ケセラン
日が沈み始め森の木々の天辺が赤く染まる時間になると、街道は既に夜の闇の中と見紛う程に暗くなっていた。
「流石に今日はここで野宿とするかね。」
カタリナの言葉に櫻が足を止め、空を見上げる。木々の隙間から夕日の赤い色は見えるものの、周囲に目をやれば何処までも続く暗い森。
「そうだね。それじゃ本格的に視界が効かなくなる前に、さっさとテントの場所を決めて火を起こしてしまおう。」
三人で手頃なスペースを探しキョロキョロと辺りを窺うと、アスティアが少し先に手頃な広さの場所を見つける。
「ねぇねぇ、あそこがいいんじゃないかな?」
指差す先に櫻とカタリナが目を向けると、確かに木々の間隔が広く、テントを張りながらも焚き火をしても大丈夫な広さを確保出来そうだ。街道からそう離れていないのも良ポイントである。
「おー、いいじゃないか。アスティア、良く見つけてくれたね。」
「えへへ~。」
櫻に褒められ素直に喜びを表に出す。
「それじゃアタイはテントを張るから、その間に二人は薪になりそうな木の枝を集めてきてくれないかい。」
「解った。アスティア、余り遠くに行くんじゃないよ?」
「うん、解った!」
櫻とアスティアは其々別の方向へ森に分け入った。
櫻が暫し木々の間を縫って歩きながら木の枝を拾い集めていると、視界の先で何か巨大なモノが動いたように見えた。
(…?)
目を凝らしてみるが森の暗闇の中では無数に見える影も低木が揺れただけか、それとも何かが居るのか判別がつかない。
周囲を見回し、少々森に深入りしてしまっていると感じた櫻は、安全を優先してテントに戻ろうと一歩身を引いた。その時、目の前に見えていた影の一つが大きくその身を揺らしながら櫻に向かって進み出て来たではないか。
「うわっ!?」
思わず大きな声を出しバランスを崩すと、尻餅をついて胸に抱えていた枝を地面にバラ撒いてしまった。
(な、何だ!?影になっててよく解らんが熊よりデカいぞ…!食われる!?)
地に着いた手にグッと力を込め、相手の出方に対応出来るようにじっと影を見つめる櫻。すると、
《いや、驚かせてしまったようで申し訳ない。貴女は新しく人類の神になった方ですよね?》
櫻の頭の中に声が響く。
「へ…?」
身構え、ともすればその鼻っ面に一撃でも加えようと思い握り締めていた拳から力が抜ける。
目の前の巨大な影が更にヌッっと顔を近付けると、櫻の目の前に黒い鼻先が迫りフンフンと音を立てた。そこまで近付いてようやく見えたその姿は、最初の印象の通り巨大な熊のような姿をしているが、その全身を覆う茶色の体毛は通常の熊よりも長くフサフサとしている。
《ひょっとして…お前さんも神かい…?》
《はい。私は獣の神を仰せつかって90近くの冬を過ごしております。ファイアリス様より新たな人類の神がこの地に参られたとお聞きし、折角なので挨拶にとお伺いした次第でございます。》
《あ、これはご丁寧に、痛み入ります。》
丁寧に頭を下げる獣の神を名乗る巨大生物に、櫻も思わず敬語で頭を下げた。
《アマリの時もそうだったが、ファイアリスは行く先々の神にあたしの動向を伝えてるのかい?》
《おや、アマリ様ともお会いになりましたか。とすればそうなのでしょうね。》
(アイツやっぱり暇神だな…。っていうかまさかずっと監視してるんじゃないだろうな!?)
思わず空を見上げ、見える筈の無いファイアリスの姿を探してしまう。
《どうかなさいましたか?》
《…いや、ちょっと目眩がね…。》
《それはいけない。神となられてそう日が経っていないせいで何か不調を来たしているのかもしれません。ささ、私の背にお乗りください。貴女の下僕の元へお連れしましょう。》
獣の神は頭を地面にべったりと下ろし、背中に乗りやすいようにスロープを作ってくれた。
《あ、あぁ…それじゃ有り難く…。それと訂正しておくけど、あたしに下僕は居ないよ。居るのは仲間だ、そこの処は間違えないでおくれ。》
落とした木の枝を拾い集め抱えると、獣の神の体毛を片手で掴みよじ登りながら櫻が言う。
《…?よく解りませんが、何かご無礼を致したようで、申し訳ございません。》
(いや、何だろうね、この腰の低い神様は…。)
櫻は呆れながら来た方向を伝え、テントへと向かう事に。
不思議な事に獣の神はその巨体に見合わず、全く足音を立てる事が無い。時折落ちている木の枝を踏んだりすると確かに折れる音はするのだが、獣の神自身が地面を踏み締める際に音が出る事は一切無かった。
テントまで近くなると、既にアスティアがある程度の薪を拾って来た後らしく、焚き火が起こされていた。
《お、あそこだあそこ。》
櫻が指差すと獣の神が小さく頷く。
『ガサガサ…』
木の枝をかき分けるような音にアスティアとカタリナが顔を上げ
「お、お嬢も戻って来たか?」
そう言った瞬間、手に持っていた木の枝がポトリと落ちた。目の前に現れたのは、座っているとは言えカタリナが見上げる程の巨大な獣の影。
「う、うわぁ!?『バー』!?」
声を上げると同時に後ろに飛び退き、戦闘態勢を取る。獣にここまで気配を感じず接近された事は一人旅を始めてからこの方無かったカタリナに全身から冷や汗が浮く。しかしアスティアがふと気付き羽根を出すとその巨大な影の背に回り込み
「あれ?サクラ様、何してるの?」
と疑問の声。
「へ?お嬢?」
戦闘態勢を崩す事は無いままでアスティアの飛んでいる位置に目を凝らすと、その巨体の上にヒョコっと顔を出したのは櫻であった。
獣の神の背から飛び降りた櫻は一先ず薪を地面に下ろすと、先程までの出来事を二人に伝えた。
「へぇ…獣の神様…。見た目は単にデカいだけの『バー』だけど、やっぱり何か凄い力があるのかね?」
「その辺の事は何も聞いてないが、どうなんだろうね?」
櫻は獣の神に言葉を投げかける。しかしその言葉を受けても獣の神は首を傾げるばかりで何も返事は返ってこない。
「ん?おーい?」
櫻が獣の神の前で手をヒラヒラとさせる。すると
《済みません、神同士の念話でなら意思を理解出来ますが、人の使う『言葉』というのは私達には理解出来ないのです。故に私からも『言葉』を返す事が出来ず、申し訳無い。》
という卑屈な声が櫻の頭に響いた。
「あぁ…そういう事なのか。」
《うん、いや、こっちも悪かった。人の常識を獣にも当て嵌めるのは傲慢ってもんだったよ。済まんね。》
《いえいえ、ご理解が早く助かります。》
「何が『そういう事』なんだい?」
カタリナがもどかし気に櫻に問うと、櫻は今のやり取りを説明する。
「ほー、神様同士っていうのはそうやって話をしてるのか…。それじゃ船の上でのアレもそういう事だったんだなぁ。いや、お嬢もやっぱ神様なんだなって改めて思い知ったよ。」
「もう!カタリナ!サクラ様はボク達の神様なんだよ!?そんな風に考えてたの!?」
「はははっ、まぁあたしも神様なんてガラじゃないとは思ってるし良いさ。」
《それじゃ改めて、お前さんは態々あたしに挨拶する為だけにここまで来てくれたのかい?》
《はい、それが主題ではあります…が、それだけでは淋しいと思いまして手土産を一つ持ってきております。是非お受け取り頂ければと。》
そう言うと獣の神は身を震わせる。するとその体毛の中を何処にしまってあったのか、真っ白い毛玉がコロンと転がり出て来た。
「わ、何これ?」
「毛玉…?」
《獣の神、これは?》
櫻が問うと、獣の神は短く『ブフォ』と声を上げた。
するとその毛玉からピョコンと長い耳が伸び、その耳が被さっていた部分につぶらな瞳が姿を現した。その姿は実際の身体の形が想像の付かない程まん丸な、真っ白な毛に覆われた外観にウサギのような長い耳を持つ不思議な生き物。
《この者は突然変異的に生まれた、同種の居ない獣でして、私が哀れに思い下僕として転生させ永遠の若さと命を与えたのです。》
《『転生』!?そんな事が出来るのか!?》
《はい…其方に居る金の毛の子供の雌も同じような存在かと思いますが…貴女様の手によるものでは無いのですか?》
(そういえばヴァンパイアは神の寵愛を受けて変化したと言っていたな…神ってのはそんな事が出来る存在なのか。)
《いや、アスティアはあたしより昔の神の力が関係してるらしくてね、あたしは何もしてない。》
《おや、そうでしたか。それはそれとして、この者は神と意思の疎通が出来るようになっております。つまり人の神である貴女様とも。》
《ほう?それは凄いじゃないか。こんな風に念話が出来るって事だろう?》
《いえ、それが余り頭は良く無いのでここまでの会話は出来ません。それに距離も余り離れては声が届きませんしね。ですが不思議とどんな獣とでも仲良くなれるので、獣との意思の疎通を手助けするくらいの事は出来るかと思われます。是非旅の供として一緒に連れて行ってやっては貰えませんか。》
《いいのかい?お前さんの供じゃないのか?というか下僕にしたって事は使徒だろう?主の元を離れて禁断症状なんか出ないのか?》
《この者は使徒ではありません。私は何者にも血肉を与えた事は無いのです。この身体ももう10も冬を跨げば朽ちるでしょう。その前にこの者を託す相手を探しておりました。どうかこの者の孤独を癒して下さい。そしてあわよくば、この者と同じ種が再び生まれる事があれば子孫を残せるように…。》
《…成程。永遠の命はその為に与えたのか。解った、コイツは有り難く引き受けさせて貰おう。で、コイツの名前は?というか獣の神、お前さんの名も聞いてないな。》
《我々には名前という概念はありません。皆姿や匂い、行動範囲で判別出来る為、そのようなものは不要なのです。なのでその者に名が欲しいというのであれば、貴女様がお付けになると良いでしょう。》
《そうなのか…それじゃ、どう呼んだものかね…。》
腕を組み、真っ白い丸い身体をジっと見つめる。ソレは自分を見つめる複数の好奇の瞳にきょろきょろとし、時折獣の神に助けを求めるように視線を向けていた。
(あ、そういえば元の世界でこんな感じの未確認生物が居たな。)
「よし、コイツの名前は『ケセラン』にしよう。」
口にすると同時に念話で獣の神にも伝えると、
《私には名の良し悪しは解りませんが、貴女様が決めたのであればそれはきっと良いものなのでしょう。》
そう言う獣の神の声は、何処か安心したようであった。
獣の神は『ケセラン』と名付けられた獣に鼻先を近付けると、何やら話をしているように見える。恐らく念話で今までの話の流れを説明しているのだろう。暫しその光景を眺めていると、
《ぼく、ケセラン?あなたがケセランのあたらしいあるじ?》
と櫻の頭の中に声が響く。その声は何処かたどたどしく幼い舌っ足らずさを感じるものであった。
《おぉ?本当に念話が出来るのか…そうだね、あたしがお前さんの新しい主で、名を『櫻』と言う。獣の神にお前さんを託された形ではあるが、これからはお前さんもあたしの仲間って訳だ。よろしくな。》
《うん。よろしく~。》
白い毛玉がぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「なぁお嬢、また神様同士の話で事が進んでアタイら置き去りになってないかい?」
「そうだよ~。ボク達も話に混ざりたいなぁ。」
「あぁ、済まない。色々と話が進んでしまってね…実は…。」
再び獣の神とのやり取りを、そして『ケセラン』と名付けた新種の獣の事、同行する事になった経緯等を掻い摘んで説明する事となった。
するとその話の最中に、カタリナの腹が『ぐぅ~』と鳴る。
「あはは、話の最中に済まないね。身体は正直みたいだ。」
頭を掻き照れ笑いを浮かべる。
「いや、食事が遅れているのは確かだししょうがないさ。話を聞きながら晩飯の支度をしてくれないか。」
「あいよ。」
と軽い返事を返すカタリナであったが、ふと荷物の中に入れた手が動きを止めた。
「…なぁ、お嬢。獣の神の前で獣を食って怒りを買ったりはしないかい…?」
成程、と櫻が手をポンと叩く。確かに今この場でもし獣の神の怒りを買ったなら、この巨体、更には神としてのどれ程の力を秘めているか未知数の相手には、いかなカタリナと言えども櫻の血の力無しで対抗出来るかという不安はある。
「ちょいと待っとくれ。」
手でカタリナを制すると櫻は獣の神に念話を飛ばす。
《あー、これからひょっとすると物凄く気分を害するかもしれない質問をする事に先ず謝っておく。》
という前置きをした後、
《実は今から食事をしたいんだが、その…獣の肉…つまりお前さんの守護するべき対象を食べる…んだ…。それで…あー…。》
何と言えば良いのか言葉に詰まり目が泳ぐ。それはそうだろう。櫻にしてみれば目の前で『今から人間を食う』と宣言されるようなものだ。そこに何の許可を貰えと言うのだ。
だが獣の神から返って来た言葉は意外なものだった。
《ほほっ。そのような事を気にして頂けるとは、お優しいのですね。ですがお気遣い無く。我々獣の社会は食い食われるもの。私とて時には獣を狩り食します。ですがそれは我々獣にとっては当たり前の事です。人に狩られ食われる事も獣同士で狩られ食われる事も、我々にとっては違いはありません。お気になさらず食べるが良いでしょう。》
《お前さんは獣を護る神じゃないのかい…?》
《勿論そうです。ですが護るとは『個』では無く『全』です。木の実や草を食べる獣も居れば肉を食わねばならぬ獣も居る。それらは狩る者と狩られる者でバランスというものがあります。そのバランスを崩さず、『種』が存続するように務める事が、私にとっての『護る』という事です。》
《成程ねぇ…それじゃ遠慮なく食わせてもらうよ。》
「カタリナ、大丈夫だ。獣の神のお墨付きを頂いたよ。」
グッと親指を立ててウィンクし、カタリナの緊張を解す。
ホッと息を吐いたカタリナが、それでも少々恐る恐る荷の中から干し肉等を取り出し鍋に放り込む。
すると今まで姿勢を下げていた獣の神がスッと立ち上がり、カタリナは思わず身を固くしてしまった。
《さて、私が居ると落ち着かない者も居る様子。用事も済んだ事ですし、私はこれで失礼すると致しましょう。》
獣の神は櫻の頬に大きな顔をすり寄せ、別れの挨拶をする。そしてケセランに再び顔を寄せた。別れの挨拶なのだろう。ケセランもその身を獣の神の顔にすり寄せると、小さく『ピッ』と鳴いた。
その声を聞いた獣の神は満足したのか、
《それでは人類の神よ、ケセランの事、宜しくお願い致します。》
と頭を下げ、音も無く森の暗闇の中へ姿を消した。
ふぅ~と肩の力が抜けるカタリナを見て、櫻は小さく笑う。
「さて、晩飯と行きたい処だが、コイツは何を食う動物なんだろうね?」
いつのまにか櫻の足元にちょこんと寄り添い、大人しくしているケセランを見て首を傾げる。
《なぁ、お前さんは何を食べる動物だい?》
神との念話に使う感覚をケセランに投げかけてみる。すると
《ケセランは、くさたべる。はっぱたべる。》
またも端的に子供のような声が聞こえてきた。
(ふむ、草食動物か…まぁこのナリで肉食というのも想像がつかんしな。)
《それじゃその辺で食べたいモノを自分で選んで食べて来な。満足したらここに戻ってくればいいよ。》
《うん、わかった~。》
丸い身体が前に傾いた。恐らくは頷いて見せたのだろうケセランは、ぴょんぴょんと身体を弾ませるように森の闇の中へ姿を消した。
「あれ?あのコどっか行っちゃったよ?」
不思議に思うアスティアに
「あぁ、どうやら草食動物らしいから、その辺で食事して来いと言ったんだよ。」
と説明をし、焚き火の傍に腰を下ろす。アスティアも櫻に寄り添うように座ると、火にかけていた鍋の中身の味を確かめたカタリナが『うん』と頷きボウルにスープをよそい、櫻に差し出した。
「お、ありがとう。」
器を受け取り早速口をつけると、出来立てで熱いながらも旨みの溶け出したスープが口の中を幸せにしてくれる。カタリナも満足そうな櫻の表情に顔を綻ばせるとスープを口にした。
鍋が空になる頃に、櫻の背後の茂みがカサカサと揺れる。皆が目を向けると、その中から白い毛玉がころころと転がり出てきた。
「ん?ケセランか…。」
ホッと安堵の息を漏らす櫻に
《もどった~。》
と、声が届く。
《あぁ、おかえり。ちゃんと戻って来れたね。》
優しく迎えてくれた櫻の声に気を良くしたのか、ケセランはぴょんと飛び跳ねると櫻の膝の上に落ち着いた。すると、見た目は櫻の頭程の大きさでありながら思ったよりも重量が無い事に驚く。どうやら丸い姿を形成している大部分が体毛のようで、手を置くとその中に沈み込む程であった。
(どうやってこの丸い形を維持してるのか不思議な生き物だ…。)
感心と興味にもふもふとその身体を弄ると、流石に触りすぎたのかケセランが身を震わせ逃げるように櫻の頭の上に飛び乗る。
そしてその場にへたりこむように『もさぁ』と身を沈めると、櫻の真っ白な髪の毛と合わさり、まるで櫻の頭からウサギの耳が生えたような姿になりアスティアとカタリナの笑いを誘った。
その後アスティアの食事も終わると三人と一匹は火の始末を済ませテントの中で暫しの食休みを挟み就寝する。
すると寝息を立てる櫻の枕元で、ケセランの身体から仄かな青白い光が発したかと思うとソレはテントを包み込むように広がった。
不思議な事にその晩、深い森の中に無数に生息する肉食の獣たちは一切テントに近付く事は無く、遠目にその明かりを見守るだけであった。




