事に帰ってくるのだけは約束する」
そう言ってヴィンスは控室を出て行った。
彼がいなくなった控室。観客の歓声が、分厚い石を抜けて遠雷のように響く。
ブリジッタはふと机の上にあるものに目を止めた。
「これって……」
机の上には本が開かれた状態で置かれている。
紙面には魔法文字と魔法円、詠唱の文言やその効果の説明。
羊皮紙を束ねて作られた特別な書物。ヴィンスの魔導書だ。
「なんで開きっぱなしに……」
通常、魔導書は自分専用や血族、師弟専用というように開けられるものが限定される付与魔術がかけられているものだ。
だが開けっ放しでは意味がない。
閉じ忘れていたのか、無防備に置き去りにされたそれを仕舞ってあげようとして近づき、その手が止まる。
「〈再生〉……」
そこに記されていたのは失われた四肢の欠損すら癒す治癒魔術の高位術式。治癒術士の中でもその術式の複雑さ、消費魔力の多さから使い手は少なく、これが使えるなら王宮魔術師としても上級の治癒術士としても引く手あまたという術式だ。
ブリジッタの顔が青褪める。
「おい、ブリジッタ。試合見に行くぞ」
ダミアーノの声。
「え、ええ。今行くわ」
ブリジッタは魔導書をヴィンスの荷物の中に突っ込むと、彼らのいる客席下の覗き窓へと向かった。
「新人戦優勝、もちろんここまで無敗!黄金の野牛所属、打撃系格闘士・強化術士、ヴィンス!」
「ここまで4勝と不戦敗1、C級最強との呼び名高き、無限の複合獣所属、鞭使い・幻術士、バルダッサーレ道化師!」
曇天にアナウンサーの声と歓声が轟く。今日は観客が多い。前の第5節、新人戦の決勝なんかの比ではない。血を、流血を求める観客たちだ。
バルダッサーレはその名に似つかわしく道化師を模した、縦縞と菱形を組み合わせた衣装。顔には化粧ではなく仮面舞踏会のような仮面。
左手には魔術杖の効果があるだろう巨大な宝石の指輪。右手には一本鞭。
その鞭は艶やかな黒、革ではない、金属でもない材質だがどこか生物的なものであった。
「やぁ、決闘士ヴィンス。はじめまして」
「ええ、バルダッサーレ。はじめまして」
一見にこやかに挨拶を交わす。
「気になるかぃ?」
バルダッサーレは束ねてあった鞭を地面へと垂らすと、手首の返し1つで蛇の様にうねらせる。
「竜鱗さぁ。金属に穴を穿ち、皮を剥いで肉を抉るんだよぅ」
独特な抑揚で得物について語る。
竜の鱗を加工して並べたそれはしなやかでありながら強靭。重なり合った不規則な形状の表面は砂地を引っ掻き傷のように荒らしていく。
「なるほど、調教師組合に相応しい得物ということか。見せていただいて感謝する」
「はは、いいともさ」
「無限の複合獣は彼女を手中に収めんとして数年前から嫌がらせを続けているのか?」
「全ての決闘士組合は国王陛下の名のもとに護られますからねぇ。直接的には攻撃は禁じられているのでこうして迂遠な手を取らざるをえないのですよぉ」
黄金の野牛組合が解散すれば、直接的にブリジッタを攫えるようになるということだ。
「だからあなたが邪魔でねぇ?」
ヴィンスはにやりと笑みを見せる。
「暴力で排除してみたまえよ。……できるものなら」
審判が手を上げる。
「静粛に……構え!」
バルダッサーレは右手を掲げて左手で先端を持つように鞭を構える。即座に振り下ろせる構え。
ヴィンスは刺すような闘気を感じた。ここは彼の間合いであるということだ。そして、試合開始直後に動いてくると。
鞭は武器として弱い。
だが、7mの距離をあけて向き合い、術式は準備状態にしてはならず、武器を構えた状態で決闘が開始されるこの闘技場での決闘方式において。
さらに言えば防具の重装化や魔術道具の持ち込みに制限が多いこのC級順位戦において。
その初撃に関しては最速にして最も対処が困難な部類の攻撃なのだろう。
それは他のどの武器よりも、術式を詠唱するより速く届く。
つまりヴィンスに与えられた猶予は、無詠唱で使えるような簡易な術式を1つ使うだけである。
固唾を飲んで見守る観客。
沈黙が闘技場を包む。
審判の手が動いた。
「始め!」
刹那、最速がヴィンスに迫る。




