二人の距離
《おはよ~、朝よ~。》
眠る櫻の意識の中にアマリのハイテンションな声が響いて来た。
重い瞼を開き、ベッドの中、顔を横に向けて窓の外を見る。まだ外は薄暗く、やっと朝日が顔を出し始めたばかりのようだ。
《あ~…おはよう…。》
《なぁに?元気が無いわねぇ?》
《そりゃぁ、こんな時間じゃ普通はまだ寝てる人の方が多いだろうからね。あたしも早く起きるつもりでは居たが、まさかこんな時間に起こされるとは思ってなかったよ。》
大きな欠伸をし、アスティアが抱き付く腕とは逆の手で眠い目を擦った。
《あらら、生物は大変よねぇ、一々睡眠を摂らないといけないなんて。でも漁師達はもう船を出しているわよ?》
(あぁ…漁師は朝が早いと言うものな。)
《まぁ起こしてくれてありがとう。それじゃもう少ししたら皆を起こして海辺に行くよ。》
《は~い。待ってるわね。》
プツリと切れるアマリの念話の余韻を頭の中に残し、ググッと空いた手で大きく伸びをすると『ハァ』と一息吐きしっかりと目を見開く。
幸せそうな寝顔で櫻の腕にしがみ付くように眠るアスティアに、起こすのも忍びないと思う櫻ではあったが、そうも言っては居られずその肩を優しく揺する。
「アスティア…アスティア。」
穏やかに語り掛けるその声にアスティアの瞳が薄っすらと開いた。すると
「ぁ…サクラ様…いいの…?」
と、何やら寝惚けたように声を漏らしその腕を櫻の首へと回したかと思うと、グイっと櫻の顔を引き寄せ徐に唇を重ねたではないか。
突然の事に目を見開き驚く櫻を他所に、アスティアの舌は櫻の口腔へ進入しようと蠢き唇をなぞる。
動揺し思わず櫻の唇が隙間を作ると、その隙を見逃さないとばかりに侵入したアスティアの舌が櫻の舌を絡め取った。その瞬間、粘膜の接触とヴァンパイアの唾液によって櫻の全身に途轍もない快感が走り、腰が砕けたかのように身体から力が抜けてしまい、アスティアに覆いかぶさるように身を沈めてしまった。
クチュクチュと舌の絡まる音が、まるで部屋の中いっぱいに響いているかのように脳内に響き櫻の理性が溶け掛ける。
重なる身体、小さな胸の突起が触れ合うとビクリと身体が跳ねる程の快感が櫻の全身を駆け巡り、自然と足を絡め合う。
が、数秒瞳を蕩けさせ快楽に飲まれそうになったものの、辛うじて理性を取り戻した櫻はアスティアの肩をポンポンと叩き慌てて唇を離した。
「…あ…サクラ様…?…!?」
やっと目を覚ましたアスティアは、自分の舌に残るリアルな感触と目の前の櫻の紅潮した顔にハッとし、自らの唇に手を添え驚く。
「えっ…!今の…夢…じゃ…ない?」
「おはよう。どんな夢を見てたんだい?」
未だ心臓がドキドキとし動揺の残る櫻の声にアスティアが慌てて飛び起きた。
「サ、サクラ様!ごめんなさい!ボクまた何か…その…。」
ベッドの上で櫻と向き合うように正座をし、叱られた子猫のようにシュンとしてしまう。
(う~ん、寝惚けてただけだろうし、キツく言う事も無いんだろうが…最近アスティアの行動がエスカレートしているのも事実だしねぇ…少し自重を促してみるか。)
しおらしいアスティアの姿に櫻もどう声をかけたものかと思案する。その時、隣のベッドから熱い視線を感じハッと振り向いた。
そこには目を皿のようにして二人の行為を見つめ、興奮の鼻息を漏らすカタリナの姿があった。更にはテーブルの椅子に座り冷静な眼差しで櫻達を眺める命にも気付くと、櫻の顔が再び紅潮する。
「二人共…いつから見てた…?」
冷静を装うもプルプルと震える声。
「はい、私はご主人様が目を覚ました処から一部始終を。」
「…お嬢の声から全部。」
二人の言葉に櫻の顔は真っ赤に染まり、朝の気温に負けない程に全裸の身体も体温を急上昇させた。
一瞬の思考の停止からハッと我に返った櫻。
「…アスティア、暫く一緒のベッドで寝るの禁止。」
「えぇ~!?そんなぁ!?」
ジトリとした目付きの櫻の突然の言葉に、アスティアはこの世の終わりのような表情を見せ大きな声を上げた。するとその瞳にはじわりと涙が浮かび、今にも泣き出しそうな感情を堪えるように肩を震わせている。
『しまった』と櫻はチラリとカタリナに目をやると、カタリナもそれを受けて小さく頷いて見せた。
「アタイらはちょっと外の空気吸ってくるよ。ほらミコト、行くよ。」
「私は別にその必要も有りませんが…。」
「いいからっ!」
命の手を取り部屋を出て行くカタリナ。
部屋の扉が閉まると、アスティアの頬を涙が一滴伝う。そんなアスティアを優しく抱き寄せ、櫻は耳元で囁くように言葉を掛けた。
「厳しい事を言ってゴメンよ。でもね、アスティアは最近ちょっと甘えすぎだよ。そしてあたしも甘やかしすぎだ。このままズルズルと行くとお互いに堕落してしまう。ここで少し互いの距離を考え直そうって事なんだよ。」
「でもサクラ様、我が儘言って良いって言ったよ?」
グスッと鼻を鳴らし、拗ねるように言う。
「確かに言ったね。そして我が儘を言う事を咎める気も無いさ。でも今のままじゃ駄目だ。ああいうのは二人きりの時だけって言っただろう?約束は守らなきゃ。時と場所と場合、それを選ぶ事はちゃんと身に付けないとね?」
穏やかな声でソっと抱き締めると優しく背中をポンポンと叩く。そしてその身体を離すとアスティアの両頬に手を添え、触れるだけの口付けをした。
「あ…。」
「朝はせめてこれだけ。誰も見てない時に…いいね?」
櫻はそう言って微笑みウィンクをして見せた。
(ふぅ…あたしも甘いねぇ…。いや、あたし『に』甘いのかもね。)
不意の櫻からの口付けに驚き、感触を思い出すように唇に指を添える。
「うん…解った…。でも、ボクが頑張ったらご褒美は頂戴ね?」
「あぁ、勿論さ。」
櫻のその言葉にアスティアは微笑みを浮かべると、瞳に溜まった涙が再び頬を伝った。
宿を出て朝の町の空気に腕を上げ背筋を伸ばすカタリナ。
「う~ん…さてどうしようかね?」
首をコキコキと鳴らし肩を回すと町の中を見回す。辺りはまだ人通りも少なく、店の開店準備をする人々の姿が疎らに見える程度だ。
「カタリナ、何故ご主人様達を二人きりにしたのですか?あの場は私達でフォローをする為に残るべきだったと思います。」
命の言葉を背中で受けつつ、カタリナは軽い柔軟をしながら身体を解す。
「その必要は無いよ。あの二人はそんな心配をするような脆い間柄じゃないんだからさ。」
「何故そう言えるのです?」
「う~ん…言葉で説明するのは難しいねぇ。何て言うのかな…あの二人は『合う』んだ。元からそうだったみたいに二人で居る事が自然なんだよ。そんな二人だから、どっちから離れるとかそんな事は有り得ないって、見てて確信めいた物を感じるのさ。」
「…言っている意味が解りません。」
カタリナの言葉に命は眉尻を下げ困惑したような表情を見せる。
「ハハッ、アタイも言ってる事に全然理屈が通ってない事は理解してるさ。でもまぁ、アタイらはあの二人を見守ってさ、本当に助けが必要な時に手を貸してやればいいんだよ。」
そう言ってカタリナは命の肩に腕を回すと顔を近付けた。
「それに、そう居てくれなきゃアタイのお楽しみも減っちまうからね。」
ニシシと笑いながら小声で本音を漏らすカタリナに呆れながら、命は何となくその状態が心地好く、僅かにその身体をカタリナに寄せた。
「お、あそこの屋台、もう開いてるね。折角外に出たんだ、お嬢に朝食でも買って行ってやろう。」
大通りの向こうに何かを焼いている煙の立ち昇る屋台を見つけたカタリナは身を離し歩き出す。
「…そうですね。」
命は少し複雑な表情を浮かべ、その後に続くのだった。
互いに向き合うベッドの上、ようやく落ち着きを取り戻したアスティアに、櫻も一安心と微笑みを浮かべる。
「さて、それじゃアスティアの朝食と水筒の準備を済ませてしまおうかね。」
「え?水筒の準備もするの?もう町を出るの?」
涙を拭いながらアスティアが不思議そうな顔をする。
「あぁ、カタリナ達が戻ってから説明をするつもりなんだが、不漁問題の解決が見えたもんでね。その為の準備さ。」
そう言ってアスティアを再び抱き寄せ、顔を横に傾け首筋を差し出す。
アスティアは少し遠慮がちにその首筋に唇を被せると、いつものように舌で櫻の肌を撫で、唾液が浸透し櫻の口から吐息が漏れると牙を突き立てた。
チュウチュウと血液を吸い上げる音が櫻の耳元に聞こえるものの、いつもよりもその勢いが無い事に気付くと櫻はフッと微笑みアスティアの髪を撫でる。
「アスティア、今は何も遠慮する事は無いんだから、いつものように飲んでいいんだよ?これも『時と場所と場合』の一環だ。ちゃんと分けて考えないとね。」
その言葉を受け、アスティアは小さくコクリと頷くといつものペースの吸血に戻り、飲み終えた後にはこれまたいつものように傷跡をペロペロと舐め満足そうに微笑むのだった。
アスティアの食事と水筒の用意を済ませ服を着ていると、丁度カタリナと命が部屋へ戻って来た。その手には外の屋台で買って来た数点の食べ物が抱えられていた。
「お、お帰り。何だいそれは?」
「あぁ。こんな早くに目が覚めちまった事だし朝食をと思ってね。屋台が開いてたんでお嬢の分も買って来たんだよ。ホラ。」
そう言ってカタリナが差し出したのは、笹の葉のような物を皿代わりに使ったつぶ貝の串焼き数本と、緑色のトウモロコシを焼いたような物であった。
「コレは何ていう食べ物だい?」
「ソレは『テンモロ』という植物を焼いた物で、料理名もそのまま『焼きテンモロ』と言うようです。」
「へぇ…。」
命の言葉に焼き色の付いたソレを見て匂いを嗅ぐ。
(見た目は焼きモロコシみたいだが…あの匂いとは違うね。)
その緑色の物体にトウモロコシの味を想像しながら齧り付いてみる。すると口の中に広がったのは想像した甘味とはかけ離れた塩味であった。
「…!?」
意表を突かれ思わず吐き出しそうになってしまう所を慌てて口に手を添え押さえると、思い込みの中の味を修正し頭の中で整理する。
「お嬢、どうした?口に合わなかったかい?」
今まで何でも美味しそうに食べていた櫻の意外な反応に慌てるカタリナ。命は即座に水を貰いに一階へと駆け降りて行ってしまった。
口の中のソレを咀嚼し、ゴクリと飲み込むと櫻はオロオロとするカタリナに落ち着くようにと掌を向けた。
「あぁ、いや。味は問題無いよ。ただあたしの想像していた味と違ってたもんだから驚いちまってね。こういう味だと予め解っていれば美味いよ、うん。」
と再び齧り付き、トウモロコシを食べるように芯をぐるぐると回しながら食べ続ける。
「本当かい?無理して全部食わなくてもいいんだよ?」
「いや、本当に美味いから心配しなくて大丈夫だよ。ただ飲み物が欲しくはなるね。」
そう言ってニカりと笑顔を見せるとやっとカタリナも安心したようで自分の分を口に運び始めた。その時丁度命が水を持って来てくれた事で万全の状態で食事を楽しむ事が出来た櫻達は、腹ごしらえが済むとようやくその日の行動についての話に入るのだった。
「…と言う訳で思いの外簡単に真相が判ってしまってね。今日これから最低限の荷物を持って出発しようと思うんだ。」
昨夜の睡眠中に得た情報を語る櫻の説明に、アスティア達はポカンとした顔を見せた。
「アマリ様って…前に海を渡る時に遇った方だよね?海の神様の…。」
「そんな神様に頼まれ事をされるなんて、凄い事じゃないか…?」
そんな驚きのアスティアとカタリナ、二人の様子を横目に櫻はフと窓の外を見ると、もう随分と町が明るくなって来ている事に気付きギョっとした。
「あ、ヤバい!なるべく人目の無い内に来てくれって言われてたんだった!」
「えぇ!?それじゃ早く行かなきゃ!神様の不興を買ったりしたらどんな目に遭うか解らないよ!?」
慌てるカタリナに急かされ、櫻達は血の入った水筒とランタンを手に取りバタバタと慌てて部屋を飛び出して行くのだった。




