頂きへ
「どうぞこちらをお持ち下さい。」
サーリャに手渡されたそれは、背負い紐の付いた袋。中を覗いてみると乾物の食糧と3個の水筒に入った水が用意されていた。
「これは何日分だい?」
「それはサクラ様のお考え次第でございます。」
「成程ね。」
多くを聞く事はせず、小さく頷くと袋の口を閉め背負い紐に腕を通す。
「それじゃ、行ってくるよ。あの娘達の事、よろしく頼んだからね。」
「はい、お任せ下さい。お気をつけて…。」
深々と頭を下げ見送るサーリャを背に、櫻は果て無く見える山道に第一歩を踏み出した。
それから半日も過ぎただろうか。
「はぁ…はぁ…。」
休む事無く歩き続ける櫻。しかし一向に頂上に近付いているように思えない程、この山は高い。
(ペース配分は間違ってない筈だが…流石にこの辺で一旦休憩を取っておいた方が良さそうだね。)
周囲をきょろきょろと見回し、手頃な岩を見つけるとそこに腰掛け、背中の袋を下ろすと水筒を取り出し、口の中を潤す程度に水を含んだ。
「っはぁ~…何でもない水がこんなにも美味い…。」
登って来た山道を振り返って見ると、潜って来た門は既に遠く小さな存在となっていた。
周囲には樹木もあるもののその背も低く、櫻の身長の倍程度しか無い。
(結構高い所まで来てるのにまだまだ先は長いのか。富士山より高いんじゃないか…。)
山の頂に目を向け、再び来た道を振り返ると、そのまま視線を先に向ける。その先にはウィンディア・ダウの町が広がっていた。
(そうか、精霊殿は山の斜面に沿って建っているから、あそこから出発した事で少しは楽を出来てるのかもしれないな…それに山道も舗装こそしては居ないがきちんと道になっている分登りやすい。確かにこのルートが正解だね。)
水筒を戻し袋を背負い直すと『パンッ』と太ももを叩いて気合を入れ、再び歩き出す。
やる事は単純。ただ只管に山頂を目指し、そこに居るという風の主精霊に会うだけだ。櫻の意識は足を動かし続ける事に集中し、周囲の景色を楽しむ事も無く進み続けた。
日がとっぷりと暮れ、山道の見分けが付かなくなってくると流石に櫻の足も止まる。
振り返り町を見下ろすと、そこに生活する人々の明かりが見えた。
「ふぅ…今日はここまでだね。」
自分に言い聞かせるように言葉を口に出し、僅かな月明かりを頼りに休める場所を探すと腰を下ろした。
(あの娘ら、迷惑かけてないと良いけどねぇ。)
アスティア達の顔を思い浮かべる。すると、まだたった1日しか離れていないのに、一人の淋しさを感じる事に櫻は驚いた。
(ふふっ、あたしも随分と淋しがり屋だねぇ…。)
くすりと自嘲すると岩陰に身を隠すようにして風を遮り、身を丸めるようにして瞳を閉じる。ほぼ一日歩き続けた身体はその疲労を少しでも回復させようと櫻の意識を深い眠りの中へと誘った。
《やっほ~。遂に一体目の主精霊の近くまで来たわね。もう少しだから頑張って~。》
眠る櫻の意識の中に無遠慮に声が響く。
《…ファイアリスか…身体は眠ってるとは言え、流石に疲れてるんだが…。まぁいいか。話し相手も欲しいと思ってたしね。》
《も~、最近全然呼んでくれないから淋しかったわぁ。聞きたい事がある時だけ呼び出すなんて、私ってもしかして『都合のいい女』?》
《人聞きの悪い事を言うんじゃないよ。そもそもお前さんはこの世界の主神なんだろう?あたし如きに構ってる暇なんてあるのかい?》
《あら、如きだなんて随分自分を低く見るのねぇ。私は貴女の事、凄く期待してるんだけどな~。》
ファイアリスの言葉に櫻は首を傾げる。その時ふと思い出した事を訊ねてみる事にした。
《その期待してる事に関係あるか分からないが、昨日こんな事があってな…。》
それは町で偶然に再会したタッカーの事だ。アスティアとカタリナの事はハッキリと覚えていたのに対して櫻の存在をまるで最初から無かったかのように忘れてしまっていたのだ。
《あれはあたしが神である事と関係があるのかい?》
《う~ん、それは残念ながら神であるという事と直接の関係は無いわねぇ。でも貴女のこの世界での在り方の問題だし、説明はしておくわね。》
またもやイメージの中でファイアリスが、今度はホワイトボードを引っ張り出して来た。
《『在り方』?》
《そう、貴女がこの世界に来る前に存在を10に分けられ、その時に『死』の概念が薄れて不老不死になった事は話したわね?》
《あぁ。お陰様で健康な身体になったよ。》
ハハッと乾いた笑いが零れる。
《それと同様に、貴女の『存在認識』も物凄く薄くなっているの。》
《…つまりどういう事だい?》
《解り易く言えば、『路傍の石』?関わったその時は意識されても、事が過ぎれば徐々に記憶から薄れてしまい最後には居なかったかのように消えてしまうし、そもそも関わらなければ視界の隅に入っていようと認識すらされないかもね。》
《それじゃ…長く離れていたらアスティア達もあたしを忘れてしまう…?》
櫻の声に不安が滲み出る。
《使徒に関してはそれは無いわね。貴女がその相手の生き方そのものに影響を与えた場合、貴女の存在が無くてはその者の在り方に齟齬が生じる。だから忘れる事は無いわ、安心してね。》
不安な櫻の心を察したのか、くすくすと笑うファイアリス。
《旅の途中で出会った人達の中にもひょっとしたら貴女の事を覚え続ける人も居るかもしれないわね。》
そう言葉を付け加えた。
《そ、そうか…。》
その言葉に安堵の息を漏らす櫻。幾ら自分が不滅で数多くの人々の人生を見送る存在だったとしても、関わった者達全てから忘れ去られるのは辛い。その言葉は櫻にとって僅かでも救いであった。
《それじゃ、あたしに期待してる事ってのは何なんだい?》
《う~ん、私も確証は無いから、それは風の主精霊に会った後でね。》
《…?まぁ分かったよ。それはその時に聞くとするさ。それと、明日もどうせ歩き続けるだけだから、もし暇なら話し相手になっておくれよ。》
《えぇ、喜んで。》
ファイアリスの弾む声に何故か安心感を覚える。
こうして櫻は再び意識を眠りの中へと沈め、夜が明けた。
「ヘェッくしょい!」
自らの豪快なクシャミで目が覚めた櫻。いくら熱を蓄える構造のローブと言えど、動かずに山風に晒されていては身体も冷えてしまっていた。日はまだ完全に姿を見せておらず、山の空気はヒヤリとする。
もそりと起き上がると荷物の中から食料を取り出し、口の中へ放り込む。ガチガチの乾物を頑張って咀嚼し、水で流し込んだ。
(カタリナの用意してくれるスープがもう懐かしい…。)
はぁと小さく溜め息を漏らしながら荷物を背負い、立ち上がる。そして視線を山の頂へ向けると両手で頬をパンッと叩き気合を入れた。
《おはよう。貴女の寝顔、可愛かったわよ。》
ファイアリスの声が頭の中に響く。
《おはようさん…って、まさか一晩中眺めてたんじゃないだろうね?》
《流石にそこまで暇じゃないけどね。でも今日は一日貴女とお話出来ると思って、起きるのを楽しみにしてたのよ。》
うきうきとした声がその心の内を表すようだ。
「さ、のんびりはして居られない。頑張って歩くか!」
気合の声を上げ、櫻は再び歩き出す。
ただただ歩き続ける事は肉体的にも精神的にも辛いが、幸いにもファイアリスが話し相手になってくれる事で気が紛れ、思いの外苦になる事は無かった。
《…でその長に、お前さんの名を妄りに口にするなって怒られちまってね。》
《あらあら、私はそんな事全然気にしないのに。人って自分達で勝手に縛られるのが好きよねぇ。》
《なんだ、やっぱりそうだったのか。お前さんがそんな事に拘るようには思えなかったもんでね…っと、そろそろ道が解り辛くなって来たな。今日はここまでにしておくかね。》
気付くと日は沈みかけ、辺りは既に薄暗い。周囲には既に草木の姿は無く、岩石が敷き詰められたような山肌は明かり無しではどこが道なのか全く判らなくなっていた。
《あら、もう?まぁそうね。今日は随分お喋り出来て楽しかったわ。明日もいいかしら?》
《あぁ、構わないよ。今日はお前さんのお陰か足が軽かった。やはり一人より二人だね。気持ちが全然違う。》
《そう言ってくれると嬉しいわ。それじゃ今晩は邪魔しないから、ゆっくり休んでね~。》
ファイアリスの声が遠ざかって行く。
標高が高くなった事で空気も随分と冷たい。白い息を吐き出し周囲を見回し、風を遮る事の出来る場所を探し身を屈めると食糧と水を取り出し口にする。
(こういう時は小さい身体で良かったと思うね。)
岩陰に身を横たえると、荷袋を枕にして瞳を閉じた。しかし風を遮る事は出来ても空気の冷たさはどうにもならず、小さな身体を更に小さく丸めながら夜を過ごす事となった。
疲労は完全に回復する事無く、その疲れから尚更に早く目が覚めてしまう。周囲を見回すとまだ日は頭を少し出す程度で薄暗い。
(気持ちは楽だったが、やはり身体は正直か…出来れば今日で風の主精霊の所まで辿り着きたい処だが、果たして…。)
櫻は元々3日で登りきる事を考え1日目と2日目のペースは抑えめにしたつもりであった。しかし幼い身体は歩幅も狭く、想定よりも進みが遅い。そのうえ体力の消耗も激しい。
乾物の食糧を咀嚼しながら山頂を見上げる。
(確実に近くなってる…よし、今日で全部出し切るか!)
袋の中の食糧を確認し、昼に食べる分を残し一気に口に放り込むと、頬を膨らませながら口の中でガジガジと噛み締めた。
ごくりと喉を鳴らし飲み込むと、腹をポンと叩き気合を入れる。
「さぁて、気張るか!」
荷袋を背負い歩き出す。その姿を後押しするかのように太陽が昇り、暖かな光が櫻を照らした。
「はぁ…ふぅ…。」
一歩毎に大きな呼吸をしながら、足元に注意を払い前へ進む。
山頂へ続く道は険しさを増し、石と岩だけの地面には雪が積もり、道と呼べるものは既に見当たらなくなっていた。真っ白な景色を登り続ける中、吹き付ける風も強さを増す。白いローブがバタバタと風に靡き、寒風が櫻の頬を打ち続けた。
《はぁ…まさか精霊に会いに行くのがこれ程とは…ひょっとして他の主精霊もこんな険しい場所に居るのかい?》
《う~ん、そうねぇ。こことは違うけれど、やっぱり会うのは一筋縄じゃ行かないような場所に居るわね。でも大丈夫よ、一番大変なのは最初だけだから。》
《それはどういう意味だい?》
《うふふ、それは後のお楽しみ…よ。》
《相変わらず勿体つけるねぇ。解ったよ、まずは風の主精霊に会う事だけを考えるさ。》
キッと顔を上げると、山頂は既にその形がはっきりと見える程に近く、そこには祠のようなモノが建てられている事も確認出来た。
だが時間は既に日暮れに差し掛かり、徐々に視界が利かなくなる。しかし櫻は足を止める事無く進み続けた。時に足を滑らせ、あわや滑落の危険もあったが遂に櫻は山頂の祠へと辿り着く事が出来た。
既に辺りは夜の闇に包まれ、周囲にはビュウビュウと風の音が鳴り渡る以外に何も無い。遥か眼下には町の明かりが薄っすらと見える。
「はぁ…随分と…高い所まで…来たもんだね…。」
息を切らせながら自身の頑張りを褒めるように口にする。
「さて…?」
目の前にある石造りの小さな祠…とは言っても櫻の身長の二倍程はあるもの…に手を添えてみる。しかし何の反応も無く、櫻は首を傾げた。
《おい、ファイアリス?ここまで来て何だが、あたしゃこの世界に来てから今まで精霊なんて見た事も感じた事も無い。ここに来て何をすればいいんだい?》
《あら?風の主精霊はすぐそこに居るんだけど…何も感じないかしら?》
《何?何処に居るんだ?》
慌てて周囲を見回す櫻。しかし当然のように何者も見当たらない。
《あらら…困ったわねぇ…。ちょっと待っててね。》
ファイアリスの言葉に櫻は頷き、寒風に耐えるように肩を抱き祠の内側に身を隠した。
《お待たせ~。ねぇサクラ?貴女、痛いのはやっぱり嫌よね?》
《?何だい突然…?そりゃ当然だろう。》
《そ。それじゃ一思いに行っちゃいましょう。》
《おい…?何を…。》
そう言った瞬間、櫻の視界がグラリと傾き、その視線が地面に触れた。
一瞬何が起きたのか判らなかった。突然自由が利かなくなった。だが顔に何か温かな液体のようなものが掛かった事に気付き、唯一動く目で視線を動かすと、その先には首から上を失い大量の血液を噴出する自身の身体が視界に飛び込んで来たのだった。
「なっ…!?」
『何が起きた!?』そう言いたかった。しかしその言葉を口にする事は出来ず、次の瞬間には視界が二つに分かれ、その目に映った最後の映像は、鋭利な刃物にでも切り刻まれるかのように自身の身体がバラバラの肉片へと変り果てる瞬間であった。
(一体…何が…。)
不死の櫻であっても肉体、特に脳の損傷の影響は大きい。思考力が鈍化し考えが纏まらず、その意識は闇の中へと融けて行った。




