希望と不安
「ん…ん~…!」
薄曇りの空から射す朝の日差しに、櫻はアスティアが抱き付く右腕はそのままに左手を伸ばす。すると手の先にふにっと柔らかな感触。
「お、起きたね。おはようお嬢。」
薄っすらと瞼を開けると、今日は頭の方から覗き込んでいたカタリナの胸に、櫻の握り拳が当たっていた。その柔らかな膨らみに思わず掌を開くと掴み、揉んでみる。
(ん~…何だかこの感触は安心するねぇ…これが母性の象徴ってもんなんだろうか…。)
瞳を閉じ、手の中の感触に意識を集中させ、赤子の頃の記憶を呼び覚ますかのように更に数度、やんわりと揉んでみる。
「何だい?お嬢、アタイのおっぱいが気に入ったかい?」
「ん?あぁ、そうだねぇ。何だか癒される感じがするよ。」
乳飲み子の頃の記憶など在る筈が無いのに、妙に懐かしく感じるその感触に、櫻の表情が綻んだ。
「なら、しゃぶってみるかい?お嬢なら歓迎だよ?」
「いや、それは遠慮しておこう…。でも、そうだね。たまに枕にしていいかい?」
「ああ、いいよ!アタイの胸の中で眠らせてやるぜ!」
「看取るような言い方は止めておくれ…。」
ハハッと軽い笑いを浮かべると、腕に抱き付いたまま未だ寝息を立てているアスティアの肩を優しく揺すり起こす。
「この娘は11歳の割りに全く胸が成長してないねぇ。」
腕に当たる胸の感触は微かな柔らかさを覚えはするものの、見た目には膨らみを見て取る事は出来ない。
「まぁ、生まれつき身体が弱かったんじゃないか?そのせいで発育が良くなかったとか…でなきゃ11歳で亡くなるなんて、そうそう無いだろ。」
「そうだねぇ。そう言えばアスティアの人間時代の話は全然聞いた事が無かったが…まぁそれは今のアスティアとは無縁の事だし、追求する必要も無いか。」
そんな声を耳にし、頭に『?』を浮かべてアスティアが目を覚ますと、いつものように櫻に血を貰い着替えを済ませた。
「それにしてもあれだけ狩って素材も含めて約大金貨8枚か…この調子で行くと次の町に向かうには随分掛かっちまいそうだねぇ。」
食堂で朝食を取りながらカタリナが呟いた。
依頼でも無く、町や人に近付き危険を及ぼすという程のモノでも無い魔物討伐は、報酬額が低くなる。苦労の割りに少ない実入りに少々不満はあるものの、
「二等分で8枚なら結構な稼ぎじゃないか?」
パリパリと葉物野菜を食べながら櫻が言う。
「確かにそうなんだがね…あのダンジョンにどれだけ魔物が居るか判らないだろう?これから先、何日か通うとしても昨日程数が居ないかもしれないし、収入は減る可能性が高いと思うんだよね。」
「成程…。」
(確かに、ゲームみたいに無限に湧く訳じゃない、個体数に限りのある『生き物』だしねぇ。そういう事も考えないといけないのか。)
食事をする手と口は止めずに現実を考える。
「最悪、狩り尽くした場合には足りない分をあたしらの取り分から分けてやる事も考えないと、協力を申し出た手前この町から出る事も出来ないかもしれないねぇ。」
天井を見上げ、小さく溜め息をついた。
食堂を出て町外れまで足を運ぶと昨日と同じようにグラントが待っていた。だが昨日とは違いその顔に寝不足の様子は無い。
「お?昨夜はちゃんと眠れたみたいだね。」
カタリナが声をかける。
「あ、おはようございます。はい、昨日は疲れと、家に戻れた安堵からかベッドに横たわった途端に眠ってしまったようで…お陰で朝までぐっすりでした。」
ハハッと笑うグラント。だがその身体に土が付着している事に櫻は気付いた。
「お前さん、朝の畑仕事もして来たのかい?」
「え?えぇ。畑は1日と放置しておけませんからね。日中手入れを出来ない分は朝夕に補わないと。」
そう言って身体に付く土汚れに気付いたのか、パッパッとソレを払い落とすグラント。
(はぁ、これじゃ早く目標金額まで貯めないと、コイツの身体が先に参っちまうねぇ…。一気に大金を稼げる程の大物が奥に居てくれたら助かるんだが、はてさて。)
小さく溜め息を漏らしつつも真面目なグラントに好意の目を向ける櫻であった。
そうして朝に町を出て、ダンジョンを奥へ進んでは適当な収穫を得て夕方に町へ戻るという行動を繰り返し、既に4日が過ぎた。
初日こそ危なげなグラントであったが、畑道具の扱い方を応用した武器の取り回しに加え、元来素質があったのか目に見えて戦い方が上達していた。
その日の収穫をギルドで精算している時の事。
「グラント、アンタ魔物ハンターでも食っていけるんじゃないか?」
「いやぁ、そうですか?僕なんてまだまだですよ。」
カタリナに褒められ謙遜するものの、グラントも満更では無いように顔を緩ませる。
「今日なんて遂に一人で魔獣を倒したもんね。ヂューンだったけど。」
アスティアも褒め称える。因みにヂューンと言うのは鼠のような姿をした小動物である。鼠との違いはげっ歯類では無く牙を持った肉食獣という点で、主食は虫などだが魔獣化すると人をも襲うようになる。
愛する女性が居るとは言え、年頃の男が女性から褒められ悪い気がするものではない。グラントの顔はデレデレと情けない程に鼻の下が伸びていた。
「やれやれ、そんなだらしない顔をステラやバルドーに見られたら何て言われるやら…。」
呆れた櫻が呟くと、グラントはハッとして背筋を伸ばし、両頬を己の手でパンッと叩き気合を入れた。
「まぁそれはあたしらにとっちゃどうでもいい話なんだが…。」
櫻がニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら言うと
「そんな冷たい事言わないで下さいよぉ~。」
と泣き付くようにグラントが情けない声を出す。
「で、実際の処あのダンジョンは一体どこまで奥があるんだい?出て来る魔物の数は減ってる気がするが、底が知れないってのは何とも不気味だよ。たまに瘴気が漂ってるのも見掛けるし、あれ以上奥が深いと危険かもしれないね。」
「え?あぁ…実はあのダンジョン、誰も最奥まで行った記録が無いんですよ。」
突然の櫻の真面目な声にグラントは自然と背筋を正し直し手ぶりを交えて説明をする。
どうやらあのダンジョンはかなり昔からあるらしいのだが、森の中にあるという事で獣が良く住処として入り込み魔獣化するのだそうだ。そのせいもあって度々挑む魔物ハンターも居たらしいのだが、戻って来た者達は何れも『怖くなって途中で引き返して来た』という者ばかりだと言う。
「…ふぅん…。」
櫻が腕を組みながら考えを纏める。するとその時、
「グラントさん、カタリナさん、査定が完了しましたのでカウンターまでおいで下さい。」
狩猟ギルドの窓口から声が聞こえ、二人が席を立つ。
「今日の分は幾らになるんだろうね?」
アスティアがわくわくした様子でテーブルに頬杖を付くと、その無邪気な表情に櫻も顔を緩めた。
「今日の分け前は大金貨6枚ずつか…。まだ土地を買うには大金貨11枚必要だねぇ。上手くすれば明日で終わるし、そうでなくても今まで通りなら明後日…だが、果たしてあれ以上奥へ進んでいいものかどうか…。」
ギルドを出た櫻は頭を悩ませた。するとグラントが一行の前へ躍り出る。
「何を言ってるんですか。あと少しなんですよ!多少の危険があっても奥へ進むべきです!」
そう言うグラントの目は、目標に手が届く処まで来たという高揚感と焦りが入り混じった複雑な感情が渦巻いているように櫻には見えた。
(だが、確かにそれも一理ある。出来ればあたし達から補填するよりも自分の力で稼いだ金という実感を持って先に進んで欲しいってのもあるし…ねぇ。)
ギラギラとした表情のグラントを見て櫻は頷くと
「そうだね…取り敢えず明日もダンジョンへ潜って、その時にその先の事を考えよう。」
「はい!それじゃ僕は畑の手入れがあるのでこれで失礼しますね!」
櫻の言葉を聞くとグラントは軽く手を上げ別れ、自宅の方へと駆けて行ってしまった。
「何だい?お嬢。何か心配事でもあるのかい?」
「いや、出来れば自分から危険に飛び込むような無謀はしない方がいいだろう?そういう事を考えてただけさ。」
「ふうん?まぁいいや。アタイらも腹ごしらえして宿に戻ろう。」
「そうだね。今日も疲れたし汚れを落としたいよ。」
こうして夕陽が落ち夜の帳が下りる頃に、櫻達は僅か数日で常連となった食堂での夕食を済ませ一日を終えた。




