海の神
船が海原へ出てから早半日程が過ぎただろうか。真夜中になっても未だに激しい暴風雨の中を進む武装船であったが、甲板下の船室部分は驚く程に揺れが小さい。
(どういう仕組みになってるのか知らないが、免震構造のようなもんなのかね?)
客室のテーブルの上に乗ったコップの中の液体を見ながらそんな事を考える。
ただ恐らくはそのせいで二重構造になっている事も察せられるのだが、外を覗く窓も無いのが少々不満でもあった。
(まぁどうせこの部屋の位置では水の中だろうし、夜の海じゃ真っ暗で何も見えんか…。)
「折角の船旅なら、晴れた空の下で大海原を眺めてみたかったねぇ。」
「お嬢の力で嵐を消したり出来ないのかい?」
「あたしゃ人類の神を指名されただけでそんな大層な力は持ち合わせてないよ…。そんな力があればお前さん達を助ける事も出来るんだろうけどねぇ。」
ふぅと溜息をつき、テーブルの上のコップを持ち上げるとクルクルと中の液体を攪拌するように回した。
鼻腔にアルコール特有の香りが漂ってくる。
(う~ん、世界は違っても酒ってのはやっぱこういうもんなんだねぇ。良き良き。)
これは夕食の後にカタリナが部屋で飲む用にと頼んで持ってきて貰った酒であったが、折角の個室という事で櫻もやっと人目を気にせずにこの世界の酒にありつく機会を得たのであった。
ただしコップはカタリナ用に持ってきた一つだけの為、回し飲みとなる。
見た目は赤ワインのように見えるが香りは甘酸っぱさを感じるソレをチビッと口に含んでみる。
(んん…?酸味と甘みが絶妙なバランスでとても飲みやすい…。これは何かの果実酒なんだろうか?だが案外アルコール分も強い…調子に乗ると大変な事になりそうだね。)
そんな事を考えつつも二口、三口とついつい進んでしまう。
「おいおい、お嬢そんなに飲んで大丈夫なのか?」
見守っているカタリナも不安そうだ。
「ん~?多分まだ大丈夫じゃないか?」
「いや、だって既に顔が赤いぞ…?」
言われて頬に手を当ててみると、確かに体温が高い気がする。手の平を見てみると物凄く血行の良さそうな赤みを帯びているではないか。
「んぁ…?あたしゃ結構酒は強い方だと思ってたんだが…。」
(これはアレか?身体が子供に戻ってしまってるせいで酒の回りが早いのか?)
「どうやら…ペース配分を…間違え…。」
言い終わる前に物凄い眠気に襲われると、せめて酒を撒かすまいとコップをテーブルに置き、そのままズルリとカーペットの上に倒れ寝息を立て始めてしまったのだった。
「全く…何年生きてるか知らないが、子供が酒なんて飲むもんじゃないよ…。」
呆れ顔のカタリナが櫻を抱き上げベッドへ運ぶ。
「ベッドが多くて良かったな。今日のお嬢は酒臭いから流石に一緒に寝るのは抵抗あるだろ。」
「う~…。」
櫻と一緒に寝たい気持ちと、酒の匂いへの抵抗が拮抗しているアスティア。隣りのベッドから指を咥えて櫻の寝顔を眺めるのみである。
「何ならアタイと一緒に寝るかい?」
「ボクはサクラ様と一緒に寝たいんだよ。誰かと寝たいんじゃないの!」
プイっと不貞腐れたように顔を背けると、そのままベッドの中へ潜り込んでしまった。
「やれやれ…。」
少し困り顔に微笑むと、櫻の飲み残した酒を飲み干しカタリナもベッドに横になり、ベッド傍のランプを消した。
揺れる船室の中で天井から吊るされたランプがゆらゆらと揺れ、三人の寝顔を薄闇に浮かび上がらせていた。
昼間の体力の消耗と酒の力で深い眠りに落ちていた櫻。しかしその意識に語りかける声を感じ取る。
《人類の神よ…聞こえますか…?》
(ん…?ファイアリスか…?)
《何だい?また話し相手が欲しいのかい?》
《何を言っているんですか?貴女の乗る船がこれから大きく揺れますよ、気をつけてくださいね。》
《は?何を言って…。》
そう言いかけた時、船体がグワッと激しく揺れ、船室の中の物がガチャガチャと音を立て始めた。
「な、何だ!?」
慌てて飛び起きる櫻達。
すると伝声管から船全体に声が響いて来た。
『魔魚の襲来だ!各員は甲板に急げ!お客人は万一に備えて船の内側に身を寄せていろ!』
「また魔魚か!?」
「外はまだ嵐なんだろう?こんな状況で戦えるのか?」
「サクラ様、ボク達も甲板に出た方がいいんじゃないかな?」
(うーむ、流石に嵐の海にカタリナを泳がせる訳には行かない…アスティアだけで魔魚をどうにか出来るか?いや無理だろう!)
港での戦いを思い出しながら何か策が無いかと頭を回転させるものの、現状を把握しない事には何も思いつかない。
「仕方無い、まず甲板に出て相手の様子を伺おう。」
櫻の言葉に二人も頷くと部屋を出た。
「あ!?貴女達何処へ?」
廊下に出るとタッカーが柱にしがみつきながら櫻達に声をかける。
「あぁ、あたし達に何が出来るかと見に行く処さ。」
「そ、そんな!?危ないですよ!?」
「なぁに、無理と判ったら戻って来るから心配しなさんな。」
そう言って階段を駆け上る。
甲板に出るとそこは激しい雨が甲板を打ち付け、船員達の必死の声が響き渡る戦場だった。
そしてその甲板で相対していた物…それを見て櫻が驚きの声を上げる。
「何だありゃ!?タコか!?」
ウネウネと動く太く巨大な触手が正に甲板に這い上がろうと船体に取り付いていたのだ。
ドカンドカンと大砲の音も響くが、触手はビクビクと反応こそするものの船体から離れる様子は微塵も無い。船の縁をベキベキと押しつぶしながら徐々に確実にせり上がってくる魔魚の身体。今正にその全身像が見えると更に櫻を驚かせた。
その姿は一言で言い表すなら『クラゲの傘を被ったイカの胴体にタコの足が生えた謎の生物』。
(コイツは…船に取り付いているこの状態ならカタリナでも戦う手段があるのは助かる…だが…。)
櫻が困惑したのはそのサイズだ。巨大な武装船に対して恐らく全体でその二倍にはなろうかという巨大さ。触手一本をひと振りするだけで甲板の船員達が吹き飛ばされる有様だ。更にはその触手が本当にタコと同等の性質のものであれば正に筋肉の塊と言っても良い。あんなものに巻き付かれれば普通の人間ならひとたまりもなく命を落とすだろう。船体に絡みつく触手はミシミシと船を締め付け、頑丈な筈の武装船が歪む。
「おい、馬鹿やろう!何で出て来た!?」
船長の怒声が聞こえるが、
「あたしゃ野郎じゃないよ!こんなのに襲われたら中にいようが同じだろうが!戦力は多い方がいいんだよ!」
大声で言い返す。すると魔魚の動きがピタリと止まり、何を考えているのか全く読めない目がぎょろりと櫻を見た…気がした。
(ふん、やっぱりあたしを気にするかい。)
この時櫻は半ば自棄を起こしていた。
(あたしを目当てに瘴気が抜け出して来るだって?だったらあたしを殺したってアンタ達が救われる事なんて無いって事を思い知らせてやるよ。)
恐らく自分へ向けて触手が来る。潰される覚悟を決め、被害が少なそうな位置へ移動しようと両足へ力を込めた瞬間。
『ズドオォォーン!』
大砲の音よりも激しい轟音と共に巨大な水しぶき…いや、三叉の鉾が海中から突き上がり、魔魚の身体を貫いた。
「へ!?」
思わす間抜けな声を出してしまうが、その光景を見た全員が同じような反応をしていただろう。その鉾は的確に魔魚の内臓を貫き、恐らくは心臓部を破壊したらしい。船体に取り付いていた触手もダラリと力を失い、その目から光が消える。
海面が大きく揺らぐと、海の中から巨大な手が姿を現し魔魚の身体をガシッと掴むと船体から引き剥がし、海へポイと投げ捨ててしまった。
船の上の一同は、嵐の雨に打たれながらもその光景から目を逸らせずに、ただジっとその姿が現れるのを見守る。
ザバァ!と一際激しい水柱が立つと、その中から現れたのは魔魚の三倍はあろうかという大きさの、しかし見目麗しい女性の姿であった。
「あ…あぁ…貴女様は…!?」
船長がワナワナと甲板に膝を着くと、他の船員達、更にはカタリナまでもが同じように膝を着き頭を垂れた。
(ん?何だ?)
周囲の様子に驚きと困惑の櫻と、櫻に身を寄せるアスティア。そんな櫻をジっと見つめる巨人。
《ふふ、新しい人類の神よ、無事で何よりです。》
櫻の頭に声が響いた。
(この声、さっきのか…。)
慌てて巨人の顔を見上げる。
《あぁ、助かったよ。ありがとう。お前さんも神なのかい?》
《はい。私は海の担当を任されている神で、名はアマリと言います。宜しくね。》
《あー…さっきはファイアリスと勘違いして悪かったね。》
《うふふ、あのコ、貴女の事がお気に入りみたいだものね。》
《それで、態々危機を救いに来てくれたのかい?》
《そういう訳じゃないんだけど~。新しい人類の神が今丁度海を渡ってる最中だって、そのファイアリスから聞いてね?丁度近くに居たから折角だから挨拶しようかな~って向かってたら魔魚の発生を感知しちゃったの。》
(ファイアリスといい、このアマリといい、この世界の神様ってのは随分フランクだね。まぁあたしもその方が気が楽で助かるが。)
《それで魔魚に追いつく前に船と接触しちゃいそうだったから、一応貴女に注意を呼びかけたんだけど…あんまり意味無くてゴメンね。》
《いや、その心遣いだけでも有り難いさ。それに事実として助けて貰った。本当に感謝しかないよ。》
《ふふ、どういたしまして。それじゃ挨拶も済んだし、そろそろ行くわね。》
《あぁ、態々ありがとう。また何処かで会う事もあるだろうし、その時まで達者で。》
《えぇ。またね。あ…そうだ。》
《ん?何か言い忘れた事でも?》
《ううん、折角だから貴女の航海を少し手助けしてあげるわ。》
そう言うとアマリは手に持った鉾を天高く掲げた。
するとその先端から激しい衝撃波のようなものが上空に向かい発せられ、空を覆う分厚い雨雲を散らせたではないか。瞬く間に嵐は止み、満天の星空が頭上を埋め尽くした。
「おぉ~…こりゃ凄い…。」
(これが本当の神の力ってヤツか…あたしの血なんてまるで大地に染み込む雨粒程度の価値しか無い気がしてくるよ…。)
《どう?これで航海は安全になると思うわ。それじゃ私は折角だからこの船の航路上にある『穴』を埋めて行くわね。もう大陸到着まで魔魚は出ないと思うから安心してね。》
《何から何まで至れり尽せりで頭が上がらないよ。あたしに何か出来る事があったら、その時に恩返しをさせてくれ。》
《えぇ。頼りにしてるわね。それじゃ。》
《うん、それじゃ。》
櫻とアマリは互いに笑顔で手を振り合い、そしてアマリの姿は水となり海の中へと消えた。
(あたしも主精霊巡りをしていけば神として成長して、あんな力を使えるようになるのかねぇ…?)
「ふぅ~、今回は全く役に立つ事無く助けられちまったねぇ。」
星空を眺めながら呟くと、
「お、おい…お前、いや、貴女は一体、どういうお方なんです?」
余り慣れていない敬語を使い声をかけてきたのは船長だ。
船長が困惑するのも無理は無い。念話で会話をしていた櫻とアマリは傍から見れば暫くの間見つめ合っていただけなのだ。その後に手を振り合う間柄となれば櫻の存在は異質なものに見える。
「船長はさっきのが何か知ってるのかい?」
「あ、当たりまっ…いや、当然です!あのお姿は正しく伝え聞く海の神『アマリ』様!俺達船乗りにとっては畏れ多い存在です!この目で見られる日が来るとは思いもしなかった…!」
感動に打ち震え両手を組んで感涙し、海に向かい祈るように船長は語った。
(ほ~ん、この世界で神が普通に認知されてるってのは本当のようだねぇ。なのにあたしには出来れば神としての存在を秘匿して欲しいというのは、やはり行く先々で神聖視されては互いにその立場に頼ってしまうからという事なのか。)
「まぁ、あたしは…ただの旅の小娘さ。もう航路に障害は無いと思うから、あたしは部屋に戻るとするよ。カタリナ、行くよ。」
呆然と見送る船長を始めとする船員達を尻目に、櫻達は船室へと下りて行く。
「あ、皆さんご無事でしたか!随分静かになりましたが魔魚はどうなりました!?」
未だに柱にしがみついていたタッカーが声を震わせながら話しかけてきた。船長の船に絶対の信頼を寄せていたとは言え、あそこまで船体が悲鳴を上げては流石に冷静では居られなかったらしい。
「もう大丈夫だよ。『神のご加護』があったからね。きっとあんたの善行のお陰だよ。」
そう言い残して櫻達は呆然とするタッカーにヒラヒラと手を振り客室へと戻った。
「さて、今がどれくらいの時間か解らんが、もう航路に心配は無いらしい。もう一眠りして明日に備えておこうか。」
すっかりアルコールの抜けた櫻がポイと服を脱ぐと
「わーい。やっとサクラ様と寝られる!」
とアスティアも嬉しそうに全裸になり櫻のベッドへ潜り込んだ。
掛け布の中でもぞもぞと身を寄せる少女達を恍惚の眼差しで眺めながらカタリナもベッドへ腰掛け、櫻達が寝息を立て始めるまで見つめ続けていたのだった。




