ラツィオの円形闘技場
――大同盟暦117年春
ガラガラと乗合馬車の車輪が王都ラツィオの石畳の上を跳ねる。
ヴィンスの背中で袋詰めされた荷物がガチャリと音を立て、隣に座る男が迷惑そうにこちらを見た。
「王都に来るのも5年ぶりだ……」
ヴィンスがまだヴィンセントであった子供の頃と比べ、街並みが大きく変わっている訳ではない。だが、あの頃と今では自身の立場も視線の高さも違う。
当時は貴族街のタウンハウスから遊びに来ていたのが、今は街の外から目的地に向かっているというのもあるだろう。
王都ラツィオの中央通りを馬車はゆっくりと進む。
「降ります!」
ヴィンスは御者に声をかけた。立ち上がると、さっと馬車から飛び降りる。
編み上げのブーツにフード付きマント。飾り気もなく旅の埃に塗れてはいるが、丈夫そうな品であった。
荷物は肩からかける袋1つのみ。
彼の榛色の瞳が、高さ50m近いラツィオの円形闘技場を陽光に目を細めながら見上げる。
王都において王城の尖塔の次に高い建築物であり、城壁内のどこからでも見ることができるものだ。
彼は決して大男という訳ではない。だがその袋を持つ手は無骨であり、腕も脚も筋肉質。マントの下の肉体の厚みは歴戦の戦士や傭兵を思わせる。
だがそのフードの下の顔、榛色の瞳を見るものがあれば、思わぬ若々しさ、涼やかさに驚くであろう。
ヴィンスは馬車の長旅で凝った関節をほぐす様に大きく伸びをすると、円形闘技場に向けて歩き出した。
ラツィオの闘技場の前にはアーチ状の巨大な門がある。高さ10mはある巨大な門に無数の闘士と魔獣が戦う様が彫られた芸術品。
吟遊詩人が『生と死の境にして、正気と狂気の境』と謳った門だ。
ヴィンスが門を見上げていると、後ろの男性が舌打ちして彼を追い抜いていった。ああ、邪魔をしてしまったかと急いで脇に避ける。田舎者のお上りさんのような真似をしてしまったと顔を赤らめた。
門をくぐると目の前には円形闘技場。幅も200m近い巨大建築物だ。遥か古代、西暦と呼ばれた時代の初期にこの場所に建てられていた、巨大円形闘技場を模して建てられたとされている。
黄色い石の色も相まって全方向に入り口の穴があいていて、巨大な穴あきチーズのようでもある。
「さて、まずは決闘士組合に行かないと」
一人旅の間に少し独り言が増えた。ヴィンスはそう思う。
闘技場の手前を左に曲がると噴水があり、そのまま裏へと回ると決闘士や剣闘士たちのための区画である。
噴水の脇では男の剣闘士が自らの得物であろう剣を洗い、その隣では女剣闘士が身体についた血を洗い流していた。
乳房を、肉体美を惜しげもなく曝し、腕や肩の傷から砂や汚れを落としているのだった。
ふと、脳裏にアルマの顔が浮かび、ヴィンスは頭を振った。
「いけない……旅の目的地に着いたとは言え、どうにも浮ついているね」
決闘士組合、黄金の野牛を訪ねて紹介状を渡すようアルマからは言われている。
なぜ伯爵家のメイドが決闘士組合にコネがあるのか分からないが、ヴィンスはそのあたりは考えないようにしていた。
だいたい、そもそもなぜあんなに強いのか分からないというのもあるし、アルマが母トゥーリアの専属メイドとなるより過去について語りたがらないからだ。
ヴィンスが10歳になるまで、彼はアルマがあんなに戦えることすら知らなかった。つまりヴィンスが決闘士になりたいなどと言い出さなければ、彼女の強さは秘されたままであったと言うことだ。
故にヴィンスはアルマの献身をありがたいと思う一方で引け目にも感じていた。
「見つからないなぁ……」
ヴィンスは呟く。
ちなみに決闘士は剣闘士とは待遇がまるで異なる。
魔法を使うことのできる戦士、それが決闘士だ。王の管理下におかれ、有事には従軍を求められるなどの制限がある代わりに、最上位のA級決闘士ともなれば莫大な報酬と、望めば爵位すら与えられる。
伯爵家を放逐されることを選んだヴィンスが目指すのはそれに他ならない。
ヴィンスは大きな建物から順に探していったのだが……なかなか見つからない。
道を歩いていた下働きの奴隷と見える男に声をかけ、面倒そうに示されたのは、まるで貧民街のように剣闘士育成所の掘っ立て小屋が建ち並ぶ区画であった。
「…………ここか」
ヴィンセントの前にあったのは巨大な天幕。サーカスなどで使うような古びた移動用天幕だった。
幕を下された入り口には牛の頭蓋骨が飾られている。かつては黄金に輝いていたことを示すかのように、白い骨には僅かに金の塗装がこびりついており、真っ黒な眼窩はこちらを覗き込んでいるかのよう。
「黄金の野牛と言うよりは野牛の亡霊といった雰囲気だね。アルマはなぜこんなところを……」
ヴィンセントはそう呟き、躊躇を見せる。
とはいえ、他に当てもないし、別にどうしても嫌ならここで登録せずに他に回れば良いのだ。
「僕は……いや、俺はローズウォールのヴィンセントではない。ただのヴィンスだ」
ヴィンスは改めてそう呟いて天幕を跳ね上げた。
「失礼する」




