バルダッサーレ
「あいつはわざとブリジッタの腰に酷く怪我を与えて勝ちやがったんだよ。んで本来なら〈再生〉術式が必要な怪我に対してわざと〈治癒〉で表面の怪我だけ治させたのさ」
「それは闘技場の医務官を訴えるべきなのでは?」
「はっ、そのあたりも調教師組合の息がかかってやがんだよ」
ダミアーノが吐き捨てる。ふむ、とヴィンスは黙考した。
「ブリジッタの怪我は治らないのか?日常生活にはあまり支障は無さそうだが」
それにはエンツォが答える。
「戦闘ができるかというと厳しいな」
「そこまでの治癒術士に見せる金もない」
「俺の勝ち分と賭け金はかなりの額になってるだろう」
ダミアーノがヴィンスの胸ぐらを掴んだ。
「そりゃてめえの金だ。いいか、ブリジッタは後遺症ある怪我を負わされたが、それは誰の責任だと思う」
「今の話だと無限の複合獣じゃないのか」
「違う。ブリジッタが弱かったからだ。その怪我を治すのだとしたら、その金はあいつが出せなきゃ意味が無えんだ」
「そうか、すまない」
確かにその通りではあるな。とヴィンスは思う。だが一方でこの状態では彼女もその金を貯めようがあるまい。
エンツォがぱんと手を鳴らした。ダミアーノが手を離す。
「まあ、インノチェンテがわざわざ挨拶に来たおかげで、対戦相手が分かっているのはやりやすい。
明日から対策練っていくぞ」
「ああ、エンツォ。頼む」
翌朝、ヴィンスが外でストレッチをしているとエンツォは鞭を持ち出してきた。革を編んだ長い鞭を扱きながらエンツォは言う。
「バルダッサーレの戦法を説明しよう。
あいつはは鞭使い、幻術士、どちらも極めて珍しい戦法だ」
「鞭使いというのは決闘において有用なのか?」
「うむ……鞭使いで勝てるのはバルダッサーレ以外にいないからな。正直分からん。だがあいつの強さは本物だ」
ヴィンスの問いにエンツォは答える。
「そもそも鞭と言っても色々あるだろう。どんなのだ?」
「形状で言うと一本鞭だな。長さは5mを超えるやつだ。形は今俺が持ってるのと同じだ。
鞭はあまり扱い慣れていないが……」
エンツォは手にした鞭を振る。
ヒュッ、ヒュッという音がし、数度目に空中で、ぱぁん、と小さい乾いた音がした。
「これが鞭の先端が空気を割る音だ。先端の動きは見えんだろう」
鞭の先端速度は音速を超える。人類が初めて音速を超えさせたもの、それが鞭であるという。
「そうだな。腕の動きからある程度の位置の推測はつくが……」
「俺は鞭に関して素人だからまだ軌道は読みやすいだろうけどな。達人は手首の捻りひとつで軌道を変えてくる。見切るのはまず不可能と思った方が良い」
エンツォは鞭について説明する。
鞭の武器としての強みは先端速度の速さと射程の長さ、柔らかい故に受け止めようとしても回り込んで別の場所が打たれるため防御が難しいこと、皮膚に広く攻撃するために激しい痛みを与えること。
逆に弱点は取り回しが難しく、扱うのに広い範囲が必要で、長いものほど引き戻すのに時間がかかること、防御には使えないこと、武器としての威力は低く鎧を通さないこと。
「つまり鎧を着ていると身を護れるということか?」
「そんな甘いものじゃないわ」
テントからブリジッタが顔を出す。
「おはよう、ブリジッタ……大丈夫か?」
彼らのもとへ歩いてくるブリジッタの顔色は少し青白く見えた。
「おはよう、ヴィンス。ええ、昨日は心配掛けたわ、ごめんね」
濃紺の瞳がヴィンスを見つめ、僅かに揺れた。
「バルダッサーレの鞭は魔物の素材をふんだんに使ったものよ、ただの鞭とは違う。それに衝撃を鎧の下に徹してくる技を使うわ」
ブリジッタは口を開き掛けては閉じ、大きく息を吸って吐いた。
「ヴィンス、エンツォ。あいつを倒すためにあたしも訓練に協力する。
その前に今、時間を貰っていい?話を……しておきたいの」
「ああ」
エンツォが踵を返し、手を振りながらテントへと戻る。
「俺は飯の用意でもしているよ。長くなるようだったら先に食ってる」
2人はテントの陰に座り、ブリジッタが語り始める。
「ヴィンス、あのね、あたし……。
あたしは奴隷の娘なの」
ブリジッタの母は無限の複合獣の奴隷であった。
父親は知らない。見たこともないし、母や他の誰から話も聞いたことがない。
母がどうして奴隷に落とされたのかも知らない。
「お母さんは闘獣士の剣奴だったんだと思う。
戦ってるところは見たことないけど、たまに酷い怪我を負っていた……そして死んだ」
母の遺体を見ることは叶わなかった。おそらく酷く損壊していたのだろうと彼女は語る。
「それでふさぎ込んじゃって。
あたしも他の奴隷の子供たちと戦闘訓練してたんだけど、動けなくなって」
当然だ。ヴィンスは憤る。
怒りに強く握り締められた拳が、ぎしりと鳴った。
「それで、処分されることになったの。
ほら、犯罪者とかそういうのが闘技場で処刑される見世物あるじゃない。あれ」
ブリジッタはいっそ坦々と語る。
「んでほら、登録しなきゃいけないから、表に出された時にさ。
……ダミアーノがあたしを買ったの」




