第1話 二人目の予感と確定
私は羽ペンを置き、大きくあくびを噛み殺した。
執務室の窓から差し込む午後の日差しが、やけにまぶしく感じる。
書類の決裁はまだ半分も終わっていない。
いつもなら、この程度の量など昼食前には片付けているはずだ。
私の「効率化マニュアル」は完璧に機能しているし、部下たちも優秀だ。
ボトルネックになっているのは、間違いなく私自身のコンディションだった。
(……眠い)
ここ数日、泥のような眠気が一日中つきまとっている。
夜はクラウス様とレオンと一緒に、十分すぎるほどの睡眠時間を確保しているはずなのに。
それに加えて、妙な胸焼けと、酸っぱい果物への渇望。
この感覚には、覚えがある。
「ミズキ様、顔色が優れませんが……」
控えていた侍女長のマリアが、心配そうに声をかけてきた。
彼女の手には、私が所望したレモンの砂糖漬けが乗った皿がある。
「ありがとう、マリア。……ねえ、侍医長を呼んでくれるかしら」
「はい。すぐに」
マリアは私の様子を見て、何かを察したように微笑み、足早に部屋を出て行った。
私はお腹に手を当てた。
まだ平らで、何の変化もない。
けれど、私の中にある「鎮静」の魔力が、内側から新たな命の灯火を感じ取って、静かにざわめいている。
(また、賑やかになりそうですね)
不安はない。
あるのは、じわりと広がる温かい期待だけだった。
***
「間違いありません。ご懐妊です」
侍医長の診断は、私の予想通りだった。
寝室のベッドに腰掛けた私に対し、彼は満面の笑みで告げた。
「現在、三ヶ月といったところでしょうか。母子ともに健康そのものです」
「そうですか。……やっぱり」
私は安堵の息を吐いた。
隣で話を聞いていたクラウス様が、弾かれたように立ち上がった。
「ほ、本当か!? ミズキ、いや、侍医長! 間違いではないな!?」
「はい、陛下。私の診断に間違いはございません」
「やった……! やったぞ!」
クラウス様は子供のようにはしゃぎ、私を抱きしめようとして、慌てて止まった。
壊れ物に触れるような手つきで、私の手を握る。
「ありがとう、ミズキ。……嬉しい。言葉にならないほど」
「ふふ、落ち着いてください。パパになるのは二回目でしょう?」
「何度目でも、この感動は変わらないさ」
彼は涙ぐんでいる。
本当に、涙もろい王様だ。
「……それで、性別や魔力の傾向は分かりますか?」
私が尋ねると、侍医長は少し真剣な表情になった。
「まだ確定ではありませんが……魔力波形は非常に強く、そして繊細です。レオン様の時のような爆発的な力強さとは違う、月光のような静謐な波動を感じます。おそらく、女の子かと」
「女の子……!」
クラウス様が天を仰いだ。
完全に撃沈している。
「王女か。私とミズキの娘……。間違いなく、世界一可愛い天使になるに決まっている」
「気が早いですね。でも、女の子ならドレス選びが楽しみです」
私たち二人は、未来への幸福な想像に浸っていた。
けれど、その輪の中に、一人だけ入ってこられない小さな存在がいた。
「……レオン?」
私が声をかけると、部屋の隅で積み木遊びをしていたレオンが、ビクリと肩を震わせた。
彼は積み木の手を止め、私たちの方をじっと見ている。
その瞳は、いつものキラキラした好奇心ではなく、どこか不安げな色を帯びていた。
「おいで、レオン。……お兄ちゃんになるのよ」
私が手招きすると、レオンはのろのろと近づいてきた。
ベッドの縁に手をかけ、私のお腹を凝視する。
「……あかちゃん?」
「ええ、そうよ。ここに、レオンの妹がいるの」
私は彼の手を取り、自分のお腹に触れさせた。
レオンの手は小さくて温かい。
しかし、彼はすぐに手を引っ込めてしまった。
「……んぅ」
不満げな声。
眉間に皺を寄せ、クラウス様と私を交互に見る。
パパとママが、自分ではない「誰か」の話をして、盛り上がっている。
その疎外感を感じ取っているのかもしれない。
「レオン、嬉しいだろう? 遊び相手ができるぞ」
クラウス様が明るく言い、レオンを抱き上げようとした。
しかし、レオンはぷいっと顔を背け、彼の腕をすり抜けて私の背中側に隠れてしまった。
「あれっ?」
「……どうやら、複雑な心境のようですね」
私は苦笑した。
一歳を過ぎ、自我が芽生えてきたレオン。
彼にとって、両親の愛情は世界の全てだ。
それを脅かすライバルの出現を、本能的に警戒しているのだろう。
「レオン、大丈夫よ。赤ちゃんが生まれても、パパとママはレオンのことが大好きよ」
私は背中に回ったレオンを抱き寄せ、頭を撫でた。
レオンは私の服をギュッと握りしめ、無言で顔を埋める。
その体から、微かにパチパチという魔力の音がした。
感情の揺れが、魔力に影響している。
(……ケアが必要ですね)
私は侍医長とクラウス様に目配せをした。
喜びも束の間、新しい課題が浮上したようだ。
「お兄ちゃんになる」という試練は、彼にとって魔力制御の訓練以上に難しいものになるかもしれない。
「……うぷっ」
急に、吐き気がこみ上げてきた。
つわりだ。
レオンの時は食べづわりで、ひたすら食べて寝ていればよかったけれど、今回は違うようだ。
胃の奥がムカムカとして、体が重い。
「ミズキ! 大丈夫か!?」
「……平気です。少し、横にならせてください」
私は枕に頭を沈めた。
レオンを抱きしめてあげたいのに、体が言うことを聞かない。
もどかしい。
レオンが、心配そうに私の顔を覗き込む。
その瞳に映るのは、体調を崩したママと、その原因である「赤ちゃん」への敵意かもしれない。
「レオン、ママは少しねんねするからね。パパと遊んできなさい」
「……」
レオンは何も言わず、ただじっと私を見ていた。
そして、短く「イヤ」と呟いた。
それは、彼が初めて明確に示した、拒絶の言葉だった。
新しい家族の予感は、幸福と共に、小さな嵐を連れてきたようだ。
私たちの「安眠」を守るための、第二ラウンドが始まろうとしている。




