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1/2

前半

私の名前は、セシリア゠レルネ。しがない子爵家の娘だ。

その日は、婚約者と顔を合わせるために伯爵家を訪れていた。


春の訪れを告げる庭園は、満開の花々と柔らかな陽光に包まれていた。風が吹くたびに、薄桃色の花びらがひらひらと舞い落ち、まるで天から零れる祝福の雨のように降り注いでいた。


そんな美しさの中で、私は――未来の夫となる方(すきなひと)に、初めて出会った。


「レオン、挨拶なさい。将来、お前の妻になる人だよ」


伯爵様の声に振り返ったその方の姿を見て、私は息を呑んだ。

そこに立っていたのは、陽光に照らされる金糸の髪と、凛とした蒼の瞳を持つ少年――絵画から抜け出した天使のように綺麗な子供だった。


思わず胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

足元がすくみ、視線を合わせることができず、ただ両手を胸元で握りしめるしかなかった。


「……あの……は、初めまして……れ、レオン様……」


声は震え、掠れてしまった。それでも、伝えたい想いを込めて絞り出した。

彼の蒼い瞳がこちらを見た瞬間、雷に打たれたように心臓が止まりそうになった。


「はじめまして、セシリア嬢。僕がレオンだ。今日から、よろしく」


少年の唇がそっと弧を描いた瞬間、まるで花弁が朝露に開いたように、誰もが目を離せない美しさを秘めていた。

その微笑みに、私は完全に心を奪われた。胸の奥で小さな鐘が鳴り響く。


(――なんて、綺麗な人……)


ひゅっと息を呑み、呆けたように見つめてしまった私は、はっとして視線を逸らす。耳まで真っ赤に染まっていくのが自分でも分かり、恥ずかしさにうつむいた。


「よ、よろし……く、お願いいたします……っ」


少しでも良く思われたくて、私は手のひらをぎゅっと握りしめ、視線を逸らしつつも必死に笑顔を作った。

けれど、双方の両親が立ち去り二人きりなると、レオン様は先ほどとは打って変わり冷たい態度を取った。


「……はあ。お前みたいな地味な子が、僕の婚約者とはね。親の決めたことだから仕方ないけど」


軽く吐き捨てられたその言葉は、冗談めかしているようでいて、鋭い刃となって胸に突き刺さった。

笑おうとすればするほど、心が軋む。


(やっぱり……そうよね。そう思われても仕方ない……)


鏡に映すまでもなく分かる。

無難な茶色の髪と瞳、目立たない容姿。美しい彼とは釣り合わないと、誰が見ても思うだろう。

それでも、少しでも良く思われたくて、必死に笑顔を作りながら深く頭を下げた。


「……はい、わたしも、分不相応だとは思ってます。けど、精一杯、釣り合うよう頑張りますので」


「そう。……期待はしないでおくよ」


その瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。

けれど同時に、不思議と心の奥底で燃えるものがあった。


(この婚約は歓迎されていない。

でも、私は……この人を、好きになってしまった)


どうしようもない想いを抱えたまま、私は彼の婚約者として歩み始めるしかなかった。


***


婚約から幾年かが過ぎ、私たちはそろって学園に通うようになった。

そこは、美しい令嬢や才気あふれる若者たちが集う、きらびやかな世界。

舞踏会の話題や流行の装い、家同士の思惑が入り乱れ、絶えず誰かの噂が飛び交っている。そんな場所である。


伯爵家の嫡男であるレオン様は、自然と人々の視線の中心にいた。

学問でも剣術でも常に優秀だった。加えて、誰もが振り返るほど整ったお顔立ちは、称賛も羨望も絶え間なく注がれていた。


一方の私はといえば、どうしても地味に映ったに違いない。控えめな装いに、目立たぬ物腰。着飾っても、逆に浮いて見えてしまった。

華やかな輪の中に入ることもできず、せいぜい一歩引いて微笑むのが精いっぱい。


「あの方がレオン様?素敵な殿方ね」

「あんな地味な子爵令嬢が婚約者なの?」


そんな声が耳に届いたのも、一度や二度ではなかった。

けれど、どれほど嘲笑の視線を浴びても、ただ一途にレオン様を慕い続けた。


相変わらずレオン様は冷たいままだった。

それでも、誰に何と言われようと、私はレオン様の婚約者だ。形だけでも、その立場が与えられているのなら……婚約者らしく過ごしてみたい。

その願いが、どうしても胸の奥から消えてくれない。


そして――その日。

私は、思い切って、デートにお誘いしたのだ。


「……レオン様、あの……新しくできたカフェに、一緒に行きませんか……?」


声が震えていないか、不安だった。

胸の奥がどくどくと波打ち、喉が乾く。

それでも――ただ二人で歩きたくて。

ただ少し、彼と笑い合いたくて。


亜麻色の瞳で必死に見上げた。

どうか、頷いてくださいますように――そう祈りながら。


けれど返ってきたのは、ため息混じりの冷たい声だった。


「悪いけど、暇じゃないんだ。君みたいに、やることがないわけじゃないからさ」


――胸の奥が、ぎゅっと握り潰されたように痛んだ。


「……そう、ですよね。私、出すぎた真似を……」


言葉を絞り出すのが精一杯だった。

俯いた視界の端で、彼が振り返ることなく歩き去っていく。


肩が震える。

情けない。泣きそうな顔を見せたくないのに。


(馬鹿ね、わたし……デートのお誘いなんて止せばよかったのに……)


私は形だけの婚約者なんから。

それでも――心は彼を追いかけてしまう。

どんなに拒まれても、諦めることなんてできない。


(レオン様……私は、ずっと……)


言葉にならない思いを胸に押し込めながら、私は小さな歩幅でその背中を追った。


***


学園では最近、意中の相手に手作りのお菓子を渡すのが流行しているらしい。


平民の間では昔から恋人に手作りの菓子を贈るのは当然の風習だという。それを真似て、貴族の令嬢たちも婚約者へと「手作りのお菓子」を渡すのが一つのブームになっているのだそうだ。


その噂を耳にした瞬間、胸の奥が妙にざわめいた。


(……私も、レオン様に……)


菓子作りは得意でもない。

むしろ、料理なんて一度もしたことがない。貴族の令嬢なのだから当然だ。

けれど、彼の婚約者として、誰よりも心を込めたものを差し出したい。そう思った。


私はさっそく家の厨房を借りて、人生で初めてのクッキー作りに挑戦することにした。


「えっと……砂糖は、これぐらい……?」


本を片手に材料を量り、卵を割る。だが殻は中に落ち、卵液は手にまとわりつき、何度も失敗しては溜息をつく。

ようやく生地らしいものを完成させ、粉をこねはじめた。


(大丈夫、大丈夫……わたしにも、きっとできる)


自分を励ましながら、今度は包丁を手に取る。生地に混ぜるための果実を刻もうと、指先に力を込めたその瞬間――。


「あっ……!」


鋭い痛みが走り、手元から赤が滲み出した。


「……っ、いた……」


慣れない包丁仕事で、ざっくりと指を切ってしまった。血が生地に入ってしまえば不衛生だ。慌てて作業を中断し、手当てをする。メイドが心配そうに止めようとしたが、私は首を横に振った。


「大丈夫……少しの怪我よ」


手作りのお菓子を贈りたいという気持ちは消えず、再び包丁を握る。果実を切り終え、生地に混ぜ、震える腕でどうにか形を整えていく。


オーブンの中でクッキーが焼ける香りが広がりはじめたとき、涙でにじんだ視界の中に、わずかな希望が灯った。


(これで……少しでも、レオン様が喜んでくださるなら……)


熱い鉄板を布越しに取り出し、並んだ焼き菓子を見つめる。

形はいびつで、焦げた部分もある。けれど、それは間違いなく自分の両手で作り上げた証だった。


指先がずきずきと痛むけど、私は小さく笑った。


「……できた……」


試しに一口、味見をしてみる。


「しょっ……っぱい!?」


舌に広がったのは甘みではなく、思わず涙が出そうな塩辛さ。砂糖と塩を間違えて入れてしまったのだと気づいた。

せっかく焼き上げたクッキーだったけれど、これではとてもプレゼントできない。惜しみながら、処分する。

けれど、贈ることそのものを諦めることはなかった。私は何度も失敗を繰り返しながら、クッキー作りに挑戦した。


そして、ようやく完成したクッキー。

不器用ながらも心を込めてラッピングし、淡い色のリボンを結んだ。

包帯の上から小さな袋を抱きしめ、胸にぎゅっと押し当てる。

彼に渡すその瞬間を思い浮かべると、不安も痛みもかすかに和らいでいった。


そして、翌日。

昼下がりの学園の食堂は、今日も変わらず華やかなざわめきに包まれていた。

煌びやかな声と笑いが飛び交い、令嬢たちのドレスが陽光を受けて淡く光る。

そんな賑わいの中で、私は両手に小さな袋を抱え、胸の奥を必死に押さえながら彼の元へと歩み寄った。


(レオン様……喜んでくれるかしら)


私は深く息を吸い、彼の前に立つと、思いきって袋を差し出した。


「……レオン様、その……あの……」


胸の鼓動が耳の奥で響く。指先はまだ、慣れない包丁で刻んだときの小さな傷跡が残っていた。

けれど、その痛みさえ誇らしい。すべては、彼のために。


「レオン様、その……クッキーを、お作りしました。その……もし、良かったら……」


声が震えている。恥ずかしさと期待とで、喉がうまく動かない。

けれど返ってきたのは、微笑みでも労いでもなく、ため息まじりの冷ややかな言葉だった。


「手作り?ああ……君、菓子が得意なんだっけ?」


「いえ、まだまだ修行中ですが、でも……がんばって……」


一瞬でも「ありがとう」と言っていただけるかと思っていた私の心に、冷たい風が吹き込む。

それでも、必死に笑みを繕った。


けれど続いたのは、もっと鋭い言葉だった。


「……そうか。だったら、他の誰かに味見してもらったほうがよくない?」


胸がきゅっと縮む。握っていた指先が震え、思わず目を伏せる。


「……っ」


それでも、すぐに「はい……」と答えてしまう。

拒絶されたのに、なお彼を失望させまいとする自分が惨めでならなかった。


「それにさ、平民の真似事をするよりも、もっと頑張るべきことがあるんじゃない?」


追い打ちのような言葉。

けれど私は、小さく頭を下げるしかなかった。


「っはい……。私、レオン様のご負担にならぬよう、努力しますから。どうか、今後もご指導を……っ」


精一杯の声も、虚しく食堂のざわめきに飲まれていく。


胸に抱えたクッキーの包みは、受け取られることなく私の手の中に残された。

リボンが少しだけ揺れ、その結び目が涙のように滲んで見えた。


私は俯いたまま、そっと席を立つ。

足取りは重く、それでも誰にも気づかれぬよう、静かに食堂を後にした。


(どうして……こんなに冷たくされても、嫌いになれないんだろう)


心の奥に問いかけながら。


***


また、別の時。


私は夜会に出掛けた。

本来なら、婚約者であるレオン様も一緒のはずだった。けれど、彼は「用事がある」と言って迎えには来なかった。

仕方なく、私は一人で馬車に乗り込む。


夜会の会場は、柔らかな燭光とシャンデリアの煌めきに包まれていた。

花園に咲き誇る花々のように、令嬢たちのドレスが揺れ、銀のトレーやグラスが触れ合う音が微かに響く。

華やかで、けれどどこか自分には眩しすぎる世界。

婚約者や付き添いが隣にいない令嬢は珍しく、周囲の視線が自然と私に集まる。


「あら、あの子……レオン様の婚約者である令嬢じゃなくて?」

「ふふ……今夜は一人なのね」


囁きが背中に刺さる。心臓が小さく締め付けられ、肩が震えるのを必死に押さえた。

その中心には、迎えに来られないと言っていた彼が、誰かと笑って立っているのが見えた。


「レオン様って、本当にかっこいいわ」


私の耳に届いたその言葉に、胸がひゅっと縮まる。

彼の顔が微笑むのを、横で誰かが横槍を入れる。


「そいつ、婚約者持ちですから。フリーの僕にした方がいいですよ!」


レオン様は数人の令嬢を隣に侍らせて笑っていた。


「まあ、婚約者はいるけど……。その子、地味な子でさ。でも親が決めた相手だから仕方なくね」


親が決めた婚約だから仕方なく――

耳に刺さる言葉。痛い。胸の奥がきりりと締め付けられる。

でも、顔を上げるわけにはいかない。

唇を噛み、肩をそっと震わせながら、視線を床に落とす。


「あらまあ、お可哀そうに……」

「君みたいな美しい人だったら、どれだけ良かったか」


会話の声が、遠くで反響する。

胸が痛む。泣きたくなるけれど、泣いてはいけない。


手に持ったグラスが、ほんのわずか傾く。

でも落としてしまったら、人の目を引いてしまい、それこそ彼に迷惑をかけてしまう。

必死に握り直し、そっと顔を俯ける。

唇を噛み締め、頬を赤く染めながら、涙を必死に堪える。


心臓は早鐘のように打ち、呼吸は小刻みに揺れる。

肩の震えも、胸の奥で動く鼓動も、痛みを押し殺す証。

不釣り合いだってわかっていたでしょう――そう思い込もうとするけれど、心は痛くて震えている。


俯いたまま、顔を上げられない。

自分でも知らないうちに、胸の奥に熱い何かがこみ上げる。

彼の視線が私に注がれているかもしれない、という思いだけで、胸が張り裂けそうだ。


それでも私は黙ったまま。

痛みも悔しさも、全て押し殺して、私は彼を見つめ続けることしかできなかった。


ざわめきの中、私に向けられる視線は、先ほどよりもさらに鋭く、冷たく感じられた。

レオン様に心を寄せる令嬢たちの笑い声が、私の耳に刺さる。


「まあ、あの子がレオン様の婚約者なの?……とても信じられないわ」

「せめて、もっと華やかで優雅な子なら納得も出来たのに」


胸が締め付けられる。言葉を返す勇気はなく、ただ俯いたまま、肩を小刻みに震わせるだけだった。

手に持ったグラスをぎゅっと握り、指先に力を込める。痛みを押し殺すようにして、涙を必死に堪える。


「別に優秀っていう訳でもないんでしょう?レオン様には不釣り合いよ」

「レオン様が優しいからって、婚約者の座にしがみつくなんて……みっともないわ」


囁きと嘲笑が、私の心を静かに削っていく。

誰も理解してくれない。

周囲は煌びやかで、華やかで、私には手の届かない世界――

その中で、私は一人、孤立している。


レオン様は、私に気付かずに、他の令嬢たちと楽しそうに会話を交わしている。

心の奥で小さく刺さる痛みを必死に押し殺し、俯いたまま、ただ彼を見つめ続ける。

――私は、ただ彼のそばにいられれば、それでよかったはずなのに。


夜会が始まったばかりにも関わらず、私は誰とも言葉を交わさぬまま、静かに会場を後にした。

賑わいの余韻が背中に遠ざかり、外の冷たい夜気が頬を撫でる。煌びやかな光の海を抜け出すと、たちまち孤独の冷たさが肌に沁みた。


待っていたのは、往きと同じ、私一人の馬車。

車輪の軋む音が夜の石畳に響き、街の明かりが窓越しに流れてゆく。

胸の奥に溜まっていた痛みが、今になって静かに滲み出してきた。


――レオン様。


会場で、誰かと笑い合う姿を見たとき。

遠くにいるのに、手の届かない光のように見えた。

彼の傍に並ぶには、私では不釣り合いなのだと、嫌というほど突きつけられた。


好き。

その気持ちは、幼い頃から変わらなかった。

どんなに冷たくされても、笑われても、心は彼に縛られていた。


でも――。


涙が頬を伝い、手の甲で拭っても次々と零れる。

胸が痛くて苦しくて、それでも、決して嫌いになれないから。

だからこそ、この想いを続けるのは、もう終わりにしなければならない。


「……婚約を、破棄しよう」


声に出すと、夜の静けさに吸い込まれていった。

震える唇からこぼれたその言葉は、まるで誓いのように胸に刻みつけられる。


思えば幼い頃から、私は彼を追いかけてきた。笑顔ひとつで世界が光るように感じた日々。

だけど、その光はいつしか私を蝕むようになって――


レオン様を好きでいることは辛くて、悲しくて。もう耐えられそうになかった。

ならば――私は、彼の隣を去らなければ。


車窓の外に広がる星々が、にじんで揺れていた。

それでも私は、拳を握りしめて目を閉じる。

泣き疲れて眠ってしまっても、この決意だけは、きっと消えない。


***


翌朝、私は勇気を振り絞り、両親に婚約の破棄について話を切り出した。

緊張で喉がからからに渇き、言葉は震えていたけれど、それでも心に決めた想いを伝えたのだ。


けれど返ってきたのは、予想以上に冷たい声だった。


「……はあ?レオン君の婚約を破棄したいだと?」


父の太い声が応接間に響き渡る。

赤く磨かれた机の上に置かれた手が、苛立たしげに打ち鳴らされた。


「何を馬鹿なことを言う。あれほどの完璧な男が、婚約者としてお前を選んでくれているんだぞ!家の格も、財も、人柄も、すべて申し分ない。何が不満だ!」


「で、でも……婚約してからずっと冷たくされて……夜会にだって同伴してくださらないから、みんなの笑いものに……」


言いかけた私の言葉を、母のため息がかき消した。


「これは家同士の契約なの。あなた一人の感情で破棄できる事ではないわ」


冷たい視線が私を射抜く。まるで我が子を見るのではなく、駒のひとつを見るような眼差し。


「家同士の事業の為に結ばれた婚約なんだぞ。そもそも、お前には勿体なさすぎる相手だと言うのに……」


父はなおも言葉を重ねた。


「婚約破棄だなんて、そんな身の程知らずのことを口にするな!二度とだ!」


耳に焼きつく怒号。私は唇を強く噛み締め、血の味が広がる。必死に反論の言葉を探すのに、喉は固く閉ざされ、何ひとつ声にできない。


(……あぁ、どれほど伝えようとしても、この人たちには届かないのだ)


胸を締めつける痛みも、夜会でひとりきりにされたあの孤独も、両親には理解されることはない。

ぐっと俯いた私の目に、絨毯の模様がにじんで揺れた。

両親に愛されていると思っていたのに。この人達にとって、私はただ家を繋ぐ手段でしかなく、ひとりの娘の心は見てもらえないのだと、思い知らされた。


ならば、レオン様に……。

両親が認めてくれないなら、彼自身から「婚約破棄」を望んでいただくしかない。レオン様も私との婚約に辟易しているのなら、きっと説得は難しくないはずだ。


数日後、学院の回廊にて。

私は勇気を振り絞り、レオン様を呼び止めた。陽の差す回廊、窓越しに見える庭の緑が鮮やかに揺れている。

けれど胸の奥は、嵐のように騒いでいた。


「……レオン様、私……お話ししたいことがございます」


振り返った彼の横顔は、相変わらず整っていて、思わず心臓が締め付けられる。

けれど私は唇を噛み、震える声で言葉を紡いだ。


「……私との婚約を……破棄していただきたいのです」


その瞬間、レオン様の表情は驚きに揺れ、すぐに嘲笑に変わった。


「……は?婚約破棄?」


軽くため息を吐き、額に手を当てる。


「まったく……セシリア、君はそんなことまで言い出すのか」


「わ、私は真剣です。話を聞いて――」


「気を引きたいのか?」


レオン様の声が、ぴしゃりと私の言葉を遮った。

蒼色の瞳が、私を射抜く。けれど、その光には、真摯さを見抜こうとする気配はなく、ただ軽蔑の色だけが宿っていた。


「う、嘘じゃありません!レオン様のお傍にいる資格など、私にはないと分かったの、で――」


「はあ、本心にもないことを。そんなくだらない嘘をつくなら……僕に振り向いてもらうために努力しなよ」


面倒くさそうに言い放たれたその言葉は、氷の刃よりも鋭く胸に突き刺さる。


私は息を呑んだ。

必死に訴えたはずの想いは、何ひとつ届かない。

レオン様の目には、私の痛みも涙も、ただの戯れにしか映っていないのだ。


込み上げる嗚咽を必死に噛み殺し、スカートの裾を握り締める。

足元の大理石の床が揺れるように見えて、視界がひずむ。


――やはり、彼の心に私の声は届かない。

その現実が、胸を容赦なく締め付けていた。


父も母も口を揃えて、私を諭すどころか叱責した。

胸の奥から必死に絞り出した言葉も、ただの駄々にしか聞こえなかったのだろう。


そして、最後の望みをかけて伝えたレオン様にも――

わたしの必死な訴えは軽くあしらわれてしまった。


……誰も、私の孤独を、悲しみを理解してくれなかった。

私の胸を引き裂くような痛みも、夜ごと涙に濡れる枕も、何ひとつ。


婚約を破棄したいと願う自分は、ただの我が儘なのだろうか。

彼を諦めたいのに、まだ好きでい続けてしまう自分が、馬鹿なのだろうか。


「どうすれば……」


小さく零した声は、誰にも届かずに虚空へ消える。

答えはなく、ただ、胸の奥で渦巻く思いが重くのしかかるばかり。


――どうしたらいいの。

この婚約から逃れる術はどこにもない。

愛しているのに、その愛が息苦しくて仕方がない。


出口の見えない迷路に閉じ込められたように、心は苛まれ続けていったが――


「そうだわ……修道院に駆け込もう」


突破口を思いついた瞬間、胸の中で重く澱んでいたものが、かすかに動き出した。


修道院に入るということは、俗世との決別を意味する。修道女となれば、婚約を破棄せざるを得ないだろう。

二度と家に戻れないかもしれない。結婚もしない人生を選ぶことになる。そうであってもいい。

この胸の痛みを毎晩抱え続けるくらいなら、むしろ身を引くことで、自分を――そして彼を解放する方が、まだましだと私は思った。


「二度と結婚できなくてもかまわない」


口に出すと、その言葉の冷たさが骨にまで染みた。


「ううん、こんな辛い思いをするなら、結婚しない方が良い。もう誰かを愛したりしないわ……」


決意を胸に、私は誰にも告げず支度を進めた。

修道院の規律や受け入れの手順を調べ、夜明けには出立できるよう馬車の手配も整えた。


最後に、震える指で手紙をしたためた。長々と綴るのは怖かった。言葉を重ねれば重ねるほど、未練が滲み出てしまいそうで。

だから私は、簡潔に、けれど心を削るような文面を選んだ。両親宛には謝罪と決意を。レオン様宛には、今まで迷惑をかけた事への謝罪、そしてどうかお幸せに、という祈りを。

インクが紙に染み込み、乾くまでのわずかな時間が、途方もなく長く思えた。


『レオン・クラレス様


長らくご迷惑をおかけいたしました。

このたび、正式に婚約を破棄させていただきたく存じます。

私には、あなた様の隣に立つ資格がありません。

それ以上に貴方をお慕い続けることに、耐えられなくなりました。


よって、近日中に修道院へと入る所存です。


セシリア・レルネ』


書き終えた手紙を静かに畳み、封蝋を落とす。

ひとつは机の棚に隠すようにしまい、もうひとつは明日以降に彼のもとへ届くよう手配した。


そして、夜が更けると……

クローゼットから簡素な服を選び、黒い薄手のマントとフードを肩に掛けた。


夜明けの気配はまだ薄く、空には淡い藍が差し始めたばかりだった。

石畳が足裏に冷たく、吐く息が白く光る。門を出る時、屋敷の灯りが一つ二つと消えていく。家の輪郭が遠のくのを、心のどこかで確かめた。


門の前には頼んでいた馬車が待っていた。


「遠い道のりです。気をつけてくださいませ」


御者は軽くに頭を下げ、私を乗せる。扉が閉まり、布がたなびく。小さな窓から見える景色が、ゆっくりと流れ始めた。


馬車は王都を抜け、水田の広がる平地を過ぎ、やがて丘陵へと差しかかる。朝の靄が薄く漂い、畑の稜線を淡い光が照らしていた。

遠くの山々も、夜明けの光に浮かび上がり、くっきりとした姿を見せる。


私はその風景を窓越しに見つめながら、胸の内に小さな決意をぎゅっと抱きしめる。

――これでいいのだ、と。そう何度も、繰り返し心に囁きながら。


御者の掛け声が遠く響き、蹄が石を打つ音が規則正しく続く。

馬車が山道に入ると、道は細く曲がりくねっていた。馬車の揺れが酷くなり、吐き気のような緊張が込み上げる。


「ここを抜ければ、平らな道になりますよ」


御者の声に少し安堵しかけた、その瞬間だった。

山肌を揺るがすような崩落の轟音。御者の叫びとともに、二頭の馬が跳ね上がる。馬車は均衡を失い、大きく横へ傾いた。


それは、ほんの一瞬の出来事だった。


石と土の崩落が雪崩のように押し寄せ、馬車を呑み込み、そのまま急峻な谷底へと真っ逆さまに引きずり込んでいく。


体が宙へ放り出される感覚。

世界が反転し、重力に引き裂かれるような冷たい浮遊感が走る。必死に手を伸ばすが、指先は空を切るだけで、何も掴めなかった。

視界の片隅で、朝の光が淡く滲み、谷の彼方にぼんやりと揺れていた。

――その光が、最後に見た景色だった。


次の瞬間、全てが音を失い、闇に沈むように意識はゆっくりと遠のいていった。

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