海底洞窟
櫻達は未だ人影の少ない町の大通りを急いで走る。
漁港まで真っ直ぐに突き進み、海辺を北上すると砂浜へ出た。そこには朝から砂の中の貝を獲っている人影がほんの数人見当たるが、なるべく人目につかぬようにコソコソとアマリに言われた通りその先の岩場に向かった。
(この辺でいいのか…?)
切り立った崖を背後にし、砂浜からも視線が通らない事を確認する。念の為に周囲をきょろきょろと見回し、人目が無い事を確認すると櫻は念話を飛ばした。
《おーい、アマリ。遅れてすまん、居るのか~?》
しかし返事が無い。
(遅くなったから怒って帰った…なんて事は無いよな?)
少々不安が過ったその時、櫻の目の前で重い音を響かせ海がせり上がり、櫻達に覆い被さる大きな影を作った。
「なっ…!?」
驚き身構える櫻達。カタリナは咄嗟に櫻とアスティアを両脇に抱え離脱の体勢を取った。
しかしその波と思われた海面は櫻達の頭上でピタリと動きを止めると見る見るその姿を変化させ、櫻達が見上げる程の巨大な人の姿に変化したではないか。
それは美しい女性の姿をし、櫻達はその姿に見覚えが有った。
《うふふ、驚いた?》
ニコリと微笑む巨大な女性は、以前船旅の最中に魔魚を一突きで屠り櫻達を救った海の神『アマリ』であった。
《アマリ…あぁ、驚いたよ。》
《あははっ、あんまり待たされたから少し悪戯しちゃった。》
屈託の無い声が櫻の頭に響くと、その巨大な姿は徐々に小さくなり、櫻達の目の前の海上に通常の人の大人と変わらないサイズのアマリが立っていた。
《お前さん、大きさは自在なのか…。》
《そうよ。今は余り大きい姿では人目を惹いてしまうからこのくらいの姿になったけれど、本来であれば別に姿を作る事すら必要無いのだけれどね。》
《それがそうして姿を取るというのは、何か理由があるのかい?》
《えぇ、海底洞窟の入り口までの最短ルートを教える為には、場所を示す目印が必要でしょう?だからこうして身体を作って誘導しようと思った訳なの。》
《成程ね。それじゃ遅れてしまったし、サッサとそこに向かおうか。案内頼むよ。》
《はいはい、コッチよ~。》
そうしてアマリは少し場所を移すと、櫻達をとあるポイントまで連れて来た。
《ここ、この真下に海底洞窟の入り口が在るわ。》
そう言って海の中を指差すアマリ。櫻もその先を覗き込んでみるが、そこはほんの僅かの浅瀬の先に突然に深く沈み込むような地形であった。
《これは…結構深そうだね…。それで場所は解ったが、あたしらはどうやってそこに入ったら良いんだい?》
《その方法を人類に見られたくないから早く来て欲しかったのよねぇ。》
遅刻して来た櫻をからかうように言うと、櫻達の目の前の海が突然避けるように割れ、海底への道が出来上がったではないか。
「わぁ…。」「こりゃ凄い…。」
アスティアとカタリナは驚きの声を漏らし、命は無言でその様子に驚きの表情を浮かべていた。
《おぉ…これは凄いね。》
《さ、この下に下りて頂戴。余り長くこの状態を維持してると人に見られて騒ぎになっちゃうわ。》
《あ、あぁ。そうだね。》
アマリの言葉に頷くと、櫻は皆にその旨を伝え海底に下りる事とした。櫻はアスティアに抱えられ下りられるものの、カタリナと命は滑る岩肌に苦戦しながら壁とでも言えるような急勾配を下る。
何とか海底まで到着すると櫻は周囲を見回し、上を見上げる。海水が壁のように両側にそそり立ち、物凄い圧迫感に挟まれ息を飲んだ。
「凄いねコレは…一体どれだけの深さなんだか。しかし…。」
大陸の側面に目を向けるものの、アマリの言うような海底洞窟の入り口らしき穴が見当たらない。
《アマリ、洞窟の入り口ってのは何処なんだい?》
《あら、まだもっと下の方よ。こっちこっち~。》
その声に振り向くと、海の裂け目が終わっていると思われた地点の下に更にトンネルのように海水が避ける部分が有り、そこにアマリが立って手招きをしていた。
櫻達は一度顔を見合わせると素直にその手招きに従いアマリの元へと歩み寄る。すると、その背後には櫻達の目の前を横切るように巨大な海底渓谷が大きく口を開けていた。
「うわぁ…何コレ凄い…。」
アスティアが興味深げに渓谷を覗き込むと、その下は陽の光が届かず闇が広がっている。
《アマリ、ひょっとしてこの下に…?》
《そ。正確にはこの途中に横穴が開いてて、その中が洞窟になってるの。》
アマリが手振りを交えてその構造を伝えると、櫻はアスティアの隣に立ち同じく渓谷を覗き込み口元に手を添え少々考える。
(う~ん、この切り立った地形の、更には途中に在るとなるとカタリナと命が下りるのが困難だな…。)
櫻は『うん』と頷くとアスティアに向き直り
「どうやらこの断崖の途中に洞窟の入り口が在るらしいんだが、アスティア、ここで血を飲んでカタリナと命をそこまで運んでくれないか。」
そう言って首筋を差し出した。
「え?それじゃサクラ様はどうするの?」
「あたしは風の能力で下りる事にするから大丈夫さ。」
その言葉にアスティアは一瞬『むっ』と嫉妬のような表情を浮かべるが、状況的に仕方ないと納得すると小さく頷いた。
「はぁ~い。」
少し拗ねた声の返事をし櫻の元へ歩み寄ると、その肌を味わうように肩口から首筋まで舌を這わせ、小さなキスのように数度唇を当ててから牙を突き立てた。
(ふふ、拗ねちまって可愛いもんだねぇ。)
本来であればこの大事な時に個人的な感情を表に出している場合では無い。だがアスティアのその態度は自分を好いての事だと思うと、櫻も邪険には出来ず困ったように眉尻を下げそっと背中に手を回すのだった。
《へぇ~、そうやって使徒に力を与えるのね。》
《ん?見た事無かったのかい?というか、アスティアはヴァンパイアだからこういう形で与えてるだけでカタリナはまた別の方法だけどね。》
《私は身体が無いし、守護対象は海そのものだから使徒を生み出すなんて無縁だもの。》
(それもそうか…。)
アマリの言葉に櫻は小さく頷き納得する。
《と言うか、お前さんは人の形を採っているが…その姿は何か由来が有るのかい?》
《あぁ、これ?》
アマリがくるりと身を翻し全身を見せつける。
《これは私が人だった時の記憶なのよ。》
《何だって!?》
《驚いた?》
《いや…そりゃぁ驚くだろう…。お前さん、元は人だったってのかい?》
《えぇ。もうどれ程昔になるか覚えていないけれど、その当時にも海の神は居たのだけれど、その御方は荒れ狂う海そのものという存在でね、私はその御方に恋をしてしまったの…。》
唐突に語り始めるアマリ。
《こ…恋…?海に…?》
《そう。そして私はその恋心を抑え切れず、その御方に身を捧げる事にしたのよ。》
《ちょっと待て。それはつまり身投げと言うんじゃないのか?》
《そういう言い方も有るかもしれないわね?》
《そういう言い方しか無いだろ…。》
櫻は思わず呆れ顔を浮かべ小さく溜め息を吐いた。
《それでね?その御方は私の愛をその海のように深く広い心で受け止めてくださって、私と一緒になってくれると誓ってくれたのよ。》
《何とも壮大な話だねぇ…。》
《そうして私は肉体を捨て、その御方と魂を同化させたの。あぁ、あの一体感…今思い出しても全身を駆け巡る感動は色褪せないわ…。》
水の身体で恍惚の表情を浮かべ思い出に浸るアマリに、櫻はただただ唖然とするしか無い。
《それじゃ…お前さんはその前の海の神と夫婦になったと言う解釈で良いのかね?》
《えぇ。その御方は今は全てを私に任せて私の中で意識を眠らせているけれど、今も此処に居て愛し合っているのよ。》
うっとりとした表情で自らの下腹部を摩るような仕草を見せるアマリに、櫻はポカンとした表情を浮かべた。
「なぁ、お嬢。多分アマリ様と何か話をしてるんだと思うんだけどさ…。」
そんな二神の様子を傍目に眺めていたカタリナが声を挟んだ。
「ん?あぁ、済まないね。何だい?」
「いや…アスティア、流石に飲みすぎなんじゃないかい?」
そう言われて気付く。櫻とアマリが念話をしている最中、アスティアはずっとその首筋をしゃぶり付くように味わい、うっとりとした顔を紅潮させながらちゅーちゅーと血を吸い上げていた。
《うふふ…その娘も私と同じモノを感じるわね…。》
アマリがクスクスと笑いながら言うが、櫻はその言葉に少々顔を青褪めさせ引き攣った笑顔を浮かべるしか無かった。
「アスティア、もう充分だろう?そろそろ下りないと海の異変に他の人達が気付いちまうよ。」
アスティアの背中をポンポンと叩き、吸血を止めさせる。するとアスティアは素直にその口を首筋から離し、小さく頷いた。
「うん、いい子だ。」
櫻はそんなアスティアの頭を撫でると、アスティアは擽ったそうに肩を縮め、にこりと目を細めた。
「さて、それじゃ下りるとするか。下の方はどうやら陽の光が全く届かないようだ。此処でランタンを点けてしまおう。」
その指示に各々がランタンを灯すと腰に下げ、アスティアがカタリナと命を両脇に抱えると櫻はそれを確認し、風の能力で身体を浮遊させた。
《アマリ、案内を頼む。》
《えぇ、コッチよ。》
アマリの先導で櫻が先ず渓谷に飛び込むと、アスティアがその後に続くように羽根を羽ばたかせ暗い谷の中へとその身を沈める。
程なくしてアマリが渓谷の途中で止まると、その側面を指差して見せた。
《此処が魔獣の住処になってる海底洞窟よ。》
そこには、軽く直径10メートルを超えるのでは無いかと思われる程の巨大な横穴がポッカリと口を開けていた。
「凄いな…よくこんな大穴が今まで気付かれずに存在したもんだ…。」
溜め息混じりに櫻が呟く。
「そりゃぁ、こんな光も届かない深い場所じゃ魚人ですら潜る事は無いだろうからねぇ。こうしてアマリ様の御力が無ければ人類が知る事なんて無かっただろうね。」
アスティアに抱えられたままカタリナが感心気味に言う。
「まぁ…取り敢えず入ってみるか…。」
そう言って櫻が先に穴の中へ入ると、アスティアも大人しくその後に続いた。
《気を付けてね~。》
アマリが背後から手を振って見送る。
《お前さんは来ないのかい?》
《私は海の神だもの、そこから先は大地の神の管轄…私が干渉する場所では無いわ。だから貴女に頼るしか無いの、頼んだわね。》
《大地の神?ソイツは今何処で何をしてるんだい?》
《アイツね~、もう長い事西大陸に居座ってて全然動かないのよね。無口で何考えてるのかも解らないし、充てには出来ないわよ。》
《神にも色んなのが居るんだねぇ…。》
そんな神様事情を聞きながら、暗い穴の中をランタンの明かりを頼りに進む。
洞窟の床面は普段は海の中の為か、滑り、ぬかるみ、とても足を着ける状態では無い。幸いにも広い穴の中を上手く飛びながら奥へと入り込んで行った。
するとその地形は徐々に上向きに傾斜し始め、どれ程上がったか、暫くするとゴツゴツとした岩壁の洞窟へと変貌して来た。
「お?この辺ならもう下りても大丈夫そうだな。」
風の能力を緩やかに抑え、スゥっと地面に着地する櫻。とんとんと地面に足を鳴らし地盤を確かめるとアスティアに頷いて見せた。
アスティアもそれを受けて櫻の横に降り立つとカタリナと命も地に足を着ける。
「サクラ様…ここ…。」
ふと気付いたその感覚に、アスティアは小さく呟くと周囲を警戒しながら櫻に縋るように身を寄せた。
「あぁ…。この感じはそうだね。」
腰に下げたランタンを手に取り高く掲げ周囲を照らす。
「お嬢、どうしたんだい?」
二人の態度にカタリナが首を傾げた。
「この纏わりつくような嫌な空気…恐らくここは『ダンジョン』だね。」




