第3話 最強のベビーシッター
離宮のサロンは、色とりどりの光と笑い声で満たされていた。
テーブルの上には、アデルバート皇帝が持ち込んだ北方の珍味に加え、ソフィア王女が持参した洗練された菓子や美酒が並んでいる。
そして、部屋の一角を占拠しているのは、山のように積まれたプレゼントの箱だった。
「さあレオン様、おばさまからの贈り物よ。これは『自動浮遊積み木』、こちらは『三ヶ国語対応・英才教育絵本』、そしてこれが目玉商品の『魔力感知式ガラガラ』よ!」
ソフィアが目を輝かせながら、次々と箱を開けていく。
ベビーチェアに座らされたレオンは、目の前で繰り広げられる不思議な光景に、キャッキャと声を上げて喜んでいた。
「……ソフィア。ありがたいが、生後半年の赤子に英才教育は早すぎないか?」
「あらクラウス陛下。天才は早期教育で作られるものですわ。レオン様には将来、スノーランドへの留学も検討していただきたいですし」
「断る。レオンは手放さない」
クラウス様が即答し、ソフィアが扇子で口元を隠して笑う。
その様子を、アデルバートが酒杯を片手に楽しげに眺めている。
「平和だな。……数年前には考えられん光景だ」
「ええ。皆様のおかげですわ」
私は微笑み、アデルバートのグラスに酒を注ぎ足した。
かつて敵対し、殺し合い寸前だった者たちが、今はこうして一つのテーブルを囲み、子供の成長を祝っている。
これこそが、私たちが勝ち取った「次世代の平和」の形だ。
レオンがソフィアから渡されたガラガラを振り回す。
シャン、シャン、と涼やかな音が鳴るたびに、ガラガラの先端が淡く発光する。
魔力に反応して色が変わる仕組みらしい。
「青、緑、赤……。まあ、綺麗な虹色。やはりレオン様の魔力は豊かですわね」
「ああ。将来は私を超える魔術師になるだろう。……あるいは、最強の商売人か」
クラウス様が冗談めかして言うと、全員がどっと笑った。
幸せな時間。
何もかもが順調で、完璧な夜。
――異変は、唐突に訪れた。
「あー……うー……」
レオンの機嫌が、急降下した。
笑顔が消え、眉間に小さな皺が寄る。
眠いのだろうか。それともオムツだろうか。
いつものぐずりだと思い、私は席を立った。
「あらあら、疲れちゃったのかしら。そろそろ寝んねの時間ですね」
私がレオンに近づこうとした、その時。
ヒュゥゥゥ……。
室内の空気が、一瞬で冷え込んだ。
物理的な冷気だ。
テーブルの上の料理から湯気が消え、ワイングラスの表面に霜が走る。
暖炉の火が、見えない圧力に押されるように小さくなった。
「……なんだ?」
アデルバートが鋭い目つきで周囲を見回す。
ソフィアも扇子を閉じ、身構えた。
敵襲?
いいえ、違う。
この冷気の発生源は、私の目の前。
「……あうぅぅぅ!」
レオンだ。
彼がぐずる声に合わせて、冷気が波紋のように広がっている。
泣き声の代わりに、魔力を放出しているのだ。
「レオン、どうしたの? よしよし、ママですよ」
私は慌てず、彼を抱き上げようと手を伸ばした。
いつものように、私の「鎮静」の魔力で包み込んであげれば、すぐに落ち着くはずだ。
そう信じていた。
バチッ!!
指先が触れる直前、静電気のような衝撃が走った。
弾かれた。
私の手が、見えない壁に拒絶されたように押し戻される。
「え……?」
私は呆然と自分の手を見た。
そんなはずはない。
私の魔力は「鎮静」。あらゆる魔力を中和し、受け入れる性質のはずだ。
それが、我が子に拒絶されるなんて。
「ミズキ、離れろ!」
背後から、クラウス様の悲鳴のような声が響いた。
振り返ると、彼は顔面蒼白で、椅子を倒す勢いで立ち上がっていた。
その目は、レオンを見ていない。
レオンの背後に重なる「何か」――おそらくは過去の自分自身の影を見ているようだった。
「クラウス様? ただの寝ぐずりです、大丈夫です」
「違う! それは……暴走の前兆だ!」
彼が叫んだ瞬間、レオンが大きく息を吸い込んだ。
くしゃみが出る。
「……くちゅっ!」
可愛らしい音。
しかし、引き起こされた現象は可愛くなかった。
カアァァン!!
衝撃波が炸裂した。
サロンの窓ガラスが、一斉に粉砕される。
飛び散る破片。
吹き荒れる吹雪のような魔力風。
「結界!」
私とクラウス様の声が重なった。
二重の防御結界が瞬時に展開され、室内の全員をガラスの破片から守る。
アデルバートとソフィアも、手慣れた様子で身を守っていた。
ガラガラと音を立てて崩れ落ちる窓の残骸。
吹き込む夜風。
そして、静寂。
レオンは、何事もなかったかのように鼻をすすると、きょとんとした顔で周囲を見回した。
自分のしたことが分かっていないのだ。
「……おいおい。くしゃみ一つでこれか」
アデルバートが、頬に付いた霜を拭いながら、乾いた笑い声を上げた。
ソフィアも顔を引きつらせている。
「強力な魔力だとは聞いていましたけれど……これほどとは」
私は震える足で、レオンに近づいた。
今度は弾かれなかった。
抱き上げると、彼は温かく、いつもの柔らかな赤ちゃんの匂いがした。
怪我はない。
彼自身は、自分の魔力に守られて無傷だ。
「……ごめんなさい、皆様。驚かせてしまって」
「いや、構わん。退屈しのぎにはなった」
「ええ、怪我人が出なくて何よりですわ」
二人は努めて明るく振る舞ってくれた。
けれど、一人だけ、笑っていない人物がいた。
クラウス様だ。
彼は部屋の隅で、壁に手をついて荒い息を吐いていた。
その視線は、私の腕の中にいるレオンに固定されている。
まるで、恐ろしい怪物を見るような目で。
「……クラウス様?」
「……近寄らないでくれ」
彼が呻くように言った。
「私の血だ。私の呪われた血が、あの子に継承されてしまったんだ」
絶望の色が、彼の青い瞳を塗りつぶしていく。
かつて彼が恐れていた悪夢が、現実のものとなって目の前に現れたのだ。
愛する息子が、自分と同じ「魔力過多」の苦しみを背負うという未来。
私はレオンを強く抱きしめた。
違う。
この子は呪われてなんかいない。
ただ、少し力が強すぎるだけ。
私たちが守って、導いてあげればいいだけのこと。
そう言おうとしたけれど、クラウス様の拒絶のオーラがあまりに強くて、言葉が喉に詰まった。
楽しい夜会は、砕け散った窓ガラスと共に終わってしまった。
残されたのは、寒風と、家族の間に走った亀裂だけ。
レオンが、不思議そうにパパの方へ手を伸ばす。
その手は、届かなかった。
クラウス様が、背を向けて部屋を出て行ってしまったからだ。




