(夏休み+バイト)÷2=回想
「いってきます」
ドアを開くと太陽の光が何か恨みでもあるかのようにギラギラときつい視線を向けてくる。更に暑さを助長させるように、そこらかしこでセミが応援合戦を交わしている。
外に出た直後、すぐに足が歩きたくないと駄々をこねる。茹だるような暑さに辟易しつつも、栗原一馬はため息をひとつ落としてから、諦めるように玄関の陰から出た。
家の駐車場に停めてあった愛用の青いマウンテンバイクに跨って、一馬はなるべく汗をかかないようにゆっくりとペダルを踏み出した。
待ちに待った夏休みがようやく始まった。エアコンのない地獄のような教室での定期テストも無事乗り越えて、ようやく一人を満喫できる四十日間にたどり着いたのだ。
例年通りであれば、エアコンが効いた部屋でアイスでも食べながら漫画雑誌でも読み耽っているところだ。
しかし、今年はそうもいかなくなってしまった。
発端は七月に入ったばかりの初夏の出来事。
その頃一馬はあるクラスメイトのことを学校のお昼休み限定で尾行していた。
相手は一馬の所属する二年二組の中心的存在にしてクラスのアイドル、水野朔美だった。
クラスではそんな重要な立場ながら、朔美は昼休みになると必ずクラスから姿を消す。そのことがどうにも気になってしまった一馬は、朔美の昼休み行動記録をほぼ自己満足で書き記していたのだ。
それは二年になってから毎日欠かさず続けていた内密行動であったが、ある日一馬は尾行の最中に日射病で倒れてしまう。
眼を覚ますとそこは朔美行きつけのそば屋にして実家であり、そして朔美の姿があった。つまりは尾行対象に助けられてしまうという失態を犯してしまったのだ。
きっと問い詰められると覚悟していた一馬だったが、なんと朔美は尾行について知っていたというのだ。加えて尾行を撒いた記録まで取っているというおまけ付き。
そこで、一馬と朔美は自分たちが立場は違えと似たような価値観を持っているということに共感し合い、その後の二週間ほどの昼休みを一緒に過ごすことになった。
何度か交流をしていくにつれ、なんとなく仲間意識が芽生え始めたのだろうか、朔美の提案もあり、二人は夏休みも顔を合わせることとなった。
夏休み一日目からインドア派の一馬が外に繰り出しているのは、つまり朔美の提案に厳守しているからに他ならない。
その提案というのが、『栗原の時間を私にちょうだい』である。
ここだけ抜き出すともはや愛の告白としか考えられないものであるが、当然この言葉には続きがあった。
それは夏休みに朔美のそば屋でバイトをしないかということだったのだ。ドギマギしていた一馬は安心しつつも少しがっかりしたような複雑な想いを抱きながら、朔美の邪気の欠片もない笑顔に絆されて、首を縦に振ってしまったというわけだ。
一馬は自分のアイデンティティーを揺るがした事象をずっと考えている
断っても良かったはずなのに、どういうわけかそういうのも悪くないと感じてしまった自分が未だに信じられなかったからだ。
だからその答えは、この夏も朔美と関われば何かわかるかもしれない。
そう自分を納得させて、一馬は約束時間に間に合わせるためにペダルを漕ぐ足を速めた。
◇◇◇
学校へ向かう坂道を横目に過ぎて、繁華街を走らせること五分。
変体かな文字で書かれた『きそば きっぺい』の看板が掛かった和風な建物の前に自転車を停めた。二度と失敗しないように、今日はスポーツドリンクも持参している。
店に入る前に一度喉を潤してから引き戸の前に立った。現在十四時五分前。暖簾は既に掛けられていない。このそば屋は昼時の二時間しか営業をしないようなので、今日は仕事の説明だけなのだろうと一馬は得心した。初バイトという緊張が少しだけ解れたところで一馬は引き戸を開けた。
「ごめんくださーい」
「あ、栗原! 遅いよ待ちくたびれたよー」
店内に入ると、カウンター席に座っていた朔美がこちらに振り向いて頬を膨らませた。
ダークブラウンの髪をアップにして首もとの暑さを回避しているようだ。学校での下ろした髪型ではないため妙に新鮮な感じがする。隙なく整えられた綺麗なフェイスはナチュラルメイクさえも必要ないのではないだろうか。デニムのショートパンツに裾の長い黒のUKテイストなTシャツを、正面にだけ裾を入れてサイドは下ろしてひらひらさせている。制服とはまたイメージが変わってこちらも新鮮だ。
「いや約束の五分前に来てるだろう」
「午後二時約束を午前二時約束と勘違いしたほうが面白いよってメールで言ったじゃん」
「流石にねえよ。つか午前二時に俺が訪ねてきてお前は面白いのかよ」
「やぶさかではないでござる」
「何故武士」
顔を合わせるなり早速茶番を繰り広げる二人。朔美がボケて、それに一馬が冷静に突っ込みを入れるのが、今の二人のスタンダードなスタンスだ。もっとも朔美が本気で言っているのかわざとボケているのかどうかは定かではない。
「まぁまぁ座ってよ。すぐお父さんも来るから」
「おう」
一馬は以前も座った座敷に通されて、朔美は氷の入った麦茶をテーブルに三つ並べた。
一馬の向かいに朔美が腰を下ろして向かい合う。
「……」
「……」
「え、えへへ。おはよ」
「お、おお。おはよう」
朔美が気恥ずかしそうにはにかみ、一馬もまたぶっきら棒にそっぽを向く。
何故いまさら挨拶なのかとか野暮なことは聞かない。つまるところ、お互いにこういう状況に慣れていないのだ。
今の状況を冷静に見てみれば、一馬にとっては女の子の家に御呼ばれしているということになる。
それは朔美にとっても同じで、同年代の男の子が自分の家にいるということを意識しないわけにはいかない。
少し変わった二人ではあるが、思春期の高校生には変わりないのだ。
「あ、あのさ結局バイトってなにすりゃいいんだ?」
あまりにも間が持たなくて、一馬は慌てて話題を捻出した。
「え!? ああ、それはお父さんが来てから――」
慌てて朔美がそう答えたその時、突如として店内にムーディーな音楽が流れ出した。




