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【最終章開始!】婚約破棄? 知りません。睡眠の方が大事です! ~復讐は不眠症王太子に丸投げして、離宮で抱き枕生活はじめます~  作者: 月雅
第3章

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第8話 産声



 シーツを握りしめる指が、白くなるほど力を込めた。


「いぃぃぃっ……たい! 無理! もう無理です!」


 砦の一室に、私の絶叫が響き渡る。

 そこは本来、殺風景な司令官室だった場所だ。

 しかし今は、十重二十重に張られた浄化結界と、王都から転移ゲートで運び込まれた大量の医療器具によって、即席ながらも最高水準の分娩室へと変貌していた。


「妃殿下、呼吸を! 吸って、吐いて!」

「落ち着いてください、ミズキ様! もう少しです!」


 侍医長とマリアの声が、遠くから聞こえるようだ。

 腰が割れるような痛み。

 内側から焼けるような熱。

 皇帝の魔力嵐など比較にならない、生命の奔流が私を飲み込もうとしている。


「辞めます! 私、王妃を辞職します! こんなブラックな職場、聞いてません!」


 痛みのあまり、口から出るのは支離滅裂な言葉ばかり。

 元社畜の魂が、限界を超えたストレスに対して「退職」という逃避を叫ばせているらしい。


「すまない、ミズキ! 私が悪かった! だから頑張ってくれ!」


 枕元で、クラウス様が私の手を握りしめている。

 その顔は死人のように蒼白で、額には玉のような脂汗が浮かんでいる。

 世界最強の魔術師であり、先ほど皇帝の暴走を止めた英雄王。

 だというのに、今の彼はただの無力な夫だった。


「代わってやりたい……! この痛みを、すべて私が引き受けられたら……!」

「邪魔です! うるさい! 手を握るならもっと強く!」

「は、はいっ!」


 私が怒鳴ると、彼はビクリと震えて、骨が軋むほどの力で握り返してきた。

 痛い。

 でも、その痛みが、今の私を現実に繋ぎ止めてくれる唯一の命綱だった。


「しっかりなさい、二人とも!」


 凛とした声が、パニックになりかけた空気を引き締める。

 部屋の隅で腕を組み、的確に魔導師たちへ指示を出しているのは、ソフィア王女だ。

 彼女は皇帝との交渉成立を見届けた後、即座に転移ゲートを開き、王都から医療団を呼び寄せてくれたのだ。


「男なら、妻が命懸けで戦っている時にメソメソしない! ミズキ、あなたも弱音を吐く暇があったら呼吸を整えなさい! その子はあなたの子よ、あなたより弱いわけがないわ!」


 厳しい言葉。

 でも、そのおかげで頭が少し冷えた。

 そうだ。

 私は母親になるのだ。

 お腹の中で、私と一緒に戦ってくれた強い子を、この世界に迎え入れるのだ。


 ズキン、と最大級の痛みの波が押し寄せる。


「……くっ!」


 歯を食いしばる。

 逃げない。

 この痛みの先に、会いたい人がいる。


「頭が見えました! 次の波でいきましょう!」


 侍医長が叫んだ。

 次。

 これで最後だ。


「クラウス様……!」

「ここにいる。ずっと、ここにいる!」


 彼は私の汗ばんだ髪を撫で、額を合わせてきた。

 震えている。

 泣いているのかもしれない。

 私を失う恐怖と、新しい命への畏怖で。


 大丈夫。

 私はあなたを置いていったりしない。

 三人で寝るという約束を、破るわけがないでしょう。


 私は大きく息を吸い込んだ。

 体中の魔力を、生命力を、すべて下腹部の一点に集中させる。


 安眠のための戦い?

 いいえ、これは「目覚め」のための戦いだ。

 新しい家族との、騒がしくて愛おしい日々を始めるための。


「……んんんーーーっ!!」


 声を絞り出し、全身の力を込めていきむ。

 世界が白く弾けた。

 体から何かが抜け落ちる感覚。

 熱い塊が、外の世界へと滑り出していく。


 一瞬の静寂。

 そして。


「オギャアアアアアアッ!!」


 力強い泣き声が、砦の石壁を震わせた。

 それは、どんな魔獣の咆哮よりも、どんな美しい音楽よりも、私の心臓を激しく揺さぶる音だった。


「……生まれた」


 侍医長が、白い布に包まれた小さな塊を抱き上げる。

 赤くて、くしゃくしゃで、一生懸命に手足を動かしている。


「元気な男の子です! おめでとうございます、陛下、妃殿下!」


 歓声が上がる。

 マリアが泣きながらタオルを用意し、ソフィア王女が安堵のため息をついて壁にもたれかかるのが見えた。


 私の体から、力が抜けていく。

 泥のように重いけれど、羽根のように軽い。

 終わった。

 本当に、終わったのだ。


「……ミズキ」


 クラウス様が、侍医長から我が子を受け取った。

 恐る恐る、壊れ物を扱うように慎重に。

 そして、私の顔の横に、その小さな命を近づけてくれた。


「見てくれ。……私たちの、赤ちゃんだ」


 彼の頬を涙が伝い、赤ちゃんの頬に落ちる。

 赤ちゃんは、まぶしそうに目を細め、そして小さくあくびをした。


「……ふふ」


 私は笑ってしまった。

 生まれた瞬間からあくびだなんて。

 やっぱり、私の子だ。


「こんにちは、赤ちゃん。……パパと、ママですよ」


 指先で、その柔らかな頬に触れる。

 温かい。

 命の温度だ。

 この温もりを守るために、私たちは戦ってきたのだ。


 窓の外から、兵士たちのときの声が聞こえてくる。

 新しい王子の誕生を祝う声だ。

 それは国境を越え、撤退していく帝国軍の背中にも届くだろう。

 戦いの終わりと、希望の始まりを告げる合図として。


「ありがとう、ミズキ。……愛している」

「私もです。……でも今は、愛の言葉より、お水が欲しいです」


 私が掠れた声でねだると、クラウス様は泣き笑いの顔で、急いで水差しに手を伸ばした。


 最高に痛くて、最高に幸せな一日。

 私の長かった戦いは、これにてようやく、本当の「店仕舞い」を迎えたようだ。


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