第4話 小さな氷河期
(……室内で雪見酒というのも、オツなものかもしれません)
現実逃避気味にそんなことを考えながら、私は目の前の非現実的な光景を見つめていた。
場所は子供部屋。
時間は午後のおやつの時間。
しかし、室内の環境は真冬の雪山そのものだった。
天井付近に発生した小さな雨雲のような魔力塊から、さらさらと白い粉雪が降り注いでいる。
床にはうっすらと雪が積もり、ベビーベッドの柵は霜で白く凍りついていた。
吐く息が白い。
室温は間違いなく氷点下だ。
「うあ……あうぅ……」
その吹雪の中心で、レオンが顔を真っ赤にして泣きじゃくっていた。
彼が声を上げるたびに、雪の勢いが増す。
寒さと、自分の中から溢れ出す制御不能な力への恐怖。
小さな体は震え、どうしていいか分からずに助けを求めている。
「……魔力回路の拡大痛、いわゆる『魔力の成長痛』ですな」
厚手のコートを着込んだ侍医長が、震える手で診断結果を告げた。
「レオン様の魔力量が急激に増大し、未発達な体の器が悲鳴を上げているのです。溢れた魔力が周囲の熱を奪い、雪となって結晶化しています」
「病気ではないのですね?」
「はい。極めて稀ですが、強大な魔力を持つ王族には見られる現象です。……ただ、これほどの規模は記録にありませんが」
侍医長は言葉を濁し、部屋の隅で立ち尽くす人物をチラリと見た。
クラウス様だ。
彼は顔面蒼白で、唇を噛み締め、身動き一つせずにレオンを見つめている。
その姿は、まるで彫像のように硬直していた。
彼には分かっているのだ。
この現象が何を意味するのか。
そして、この先に待っている苦しみがどれほどのものか。
(……しっかりしなさい、ミズキ)
私は自分に喝を入れた。
ここで私が動揺すれば、レオンはもっと不安になる。
母親がどっしり構えていなくてどうする。
「マリア、暖炉に薪をくべて。特大サイズでね」
私はショールを羽織り直し、毅然と指示を出した。
「それから、ホットミルクと毛布を。……ただの雪よ。温めれば溶けるわ」
私は躊躇なく、吹雪の中へと足を踏み入れた。
肌を刺す冷気。
魔力の乱気流が、私を拒絶するように吹き荒れる。
けれど、私は止まらない。
「レオン、寒かったわね。ごめんね」
ベビーベッドに手を伸ばし、泣き叫ぶ息子を抱き上げる。
冷え切った小さな体。
私の腕の中で、彼はビクリと震え、一層激しく泣いた。
同時に、私の体の中にある「鎮静」の魔力が共鳴する。
彼の暴れる魔力を、私の魔力が優しく包み込み、中和していく感覚。
雪が、雨に変わり、やがて止んだ。
「……よしよし。大丈夫よ、ママがいるわ」
私は自分の体温を伝えるように、彼を強く抱きしめた。
レオンの泣き声が次第に弱まり、ヒック、ヒックというしゃくり上げに変わる。
部屋の温度が少しずつ戻ってきた。
「……ミズキ」
背後から、掠れた声が聞こえた。
振り返ると、クラウス様が悲痛な面持ちで立っていた。
彼は私に近づこうとはしなかった。
越えられない線がそこにあるかのように、部屋の入り口で足を止めている。
「……私のせいだ」
彼が呻く。
「私の血が、あの子を苦しめている。……魔力過多症だ。あの子も、私と同じ地獄を歩むことになる」
彼の瞳には、深い絶望が宿っていた。
かつて彼が味わった孤独。
誰にも触れられず、誰をも傷つけてしまう恐怖。
愛する息子に、その呪いを継承させてしまったという罪悪感が、彼を押し潰そうとしている。
「違います、クラウス様。これは成長の証です。才能です」
「才能? これは呪いだ!」
彼が叫んだ。
その声に、落ち着きかけていたレオンが再び火がついたように泣き出した。
パチパチと、空中に霜が発生する。
「見ろ、私の声に反応して怯えている。……私が近くにいるだけで、あの子の魔力は共鳴し、暴走を誘発するんだ」
クラウス様は後退った。
逃げようとしている。
レオンから、そして自分自身の過去から。
「待ってください! どこへ行くんですか!」
「……執務室だ。今夜はそこで寝る」
「クラウス様!」
私が呼び止める声も虚しく、彼は背を向け、逃げるように部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる音が、酷く冷たく響いた。
残されたのは、私と、泣き止まないレオン。
そして、溶け出した雪の水溜まりだけ。
「……馬鹿な人」
私はレオンをあやしながら、悔しさに唇を噛んだ。
彼は勘違いしている。
レオンが泣いたのは、彼が怖かったからじゃない。
パパの悲しそうな顔を見て、不安になったからだ。
この子は、私たちの子だ。
魔力が強かろうが、雪を降らせようが、愛すべき我が子に変わりはない。
それなのに、彼は勝手に絶望し、勝手に孤独になろうとしている。
「……許しませんよ」
私は呟いた。
レオンの背中をトントンと叩きながら、決意を固める。
この子は、かつてのクラウス様とは違う。
一人ぼっちじゃない。
私がいる。
そして、何よりクラウス様自身がいるではないか。
魔力過多の苦しみを知り、それを乗り越えた彼こそが、レオンの一番の理解者になれるはずなのに。
恐怖で目隠しをして、一番大切な役割を放棄しようとしている。
そんなことはさせない。
私は安眠を守る女だ。
夫が一人で枕を濡らす夜なんて、私の管理下では認められない。
レオンがようやく泣き止み、私の胸で寝息を立て始めた。
その寝顔は天使のように無垢だ。
指先から散る小さな氷の粒さえ、キラキラと輝いて綺麗に見える。
私はマリアを呼んだ。
「レオンをお願い。……私は、少し夫を教育してきます」
「えっ? あ、はい。……ご武運を」
マリアが察して、レオンを受け取る。
私はショールを脱ぎ捨て、腕まくりをした。
これは夫婦喧嘩ではない。
業務改善命令だ。
育児放棄未遂の夫に対し、家族としての在り方を叩き込む必要がある。
私は足音荒く、執務室へと向かった。
廊下ですれ違う騎士たちが、私の鬼気迫る表情を見て、慌てて道を開ける。
待っていなさい、クラウス様。
あなたが閉ざした心の扉ごと、蹴破って差し上げますから。




