第5話 父のトラウマ
ガランとした寝室に、時計の針が進む音だけが響いている。
夜中の二時。
キングサイズのベッドは、不自然なほど広かった。
私の隣には、スヤスヤと眠るレオンがいる。
けれど、その向こう側――いつもならクラウス様がいる場所は、冷たく整えられたままだ。
(……三日目、ですね)
私は天井を見上げ、冷めた感情で日数を数えた。
あの日、レオンの魔力が暴走し、部屋に雪が降った日。
クラウス様は「私のせいだ」と言い残して部屋を出て行った。
それきり、彼はこの寝室に戻ってこない。
食事も執務室。
仮眠も執務室。
お風呂の時間すらずらして、徹底的に私とレオンを避けている。
まるで、自分が病原菌か何かであるかのように。
「……バカな人」
小さく呟く。
寂しいという感情は、とうに通り越していた。
今、私の胸にあるのは、ふつふつと湧き上がる静かな怒りだ。
昼間、侍従の一人を捕まえて聞き出した。
クラウス様は何を考えているのか、と。
侍従は言いにくそうに、けれど安堵した様子で教えてくれた。
『陛下は、古い文献を読み漁っておられます。「強大すぎる魔力を持つ王族同士が近くにいると、魔力が共鳴して暴走を誘発する」という記述を気に病んでおられるようで……』
迷信だ。
魔力学の権威であるソフィア王女が聞いたら、鼻で笑うようなオカルト話だ。
でも、今の彼にはそれが真実に見えている。
恐怖というフィルターを通して。
彼は本気で信じているのだ。
自分がそばにいるだけで、愛する息子を傷つけてしまうと。
だから離れる。
それが彼なりの「守る」形なのだと。
(……ふざけないでください)
私はベッドから起き上がった。
守る?
違う。
それはただの逃げだ。
自分が傷つきたくないから、息子が傷つく姿を見たくないから、距離を置いているだけ。
レオンを見てみなさい。
この子は、パパがいなくて寂しがっている。
昼間、廊下でクラウス様の気配を感じるたびに、そちらへ顔を向けて手を伸ばしているのに。
その小さな手を無視することの、どこが愛情だと言うの。
「レオン、起きなさい」
私は眠る息子を抱き上げた。
レオンは「ふぇ?」と声を上げ、眠そうな目をこすった。
ごめんね。
でも、今日は夜更かしに付き合ってもらうわよ。
「パパを迎えに行くわよ」
私はガウンを羽織り、ルームシューズを履いた。
髪は下ろしたままだし、化粧もしていない。
でも、構うものか。
これは夜襲だ。
飾り気のない本音で殴り込みに行くのだから、姿もそのままでいい。
私はレオンをしっかり抱き、寝室の扉を開けた。
廊下には、夜警の近衛騎士たちが立っていた。
彼らは私を見ると、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに背筋を伸ばして敬礼した。
「王妃殿下。……どちらへ?」
「散歩です。少し、国王陛下の執務室の方へ」
私が冷ややかに告げると、騎士たちは顔を見合わせ、そして無言で道を開けた。
止める気はないらしい。
彼らもまた、引きこもりの王に手を焼いているのだ。
「行ってやってください」という心の声が聞こえてくるようだ。
カツ、カツ、カツ。
深夜の王宮に、私の足音が響く。
レオンは状況が分かっていないのか、私の胸で大人しくしている。
時折、指先からパチパチと青い火花が出るが、私はそれを優しく撫でて消した。
執務室の前に着いた。
重厚な扉。
その向こうに、あの臆病で、不器用で、愛すべき夫がいる。
「……ミズキ様」
扉の前に控えていた侍従長が、私を見て深く頭を下げた。
「陛下は、どなたも通すなと仰せですが」
「そうですか。では、王妃権限で命令を上書きします」
私は一歩も引かなかった。
「そこを退いてください。……夫を教育する時間です」
侍従長は、ほんの少しだけ口元を緩め、「承知いたしました」と下がった。
扉の鍵が開けられる。
私は深呼吸をした。
怒りを燃料に。
愛を武器に。
私はノックもせずに、ドアノブを回した。
鍵はかかっていなかった。
拒絶しているようで、心のどこかでは誰かが来るのを待っていたのかもしれない。
そんな甘えすら、今の私には腹立たしい。
バーン!!
私は足で扉を蹴り開ける勢いで、中へと踏み込んだ。
「開けなさい、クラウス!」
私の声が、薄暗い執務室に響き渡る。
部屋の奥、書類の山に埋もれるようにしてソファに座っていた人影が、ビクリと跳ね上がった。
「ミ、ミズキ……!?」
クラウス様が立ち上がる。
その顔色は最悪だった。
無精髭が伸び、目の下には濃い隈。
数日会わなかっただけなのに、十歳くらい老け込んだように見える。
「な、なぜここに……。入ってくるなと言っただろう! レオンまで連れて……!」
「うるさいです!」
私は彼に詰め寄った。
彼が後ずさる。
世界最強の魔術師が、パジャマ姿の妻に怯えて後退している。
「近寄るな! 共鳴する! あの子が苦しむんだ!」
「苦しんでいるのはあなたでしょう! 勝手に悲劇のヒロインぶらないでください!」
私は彼の胸ぐらを――掴みたいところだが、レオンを抱いているので無理だ。
代わりに、鋭い視線で彼を射抜いた。
「いいですか、よく聞きなさい。この子は、あなたではありません」
私はレオンを見せた。
レオンは、パパの顔を見て、ぱぁっと笑顔になった。
そして、小さな手を彼の方へ伸ばす。
「あー! パッ、パ!」
無邪気な声。
そこに恐怖など微塵もない。
あるのは、純粋な好意と信頼だけだ。
「見なさい。この子があなたを怖がっていますか? 苦しんでいますか?」
「……だが、魔力が……」
「魔力がどうしたというのです。雪が降ろうが窓が割れようが、直せばいいだけです。そんなことより、父親に拒絶される方がよっぽど傷つきます!」
私の言葉が、彼の胸に突き刺さる。
クラウス様が息を呑み、揺れる瞳でレオンを見た。
レオンは必死に手を伸ばしている。
抱っこして、と。
「……私は、怖いんだ」
彼が本音を吐露した。
弱々しい声。
「かつて、私の魔力は母を殺した。……もし、レオンの魔力が暴走して、君や、あの子自身を壊してしまったら……私は生きていけない」
「起きてもいない未来を勝手に絶望しないでください」
私は一歩踏み出し、彼との距離をゼロにした。
「あなたは一人でした。でも、レオンには私たちがいます。私がいます」
私の瞳を見て、と言葉に乗せる。
「私の『鎮静』の魔力は、飾りですか? あなたを救い、皇帝を救ったこの力が、我が子一人救えないとでも思っているんですか?」
クラウス様がハッとする。
そうだ。
私を忘れている。
最強の冷却装置がここにあることを。
「座ってください」
私は彼をソファに押し倒すように座らせた。
そして、有無を言わさず、その膝の上にレオンを乗せた。
「えっ、わ、わああっ!?」
クラウス様がパニックになって両手を泳がせる。
しかし、レオンはパパの膝に乗れて大満足だ。
彼の胸にギュッとしがみつき、嬉しそうに声を上げる。
その瞬間。
レオンの体から溢れていたパチパチという魔力の火花が、ふっと消えた。
クラウス様の魔力と触れ合い、馴染み、安定したのだ。
「……消えた?」
「ほら、言ったでしょう」
私は腰に手を当てて見下ろした。
「共鳴して暴走? 逆ですよ。親子なんだから、波長が合って安定するに決まっているじゃないですか」
それは科学的根拠のない、私の直感だったかもしれない。
でも、結果が全てだ。
目の前で、レオンは世界一幸せそうな顔で、パパの服をよだれで汚している。
クラウス様は呆然としていたが、やがて恐る恐る、レオンの背中に手を回した。
温かい。
柔らかい。
そして、静かだ。
「……レオン」
彼の目から、涙が溢れ出した。
一滴、二滴と零れ落ち、レオンの銀髪を濡らす。
「ごめんな……怖がって、ごめん……」
彼は息子を抱きしめ、嗚咽を漏らした。
長い間、彼の中に巣食っていた「孤独な少年」が、ようやく成仏した瞬間だった。
私はため息をつき、その隣に座った。
やれやれ、手のかかる長男だこと。
「分かったら、部屋に戻りますよ。ここは寝心地が悪そうです」
「……ああ。帰ろう」
クラウス様が涙を拭い、立ち上がった。
その腕には、しっかりとレオンが抱かれている。
もう、離さないという意志を感じた。
私たちは執務室を出た。
廊下で待機していた騎士たちが、さりげなくガッツポーズをしているのが見えた。
夜はまだ明けていない。
二度寝には十分な時間が残されている。
三人で寝れば、どんな悪夢も怖くない。
それを証明するための実験は、大成功に終わったようだ。




