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【最終章開始!】婚約破棄? 知りません。睡眠の方が大事です! ~復讐は不眠症王太子に丸投げして、離宮で抱き枕生活はじめます~  作者: 月雅
第4章

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第10話 未来への二度寝



 読みかけの本を閉じ、私は木陰のベンチから顔を上げた。


 視界の先には、光り輝く緑の絨毯。

 整備された離宮の庭園を、小さな銀色の弾丸が駆け抜けていく。


「パパ! こっちだよ! つかまえて!」

「待てレオン! 速すぎるぞ、魔力強化を使っていないか!?」


 四歳になったレオンが、ケラケラと笑いながら走り回り、その背後を国王であるクラウス様が必死の形相で追いかけている。

 レオンの足元には、小さな風の渦が発生しており、飛ぶような速度を生み出していた。

 魔力の制御は完璧だ。

 かつて周囲を凍らせていた不安定さは微塵もなく、彼は自分の才能を手足のように使いこなしている。


「……平和ですねぇ」


 私は温かい紅茶を啜り、その光景に目を細めた。

 あれから数年。

 世界は、驚くほど穏やかになった。


 帝国との条約は順守され、国境には商隊が行き交っている。

 ソフィア王女は女王に即位し、私たちの国との共同事業で莫大な富を生み出している。

 かつて私が「安眠」のために導入した効率化システムは、国中に広がり、人々は「休むこと」の重要さを知り始めた。


 そして何より。

 私の家族は、今日も元気だ。


「ママー! 見て、蝶々!」


 レオンが私の元へ駆け寄ってきた。

 その指先には、光の粒子で作られた幻想的な蝶が止まっている。

 高度な幻影魔法だ。

 帝国の書庫から持ち帰った知識を、彼は遊びの中で吸収してしまったらしい。


「まぁ、素敵ね。パパに見せてあげた?」

「うん! パパは『すごいけど、ママにぶつけちゃ駄目だぞ』って言ってた!」


 遅れて追いついてきたクラウス様が、肩で息をしながら苦笑する。

 額には汗が滲み、シャツの袖は捲り上げられている。

 国王としての威厳ある姿も素敵だけれど、こうして泥んこになって遊ぶ父親としての姿も、また格別だ。


「はぁ、はぁ……。レオンの魔力量は、底なしか。私の全盛期より体力があるんじゃないか」

「あら、クラウス様が運動不足なだけでは? 最近、執務室で座りっぱなしでしょう」

「うっ……。君が作るお菓子が美味しすぎるのがいけないんだ」


 彼は私の隣にどさりと座り込み、私の肩に頭を預けた。

 甘い汗の匂いと、日向の匂いがする。


「……疲れたか?」

「いえ。幸せすぎて、怖いくらいです」


 私は彼の手を握った。

 かつて、この手は震えていた。

 眠ることを恐れ、孤独に凍えていた手。

 でも今は、こんなにも温かくて、力強い。


 レオンが私たちの膝によじ登ってくる。

 三人でくっつくと、ぽかぽかと温かい。

 太陽は高く、風は心地よい。

 絶好の……そう、絶好のタイミングだ。


「……ねえ、お二人さん」


 私は提案した。

 我が家の、最も重要な行事を。


「そろそろ、休憩にしませんか?」

「休憩?」

「ええ。たくさん走って、たくさん笑いました。……お昼寝の時間ですよ」


 私の言葉に、レオンが目を輝かせ、クラウス様がふっと表情を緩めた。


「賛成だ。王命により、直ちに昼寝を執行する」

「やったー! 一番大きいベッドで寝る!」


 私たちは立ち上がり、手を繋いで離宮の中へと歩き出した。

 廊下ですれ違う侍女たちが、私たちの姿を見て微笑ましそうに道を譲る。

 「またですか」なんて野暮なことを言う者はいない。

 王族の休息が、国の平和に直結することを知っているからだ。


 寝室の扉を開ける。

 そこには、特注の超キングサイズベッドが鎮座していた。

 以前よりもさらに大きく、ふかふかになった、安眠の聖域。


 私たちは靴を脱ぎ、吸い込まれるようにダイブした。


「はぁ……極楽」


 私が真ん中……ではなく、今日はレオンが真ん中だ。

 右にクラウス様、左に私。

 川の字フォーメーション。

 レオンはパパとママの手を握り、満足そうに天井を見上げている。


「ねえママ、夢の中でも遊べる?」

「ええ、もちろんよ。もっとすごい魔法が使えるかもしれないわね」

「じゃあ、ボク、夢に行ってくる!」


 言うが早いか、レオンの瞼が落ちていく。

 相変わらずの入眠スピードだ。

 すぐに規則正しい寝息が聞こえ始めた。


 クラウス様が、レオン越しに私を見た。

 その瞳は、出会った頃よりもずっと深く、穏やかな海の色をしていた。


「……ミズキ。ありがとう」

「何がですか?」

「君があの日、私の手を取ってくれたこと。……君が『睡眠の方が大事だ』と言って、私を寝かしつけてくれたこと」


 彼はレオンの頭を撫でながら、噛み締めるように言った。


「君のその選択が、私を救い、レオンを救い、この国を救ったんだ。……君は、最高の王妃だよ」


 照れくさい言葉。

 でも、素直に嬉しい。


 思い返せば、私の動機はいつも不純だった。

 楽がしたい。

 寝ていたい。

 面倒なことは嫌だ。

 そんな「怠惰」な願いが、結果として「効率」を生み、「平和」を勝ち取ったのだとしたら。

 私は胸を張って言おう。


 睡眠こそ、正義であると。


「……ふふ。お礼を言うのはまだ早いですよ」


 私は自分の下腹部に、そっと手を当てた。

 まだ確信はないけれど。

 でも、私の「鎮静」の魔力が、内側から新たな命の鼓動を感じ取っている。


「どうした?」

「いいえ。……もしかしたら、このベッド、もう少し大きくしないといけなくなるかもしれません」


 私の言葉の意味を察したのか、クラウス様が目を見開き、それから顔をくしゃくしゃにして笑った。

 今までで一番、情けなくて、幸せそうな顔。


「……そうか。そうか!」

「静かに。レオンが起きちゃいますよ」

「ああ、すまない。……嬉しいな。もっと賑やかになる」


 彼は私のお腹の上から手を重ねてきた。

 温かい。

 未来の温もりだ。


 窓の外から、柔らかな風が入ってくる。

 レースのカーテンが揺れ、光の粒がダンスを踊る。

 ここは、世界で一番安全で、幸福な場所。


 瞼が重くなる。

 心地よい闇が、私を手招きしている。

 抗う理由なんてない。

 明日のための活力は、今日の安眠から作られるのだから。


「……おやすみなさい、クラウス様。おやすみなさい、レオン」

「おやすみ、ミズキ。……愛している」


 愛する人たちの寝息を聞きながら、私は意識を手放した。

 かつて婚約破棄された私が選んだ、とびきり贅沢な第二の人生。


 私の再就職先は、やっぱりここ以外に考えられない。


「おやすみなさい。……愛しい、私の世界」


 私は満ち足りた微笑みを浮かべ、永遠に続くような、甘く優しい夢の中へと旅立った。


 (完)


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